コタラの社長日記

スリランカ産ハーブ「コタラヒムブツ」(学術名サラシア・レティキュラータ)を紹介され、世界初のサプリメントを製造!

ラーメンがご馳走でした!

2005-08-31 11:00:48 | Weblog
幸楽宛の宣伝では有りませんが、ラーメンがご馳走でした。

昨日パートさんの自給が¥40-~¥50、と書きました。
当時近くの建具屋さんで働いていた職人さんが日給¥500-、でした。
中学を卒業後15年位修行した職人さんと変わらない自給ですから、
隣りのおばさんが喜ぶのは当たり前ですね。
ラーメン¥40-、カレーライス¥80-、でした。

この頃の楽しみは映画を観に行く事でした。
三島の東映で映画を観た帰りにラーメンを食べて帰るのが楽しみでした。
三島の本町に大衆食堂という名の店が在り、土曜日はラーメン¥20-、でした。
当然店は大混乱!
順番を待つのも楽しみの一つで、友達と映画の話をしながら待ちました。

ラーメンついでに、
僕が初めてインスタント・ラーメンを食べたのは、
小学校3~4年生の頃だったと思います。
隣りの久保酒店から買いました。
ベニーラーメンと言う名でマルベニ飯田が出していました。
袋から固まったラーメンを出し、
丼に入れ、お湯を注ぎ4分間待ってから食べる物でした。
値段は¥30-、でしたから普通のラーメンと比べると高価でした。


机の上で長々の白猫『ブルー』のお陰も有りました!



大きな白猫『ブルー』

2005-08-30 09:45:28 | Weblog
僕の膝の上でTVを観た後、
宿題のために部屋に入るとついて来て、
机の上に飛び上がり、教科書の上に長々と横になりました。
『遊ぼうよ』とでも言いたそうな感じでゴロっと寝転がります、
触って欲しかったのだと思います。

大きな『ブルー』が横になると、
本やノートが隠れてしまい宿題どころではありませんでした。
しょうがないので頭や身体を撫ぜて上げると、
気持ち良さそうに『グ~グ~』と・・・
猫の『グ~グ~』と言うのを聞くのは嬉しいものです、
毎日同じ繰り返しでした・・・

僕が中学2年生の終わり頃から、
パートさんという言葉を耳にするように成りました。
隣りの家おばさんが、
近くの大土肥に在った、
白十字という会社にパートで働き出し、時給¥40-、だと大喜びでした。
1年働いて仕事に慣れてくると¥45-だと言っていました。
毎日隣りのおばさんの家にはパートさん達が来て賑やかでした。
木造の学校のような建物でした。

ラーメンが¥40-、の時代です。
今の中国の女工さんと同じ位の金額でしょうか?
この会社の跡地は、今はマンションが建っています。


犬好きの方はいらっしゃいませんか?
人間のエゴの犠牲犬達です
http://www.rakuten.co.jp/wanlife/807053/

知り合いからメールが届きました、里親を探しています。
知り合いは現地でボランティアをしているようです。



白猫『ブルー』との日々

2005-08-29 08:49:18 | Weblog
白猫『ブルー』の尻尾は長く真っ直ぐでした。

尻尾が曲がった猫は、
誰かが悪戯をして曲がっているのだと思っていましたら、違うようです。
尻尾が曲がった猫は、
東南アジアから来た猫で、江戸時代の浮世絵に登場しているそうです。
貿易をしていた船に乗って来たとTVで言っていました。
娘が拾ってきたチャオの尻尾は曲がっていて、
身体が見えなく尻尾だけ見た母が、
蛇が家に入っていると大騒ぎした事が有ると妻が笑いながら話していました。

猫の尻尾は獲物に距離感を誤魔化すために動かすのだそうです。
獲物を見つけた時の猫の行動を観察していますと面白いですね。
身体を低くし、尻尾を立てユラユラ動かし、
相手が尻尾の動きに気を取られ、本の少し目を放した隙に飛び掛ります。

TVで猫と犬の先祖は同種だと話していました。
森に入ったのが進化して猫に、草原に入った先祖が犬に進化したのだそうです。

猫は犬を見つけると逃げ、犬は猫を見つけると追い駆けるのは何故なんでしょう?


