コタラの社長日記

スリランカ産ハーブ「コタラヒムブツ」(学術名サラシア・レティキュラータ)を紹介され、世界初のサプリメントを製造!

自分の店に飲みに行く・・・

2021-07-27 14:20:15 | Weblog

 どうやら姉は、池袋でバーをやっているようでした、場所は知りません。

 毎日、夜になると着物に着替え、

バーテンダーと手伝いと思われるお姉さんと3人で出かけて行きました。

 『今日は、来ないでよ。他の店に飲みに行ってよ』義兄にお金を渡し、義兄に言いました。

姉から小遣いをもらい、自分の店に飲みに行っているのか、変な話です。

『うん』と義兄は返事をしますが、

夜になると、姉の店に行っているようでした、それも、殆んど毎晩・・・

奇麗な姉が心配だったのでしょうか、分かるような気もしますが、

『お得意さんに変な眼で見られるのが、嫌なのよ』

『分かってるけど、、、もう、行かないよ』

 

姉は26才位だったと思います、奇麗だったので心配だったのでしょう、

でも、水商売ですから、仕方ないですよ。

独り身をよそわなければ、お馴染みさんは出来ません、

当時の池袋

デパートが3か所ありました、西口の東武デパート・東口の西武デパートと三越デパート

 

只の入場券を貰い、東映に通いました。 

 

 


初めて義兄に会った、

2021-07-26 16:10:52 | Weblog

 義兄と初めて会ったのは、

高校1年生の夏休みで、池袋のアパートの2階でした。

 

 『この人と、一緒になるの』と言われましたが、どこが良いのか分かりませんでした。

『初めまして弟です、宜しくお願いします』

『勉強が出来るんだって、大学に行くの?』と、言われましたが、

中学2年生の時『内は貧乏だから、大学にやれないよ~』と母に言われていました。

母の言葉を思い出し『無理みたいです』と答えました。

『N大だったら、入れてやるぞ』と言われました。

『N大のボクシング部のOBだから、顔が利くのよ』と姉に言われましたが、

姉と二人の時、『N大じゃ~、いいよ』と言いました。

 

今、考えれば、入っておくべきだったと思います。

昭和35年~40年頃の池袋

 


景品付きおやつは、

2021-07-23 14:46:49 | Weblog

 弟は、実の子とは違う何かがあるのでしょうか、

この男の子は母が呼び寄せ、姉が働きやすいようにしました。

僕に取っては、弟のような感じです、今も、

姉と僕は11歳違い、この子と僕も11歳違い、

そして、この男の子と義兄の間に出来た女の子も11歳違いです。

何かの因縁でしょうか、

 この子の兄の役目をし、学校から帰ると遊び相手をしました。

家の周りには、同級生や同級生の兄弟たちがいて、

毎日集まって、わいわいがやがやと時間が経つのも忘れて、遊びほうけていました。

鬼ごっこ・缶蹴り・巡査と泥棒・ドッジボール・カクレンボなど、など、

小遣いは、¥20円/1日でした。

この頃の人気おやつは、

グリコのおまけ付キャラメルとハリスの景品が当たるガムなどでした。

グリコの景品は、木で作られたおもちゃから、

プラスチックのおもちゃへ変わり、

野球盤・鳩時計が貰える野球カードなどへ変わっていきました。

ハリスのガムも景品が貰えて人気がありましたが、

いつの間にか、ガムはロッテだけになってしまいました。

 

ハリス株式会社

 

ハリス (菓子メーカー) - Wikipedia

 

 

 

 

 

 

 

 

 


6月7日の甥からの電話で、

2021-07-22 14:41:17 | Weblog

6月2日朝8時30分、義兄が亡くなったと、甥から電話が来ました。

 義兄と初めて会ったのは、高校1年生の夏休みで、池袋のアパートの2階でした。

 

少し前に戻ります、

 中学校生になると、姉が一人で東京に『遊びに来い』と言ってくれました。

姉は結婚して男の子を産み、

離婚しましたが、弟の僕の事も大事にしてくれました。

 僕の事を大事にしてくれたのは、僕が産まれて直ぐの時からのようです。

 家の手伝いをして小遣いが入ると、僕をおぶってお菓子屋へ連れて行ってくれました。

自分のお菓子を買わず、僕だけに買ってくれました。

当然、姉にも食べるように言い、二人で歩きながら食べました。

幼稚園前でしたので、10円有れば飴や駄菓子は買えました。

1円で2個のお菓子や飴もありましたし、

10円で森永や明治、フルヤのキャラメルも買えました。

10円のキャラメルは、この箱の半分でした。

明治もフルヤも、当時のパッケージは見当たりません。


少年週刊誌が発売!

2021-07-19 15:05:19 | Weblog

小学校5年生位の時だと思います。

電車の中で見れるように週刊誌が出ました。

この本のおかげで、

東京に行くとき、外の景色だけを見なくても済むようになりました。

本の名前は、

少年サンデーで、初回の表紙は「巨人軍の新人、長嶋選手」だったと思います。

 

少年サンデー

 

 

週刊少年サンデー - Wikipedia

 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E5%B0%91%E5%B9%B4%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC

 

 


戦後の乗り物

2021-07-15 15:57:27 | Weblog

 トロリーバスは、上野駅が多かったと思います。

 

 上野駅と言えば、

地下通路にホームレスと思われる人達が大勢寝転がっていました。

段ボールを下にひき、ゴザかムシロを上にかけていました。

 目の前には、地下レストランが営業され、

多くの客達が飲み食いしているのに、

食べる事も出来ない人達の姿が重なり合いました。

 この通路を通る度に、子供心ながらもの悲しくなりました。

 

当時のタクシーと思われる車達

 

都営トロリーバス

路面電車

 

