コタラの社長日記

スリランカ産ハーブ「コタラヒムブツ」(学術名サラシア・レティキュラータ)を紹介され、世界初のサプリメントを製造!

先ず土地から、

2006-02-18 16:04:40 | Weblog
気を取り直して、
大泉の学園町を見に行きました。
駅の北口から北へ10分チョットと遠いのですが、
殆んど決まりかけた時の事です。

『あの~、ここを買われるのですか?』と、
近くに住んでいる男性が不動産屋さんの目を盗んで話しかけてきました。
『はい、ここにしようと思います』と妻と、義母、僕の3人。
『ここは大雨が降ると水が溢れます、この塀に線が付いているでしょ?ここまで水が着きました。もう一度考え直した方が良いですよ』と小声で男性。

この話を聴いた3人は、顔を見合わせ、
『もう1度家に帰ってお父さんと相談します』と、即決せずに答えました。
2~3日後、断ったのは、云うまでもありません。

もう30年位前の不動産屋さんの話では、『今坪30万円ですが、13~15年前は坪5000円でした』と話していました。
同じ頃、母が買った函南の土地が坪5000円、この頃、函南の土地は坪5万円でした。
13~15年で函南の土地は10倍に成りましたが、
東京と函南では6倍も開きが有ります、
同じ5000円で何故こんな事に成るのでしょう?

そしてこの事が幸いに転じるのでした!


大泉学園駅北口近くの不動産屋さんで、
車で10分程度北に走った辺りの土地でした。

新居探し

2006-02-17 09:11:45 | Weblog
妻は毎日土地探しで、
新聞の不動産広告を頼りに、義母を連れて車で探し回りました。

花小金井に土地を見付け、
4人で住む家を新築しようと決め、
不動産会社に手付け金を持って、僕は妻と2人で出掛けた時の事です。

『手付け金を持ってきた~?何言ってんですか、今朝買わないと男性から電話が来ました。テッキリご主人からだと思い、他の方に売りました』と不動産屋さん。
『え~?誰もそんな電話はしていません、何かの間違いです』と妻と僕。
『そんな事はありません、確かに男性の方から断りの電話が来て、それを受けました』と不動産屋さん。

この電話を掛けたのは、僕では有りませんので、
会社の義父に電話で確かめましたが、違いました。
義父は、不動産屋さんの電話番号も名前も知らなかったのです!

これは未だに謎です、
不動産屋さんが他の人に売りたかったのか?とも、思いますが、
前日契約書を書き、今日手付け金を持ってきた人を断るでしょうか?
不動産屋さんが誰かと間違えたのか、2人で落胆して帰りました・・・
しかし、この事は何かの意思が働いたとしか思えません。


現在の花小金井駅南口。
土地は、花小金井小校庭の東側のだったと思います。
問題は、風が強いと校庭の土が舞うだろうと云う事でした。

義父の再出発

2006-02-16 10:05:39 | Weblog
丁度この頃、妻と結婚しました。

義父は損害額が大きく、
家も売らなくてはならないので、だいぶ落ち込んでいました。
それでも\800万で買った家が、
\1800万で売れたのですから、不幸中の幸いでした。

この時代は、不動産を買えば必ず得をする時代でした。
建物の値段は落ちても、土地の値段が上がりましたので、
最悪でも+-0で、綺麗な分譲地では確実に値上がりが見込めました。

今までの蓄えと家を売ったお金で会社の損害金を埋め、
株屋から足を洗い、残ったお金で麻雀屋を遣りたいと義父は義母に言いました。
義母は大反対をしました!
『毎月少しのお金でも良いから、決まったお金で生活しましょう』と義母が言いました。
『俺が他の仕事に付いても、駐車場のオジサンにしかなれない、それでも良いのか?』と義父。
『それでも良いから、安定した仕事に就いて』と義母。
義父は長年勤めた会社を辞め、小さな証券会社に就職し、又株屋で出直しました。

丁度その頃、僕は30才までに家を欲しくて妻と探していましたので、
一緒に住もうと云う事になりました。


現在のひばりヶ丘駅南口、
当時は、木造の駅でボーリング場がポツリと在ったと思います。

義父の詐欺事件の後始末

2006-02-15 09:02:19 | Weblog
知り合いに頼まれ、
株券を渡した男が株券を持ち逃げしてしまったのです!