『ブルー』は台所でご飯を食べ終わると、
チャッカリ僕の膝の上で一緒にテレビを観ていました。


白猫『ブルー』と僕

2005-08-28 11:35:34 | Weblog
白猫『ブルー』は大きく綺麗な猫でした。
身体の大きさを測りましたら、
頭から尻まで50cm、尻尾の長さが25cmありました。
走る姿はアメリカ・ライオンのようで、綺麗と表現出来る猫でした。

僕が家にいる間中ブルーは片時も傍を離れる事はありませんでした。

庭に他の猫が侵入すると威嚇し喧嘩をしますが、身体が大きく強いので無敵でした。

当時姉にねだり高校入学のお祝いに空気銃を買って貰いました。
兵林館製のポンプ銃で、
4、5mm、スコープ付で、30m以内でしたら百発百中でした!
10m少し位でしたら、
朝顔の種、駅弁に付いてくる醤油の赤い蓋も当てることが出来ました。

飛距離は50m位でしたが、
時間差が有り音のほうが早く、有効射程は30m以内でした。
雨の日以外は木に空き缶を針金で吊るし練習していました。
空気銃というよりエアーライフルと言った方がピンときますね。
将来射撃銃を欲しくてカタログを見て研究し、BSAやSKBなども候補でした。
バネ式と違いショックが少ないポンプ式が最良でした。

学校から帰るとエアーライフルを持って射撃の練習に出掛けるのが日課でした。
当然、部活など関係有りませんでした。

ブルーも森の途中まで付いてきて、
決まった場所に来ると縄張りの見回りに出向き、
僕が帰って来る時間には家で待っていました。

白猫『ブルー』

2005-08-27 10:20:11 | Weblog
登校のため家を出ると『ブルー』も一緒に出ます、
出勤なのでしょうか、縄張りの確認なのでしょうか?

僕を迎えに来る場所まで見送るために連れ立って歩いてくれました。
左右に道が分かれる所でブルーは山の方角に歩いていきます。
途中一旦立ち止まり、振り返ってから歩き始めるブルーでした。

その時初めて猫のマーキングを見ましたが、
後ろに真っ直ぐオシッコを飛ばすんです。
水鉄砲のようにオシッコを他の家のゴミ箱に命中させていました。
尻尾を上に上げ、真後ろに飛ぶんですね、見事なものです。

母が生き物が苦手だったので家の中で飼う事は出来ませんでした。

何故母が生き物が苦手になったのかと言いますと、
僕が1~2才位の時、姉が真っ白の猫を拾ってきて家で飼っていたそうです。

この白猫は他の人の家に上がりこんだため、
空気銃で撃たれ死んでしまったのだそうです。
家の猫が他人の家に入り込んだため殺されたので文句も言えず、
ただひたすら謝り、葬ったそうです。
この時から動物を飼いたくないと思うようになったようです。


ブルーな目の「ブルー」と名付けられた白猫

2005-08-26 08:47:24 | Weblog
朝は6時頃に家の中に入ってきて『ニャ~ニャ~』と起こしにきます、
目覚まし時計のような猫でした。
僕が起き上がると顔を足にこすり付け嬉しそうにからみついてきました。

朝はバタバタしますので、
トーストに身体に良いと言われたスキムミルク、野菜が少々でした。

シロにもスキムミルクを飲ませてみようと思い、
熱いお湯で溶かして差し出しました。
シロは顔を持っていきましたが、熱いのが分かり、頭を2~3度横に振りました。
それから驚く行動にでました、
チョッチョと右手を中に入れ熱さを確認し、
かき回し、舐めて、今度は左手でかき回しを2度程繰り返してから飲み始めました。
なんと頭の良い猫なんでしょう!
シロの行動を見ていた僕は、
母にも見るように言い、2人で顔を見合わせ、大笑いをしました。

目が綺麗なブルーなので「ブルー」と名付けました。
この頃観た西部劇の映画の題名に『ブルー』がありました。

真っ白で目がブルーな猫

2005-08-25 08:52:12 | Weblog
真っ白な猫が毎日学校帰りの僕の後を付いてきます。
身体は大きく真っ白で目が綺麗なブルー、
長い尻尾をユラユラと動かす猫でした。

母には『関わっちゃ駄目よ、家で猫を飼えないからね』と言われましたが、
3~4回目に根負けし、残り物のご飯に鰹節を掛けて食べさせました。
喜んで食べ、終わると僕の顔を見ていました、どうやらノラのようです。

彼は僕の帰宅時間を覚えているようで、
雨の日以外は毎日家から100m位の所で待っていました。
雨の日はベランダで待っていました、
僕の顔を見つけると目をゆっくり開け閉めをします、
猫のウインクなのでしょうね。