  コロナワクチン接種後 

7月8日、14時30分に「コロナワクチン」を接種しました。

僕は、1回目と違い2回目は随分と軽く済みましたが、

妻は、先週まで体がダルイと云っていました。

それで、漢方の先生に薬を処方してもらい、飲みました。

だいぶ楽になったと言っていますが、注射以前には戻っていないようで、

今日も先生の所へ、薬をもらいに出かけました。

2回目は、女性の方がキツイらしいですね。

 

 

 

 

 

 


タクシーは、¥60~¥80円

2021-07-13 14:35:03 | Weblog

 姉が待つのは、新橋駅か東京駅で、

タクシーに乗り、デパートか食事場所に行きます。

 雨の日のタクシー乗り場は行列で、どんな車が来るのかドキドキしました。

料金は¥60~¥80円、¥60円は、日野ルノーで、小さい車でした。

ルノーは2枚ドアーで、後ろに乗り込むのに、

助手席の椅子を前に倒し乗り込まなければなりません。

少し高くても、大きく快適な車に乗りたいと小さい子供ながら思いました。

ルノーだけは出来れば、避けたいタクシーでした。

 ¥70円は、コロナかブルーバードで、¥80円は、クラウンでした。

¥20円高いのですが、出来ればクラウンに乗れるように祈りました。

たまに、路面電車かトロリーバスに乗りました。

路面電車とトロリーバスが走る所は、電線がごちゃごちゃに張られています。

切れたらどうなるのだろうと心配でした。

 

日野ルノー

 

ルノー・4CV - Wikipedia

 

 

 

 

 


東京へ行きました

2021-07-06 14:48:05 | Weblog

 

姉が結婚するまでは、毎月2回~毎週東京に行っていました。

土曜日の授業が終わってから出かけますので、東京に着くのは4時過ぎでした。

 家を出て、駿豆線の駅まで徒歩20分、電車で三島駅まで40分。

三島駅から、鈍行で東京駅まで3時間。

当然、宿題が有れば、持って行きました。

 熱海で、お昼の駅弁、鯛めしとお茶を買い、

鯛めしは¥80円、お好み弁当は¥100円、お茶は、¥20円でした。

アイスクリームは、カップでした。

¥10円と¥20円がありましたが、

外形も味も殆んど同じで、何故値段が違うのか分かりませんでした。

 真鶴を過ぎ、神奈川県も横浜に近づくと、壊れた工場などが点在していました。

『あの建物は、何故壊れているの?』と母に尋ねると、

『戦争の空襲で、爆撃されたのよ』と説明してくれました。

 線路の直ぐそばから、海に向かって点在していました。

その近くは、荒れ果てて雑草が生い茂り、

子供たちが近くに住んでいれば、格好の遊び場だったと思われます。

 

駿豆線の電車・三島~修善寺

 

 

 

 

 

 

 

 


この時代の日当と時給

2021-07-02 14:45:33 | Weblog

この頃、我が家は借家でしたが、家賃は覚えていません。

2件目の大家は、同級生の家で建具屋を営んでいました。

2~3人の建具職人が働いて、

彼らの日当は、¥500/1日だと言っていました。

 

1962年頃、近くに大きな工場が出来、

パートタイマーのおばさん達を大勢募集しました。

パートのおばさん達の時間給は、¥40/1時間でした。

¥40/1hは、すごい値段だと大騒ぎになり、

何百人ものおばさん達が就職しました。

ベテランの建具職人の日当が、500円/1日ですから、

素人のおばさんの時間給40円は、破格だったと思います。

 

僕が小学2年生の頃、中卒の男の子が浅草のアメ横の店に就職しました。

月給が¥1500円だと家族中が大喜びし、

近所の人達に自慢していました。

 1953~1955年頃だったと思います。

 

新橋亭の料理が1品¥500~¥800円。

鯛茶漬けが1品¥800円、カレーライスが¥150円。

東京の食べ物代金の高さには驚きの連続でした。

 

 この頃、母は旅館の浴衣を縫っていました。

1枚¥80円だと言っていました。

寝る間も惜しんで縫うと、8枚/1日だと言っていましたので、

¥640円/1日です、自慢していました。

秋から冬は、綿入れのドテラを縫っていました。

 

鯛茶漬け

急須に入っていたのは、お茶ではなく、薄く品の良い出し汁でした。

わさびも、本わさびのすりおろしでした。

 

鯛のごま茶漬け 作り方・レシピ | クラシル

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クラシル

 

 

 

 

 

 


鯛茶漬け

2021-07-01 15:01:29 | Weblog

『お待ち同様』と穏やか声で、鯛茶漬けがきました。

 

小さめのどんぶりに、ご飯が入っていて、

鯛の白い切り身が、ご飯を隠す位全体に乗せられていました。

鯛の切り身の上に白ごま・細切りの海苔・三つ葉・脇にワサビが添えられています。

どんぶりの隣に、お茶が入った急須が添えられ、

『お茶を掛けてお召し上がり下さい』と言われました。

『うわ~、旨い!』網代の親戚に行くと、

魚のお茶漬けをよく食べますが、

こんなにきれいなお茶漬けは、生まれて初めてでした。

 

 食べ終わるのを待っていたように、姉が帰ってきました。

『お待ち同様、美味しかったでしょ?』

『うん、美味しかった!』

『おいくらですか?』

『¥800円です』

『はい、お世話様でした』と、

帯の間から財布を取り出し、支払いを済ませました。

『ご馳走様でした』とお礼を言い、店を出ました。

 

網代のお茶漬けは、

とれたての魚と云うのが、ミソでしたが、鯵のタタキでした。

生姜が、ピリッと効いているのが、美味しさの秘訣です。

 

鯛茶漬け

 

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