株は現金と引き換えなので、何度も断ったそうですが、
以前からの知り合いのタッテノ頼みだったので引き受けたのだそうです。
株券は現金と同じですから、株券と現金の引き換えは当然です。

2~3年後、犯人を警察が見つけましたが、
部屋中ハズレ馬券が散乱していたそうです。

多分ですが、競馬場からハズレ馬券を拾ってきたのだと思います。
義父も同じ事を考えていたようでした。

何と無く、知り合いもイッチョ咬ミしているような感じがしました。
知り合いとは、義母の友達のご主人です。

義父は、彼の事を最初から、
『悪い噂が有る男だから付き合いたくない』と話していましたが、
『もう昔の事でしょ?今は真面目に働いているわよ、知り合いに悪い事はしないでしょ?』との義母の言葉に押された格好でした。

警察も知り合いを取り調べたそうですが、
当然口を割る事は無く、彼はグレーのままでした。
その後、義母と友達の関係も終わりました。

兜町の噂を聴いている義父の勘が当たったのでした・・・

この詐欺のお金を会社に返済するので家を手放す事に成ってしまいました。


静岡県立ガンセンターの河津桜は、
もう少し赤みが強い様な気がします。

義父が遭った詐欺事件

2006-02-14 09:20:00 | Weblog
前述の彼の話では、
『小父さんの麻雀知ってる?腹巻に100万円の束が縦に刺さっているんだよ。普通は半チャン・キャッシュなんだけど、1回終わる毎に清算するんだ、手持ちのお金が終わると、もう出来ない。小父さん、変な所に麻雀タコが出来ていたよな~』と、当時を懐かしみながら笑っていました。

掛け金の大きな麻雀の話は義父から後で聞きましたが、
1回戦30万~50万円位だったようで、
これに1番、2番にプレミアが付くと言っていました。
半チャン4回全部負けると、100万~200万円近く無くなるそうで、
『俺は負けた事が無い、駄目な時でもチャラだった』と笑いながら義父は話していました。
その位強かったのを知っています。

誰に聞いたか忘れましたが、
この辺りのお医者さん達の麻雀も、1人500万円位持って出掛けるそうです。

ひばりヶ丘を越す時が近づいて来ました。

僕と妻と妻の両親とお酉様に行った時の事です。
義父はお酉様でクマデを買い、胸のポケットに刺し、良い調子で歩いていました。
妻と義母は『落としたら縁起が悪いから、ちゃんと持った方が良いよ』と言いましたが、
聞き入れず『大丈夫だよ』と義父。
落としたのに気付き、4人で探し回りましたが、見付かりませんでした。
次の年の初め頃、この2人の勘は当たりました。
義父は3000万―、詐欺に遭ってしまったのです。


義父の最後の住まい、
県立ガンセンターの庭に咲いていた河津桜

競馬と麻雀が大好きだった義父

2006-02-13 09:16:21 | Weblog
義父は競馬と麻雀が大好きでした。
土日は、
必ず朝から競馬のノミ屋に電話し、
馬券を買っていました。
どの位の金額を使っていたかは、
分かりませんが競馬の金額は高額ではないようでした。

麻雀で、度々夜中に帰って来ていたようです。
どんなに遅くとも泊まる事はせず、必ず家に帰り、
朝は家から普通に出勤していましたので、ケジメがありました。
麻雀の掛け金は、だいぶ大きかったようで、
幕内力士が掛け金の大きさに驚き、怖くなって逃げ出したと笑っていました。
普通の麻雀荘では無く、専用のマンションの一室で行っていたようです。

妻の家に僕が友達を連れて遊びに行きますと、一緒に麻雀をして貰うのですが、
大三元、国士無双、など役満が簡単にでき、上がります!
牌を一緒にかき混ぜているので、
詰め込みをしているようには、見えませんがしているのでしょうね!
詰め込みをしてもサイコロを振りますので、
必ず自分の所に良い手牌が来るとは限らないのですが・・・
来ているのでしょうね・・・

僕達との麻雀では、配牌で殆んど出来上がっている手を開けて見せ、
普通の手に変えてくれる事がしばしばでした。
当然、僕達は、お金を賭けません、コーヒーとケーキや食事でした。

義父の小指

2006-02-12 12:03:25 | Weblog
一家は妻が20才の頃、
新座市ひばりヶ丘に越しました。

この頃、
義父は証券会社の取締役を辞め、歩合外務員に成りました。
当時、僕の同級生がデザイン学校を出て、初任給が3万円でした。
義父は200万円位の給料だったそうで、兜町でも評判に成ったそうです。
この話は、義父の弟から聞きました。

この頃、義父は女性に上野でクラブをさせていたそうで、
今考えると、
『高校生の頃から連れられて遊びに行ったし、店を手伝った事も有る』と妻に記憶があるようです。
何と無く分かりそうな感じですが・・・

『小父さんが、上野に飲みに行こうと何回も誘うので待ち合わせしたんだよ、そしたら小父さん小柄だったじゃない、一緒にいた女性は背が高くて二人で腕を組んで待っているんだよ。何か可笑しいな~と思っていたら、そう云う事だった』3回忌の時に会った彼が話していました、