彼に僕の何が気に入ってくれたのかは分かりませんが、
とにかく毎日迎えに来てくれました。

甥のクリスマス・ツリー

2005-08-24 08:45:04 | Weblog
ケネディーの暗殺は、友達同士の間では話題になりましたが、
先生達が積極的に話す事は無かったように思います。
英語の高橋先生が英雄の条件に当てはまると言っていた位です。

甥の事が出てきますが、
姉が離婚したため僕が中学2年生の時に母が預かりました。
僕と甥は11才違い、姉と僕も11才違い、
甥と姪が11才違い、何か因縁めいたモノを感じました。

この家に越してきて、甥は幼稚園に通い始めました。

この写真の右にヒバの木が立っています、5m位の高さです。
ここで初めて迎えるクリスマスを甥のために飾り付けをした木です。

当時の高さは1m位、綿で雪を作り中々だと思ったものです。
僕が高校を卒業するまでの3年間は毎年飾り付けをし、甥を喜ばせました。
3回飾り付けをしたのですが、毎年木が大きくなるので綿の量が増えていきます、
毎日見ていると分かりませんが、たまに確認すると分かるものですね~・・・
人も同じでしょうか、

この頃です、
僕の学校帰りの後から一匹の猫が付いてきました。










昭和36年に土地を買い、38年に家を建てました

2005-08-23 09:19:52 | Weblog
土地代¥40万ー、家の建築費と庭費¥100万、合計¥140万でした。

昭和37年は中学3年生でした。
函南中学3年G組、担任は津野忠久先生で、
早稲田でロシア文学を学んだと言っていました。
当時34才だと言っていましたので、戦中派です。

この年はマリリンモンローの自殺やキューバ危機が起きた年です。

先生は、マリリンモンローの事を話しましたが、
自殺では無いと言うような感じで話していました。
マリリンモンローの死は、
この頃自殺ではなく他殺説が出てきましたので何か感じていたのでしょうか?

キューバ危機の時は、
ソビエトのフルシショフ首相の勇気が第3次世界大戦から世界を救ったと話していました。

ケネディーの決断が正しかったのか、
フルシショフが正しかったのかは分かりませんが、戦争は無い方が良いですね。


学校の春休みを利用して母と甥3人でリヤカーに荷物を載せ引越しをしました。
函南町八ツ溝から平井の家まで600~700m位ですが、
当時は道が舗装しておらず汗ダクダクでした。
でも初めて住む事が出来る自分達の家です、嬉しくて苦にはなりませんでした。
昭和38年に修善寺工業高校、電気課に入学し、平井の新しい自分達の家から通いました。

風呂はコクリートにタイルを張ったごく普通の浴槽でした。
引越しを終え、
最初の入浴中、多分午後4時頃だったと思います、
ラジオから「ヤング・ワンズ~♪」と流れてきて心地よい気分だったのを覚えています。

この年の秋、ケネディー暗殺のニュースが朝のTVから流れました!




昭和38年当時、一般的な家の建設費用

2005-08-22 09:23:41 | Weblog
歩いて5分の場所に突然出来た函南町役場です。


昭和38年に家を建てました
昭和36年に土地を買い、
翌年に家を建てるために住宅金融公庫に申し込みをしましたがハズレました、
その時のガッカリした母の顔を覚えています。
次の年に又申し込みをしました、
今度は当たりで喜ぶ母の顔が昨日の事のようです。

家の建築には、僕も口を出しました。
瓦が一般的でしたが、地震の事を考えカラー鉄板の屋根。
当時の家の台所は、
コンクリートに小さなタイルが多かったのですが、
学校でステンレスを知りましたので18-8ステンレスで張って貰いました。
今の様な金型で作るシンクでは無く、
職人が曲げたり叩いたりし、溶接で繋いだ物でした。
外装は板を横に張るのが普通でしたが、縦に張り茶色で塗装して貰いました。

建築の坪当たりの単価は¥5万-、で17坪弱。
前年に建てた山下さんが同じ金額でしたので一般的な金額でした。

当時の金融公庫で建てられるぎりぎりの建坪でした、金利は5、5%!
銀行の預金金利より少し安い金利だったと思います。
逆ザヤが可能でしたね。
僕が高校3年生の時、銀行の預金金利は9%前後だったと思いました。

庭や生垣、門まで仕上げて総工費¥100万-、です。
金融公庫から¥43万-、借り、月の支払いは¥2000-、と謄本に書いてあります。

周りは向かいに渡辺さんが一軒し無く、
桑畑と野菜畑でヘンピ所でしたが僕達家族には天国でした。