この話が、先日の3回忌の時に聴いた話で、これは唯の小指の話です。


この頃、
保谷市にファミリーレストランのスカイラークが出来ました。
ひばりヶ丘から名前を取ったそうです。

神田に美人喫茶のスカイラークが在りましたが、
同じ経営だったのでしょうか?
当時の鳥の絵が似ているように感じます。

義父と家族

2006-02-11 13:05:53 | Weblog
家族で海水浴に行った時の事だそうです。
子供が溺れそうになりましたら、
『子供は又作れば良い、お前が溺れないようにしろ!』と義母に言ったそうです。
何と言ったら良いのやら・・・

お祖父さんのお葬式は、妻が中学生の頃のようです。
芝の増上寺で行われたそうで、
日本中の証券会社から花と使者が来たそうです。

家に来る大通りは、
弔問客の車であふれ返り、交通整理の警察官が何人も出たそうです。
芝の増上寺にはその後、お祖母さんも一緒に眠っています。

妻と付き合い出し、初めて家に上がらせて貰った時の事です。
家族の写真を見せられ、驚きました!
妻に聞いていた話では、会社員で毎日10時頃タクシーで出社するとの事でした。
会社員で10時出勤って有るの?と思いましたが、写真を見て納得しました・・・
夏の写真でしたが、サングラスを掛けた顔は、ヤクザの顔でした。
家に帰り『根津にKと云う人が居るんだけれど、どこの組か知っている?』と義兄に尋ねました。
義兄は、そのスジの人達には顔が広かったからです。
『K?知らないな~』との返事で、
他の仲間達にも電話で聞いてくれましたが、誰も知りませんでした。

義母や妻の感じからは、想像出来ない違和感が有りました。


僕達が住んだ家の前に在った、
桜小学校。

妻が覚えている、最初の住まい

2006-02-10 12:38:32 | Weblog
妻が覚えている最初の住まいは、
木戸孝光(桂小五郎)の屋敷の中に在る、
離れだったそうで、借りて住んでいたそうです。

妻は木戸孝光の奥さんに可愛がられ、
『小母ちゃまが優しくしてくれて、
クッキーと紅茶をオヤツに出してくれたのよ』と話していました。

広いお屋敷だったそうで、
庭の中にホームレスが住んで居ても誰も気付かなかったそうです。
『主人の帰りが遅いと、子供と3人でしょ、
屋敷が広くて夜は怖かったわよ』と義母が話していました。

3~4才位の妻は、
『呼び鈴を鳴らすと、お手伝いさんが出てくるんだけど、
家が広いから出てくるまで時間が掛かるの、
誰も居ないから首を傾げて又家に入るでしょ、
そうすると又鳴らすのよ、
何回も鳴らしてお手伝いさんをからかったわ、
楽しかった』と懐かしげに話していました。

義父の血を引いているのでしょうね。
根津に越した後も時々呼ばれて、遊びに行っていたそうです。

このお屋敷跡は、どうなったのでしょうか?


写真は、
木戸孝光(桂小五郎)

義父の戦争体験

2006-02-09 10:51:02 | Weblog
『ロシア人達は、動物を解体して食べるのに、内蔵を食べて肉は余り食べないんだよ、だからたまには、肉を貰って食べる事が出来た。万年筆を黒パンに変えたり、珍しい物を探してきては食べ物と交換して生きてきた。食べられれば、それで嬉しいね、食べ物には文句を言わないけれど、山芋はジンマシンが出来るから駄目だね。昔付き合った女が山芋を出したから、俺と別れたいのか?と言い分かれた』などと家族の前で笑いながら平気で話していました。

『捕虜収容所では、1つのベッドに3人が寝るんだけど、両端の2人は死んで真ん中は生き残れるんだよ、ノミやシラミがこちらに移ってくるから分かるんだ。虫は人が死ぬのが分かるんだね~』と話していました。

戦争から帰って来たのは、昭和22年の初め頃だと思います。
『K、只今戻りました!』と最敬礼したそうです。
もう死んでしまったと思っていた息子が帰って来たのですから、両親は大喜びだったに違いありません。
それと、これから結婚する義母もです。

着ていた毛皮の帽子やコートには、
ノミやシラミが蠢いていてお祖母さんが煮沸消毒したそうです。
このシベリア抑留のせいで、
両足の爪先が冬になると痛むと言っていました、凍傷になってしまったようです。

国から出た保障は、10万円と銀杯だったそうです。
半年短くて軍人恩給は貰えなかったそうですが、
半年長ければ命が無かったかも分かりませんので、
早く帰れて良かったと思います。


白く見える埃のようですが、
2月5日に舞った風花です。
丁度夕日と重なりました。