コタラの社長日記

スリランカ産ハーブ「コタラヒムブツ」(学術名サラシア・レティキュラータ)を紹介され、世界初のサプリメントを製造!

自然か延命か?

2008-01-31 08:38:07 | Weblog
たとえ短い期間であっても、
床に伏せていれば、諦めは付きます。
突然となれば、
意識は無いとは云え、本人はもちろん家族は戸惑うでしょう。
そして周りの人達にも驚きでしかありません。

お見舞いに来て貰っても、
意識が無いのですから、如何ともし難い状態です。
それも女性で、
化粧も出来ず無様な姿をさらすのは、更に嫌なのではないでしょうか、

家に帰り、妻にこの事を話しました。
『もし、俺がこの様な事になったら、絶対に延命治療をしないで、自然に任せて欲しいな』と話しました。
『私もそうして欲しい。女だから化粧もしない顔を見せたくないし、元気だった頃の事を覚えてくれていれば、その方が良いから』と言います。

多分、この出来事は社員全員が家に帰り、
将来の事を話し合う事になったのでは、ないでしょか、


三島大社の前にいたノラ猫
縄張り争いがあったのでしょうか、
身体中傷だらけで、呆然としていました。
ノラですから、誰にも看取られず、ひっそりと、でしょう、

延命治療

2008-01-30 08:50:27 | Weblog
延命治療と聞き、
3年前他界した義父が、
オバサンの見舞いに行った時の話を思い出しました。

延命治療を目の当たりにした義父は、
『もう人間では無く、モノが横たわっている感じで、部屋は死臭が漂っていた。あんな状態で生きているのは嫌だね~。延命だから本人の意思では無く、家族の思いだけだものね~』と話していました。

『鶴田、配送係の奥さんが、脳内出血で倒れたそうだよ、それで延命治療を頼んだそうだよ』と話します。
『社長!絶対に言わないで下さいね。延命治療は寄せとは!』と強い口調の鶴田君。

『言わないけれど、俺としては反対だな~。もし俺がそうなった時は、自然に任せて欲しいよ。意識が無く無様な姿をさらしたく無いものな~』と言いました。

一通の電話

2008-01-29 09:24:40 | Weblog
昨日の午後の事です。

配送係りが、
事務所で伝票が書き終わるのを待っています。
そこへ電話が、
『今、本人がここに居ますので代わります』と事務員。
『電話を代わりました。はい、はい』と配送係。

『社長、女房が倒れたそうです。行かせて下さい、大丈夫なようでしたら、又帰ってきます』と配送係。
『そうか~、心配だから早く行って連絡を寄越せ』と促します。

3時頃、
『脳内出血で、もう助からないそうです。自然に任せますか、それとも延命治療をしますか?と言われました』と、配送係から電話が有りました。
『それで、お前は何て言ったの?』と尋ねます。
『延命治療でお願いしますと頼みました』と配送係。
『えっ!?あ~、そうか~、、、』と答えるだけでした。

朝起きたら先ずウガイ

2008-01-24 09:36:58 | Weblog
もう先月の事でしょうか、TVで、
『朝起きたら最初にウガイをしなさい』と放映していました。
『寝ている時、口の中に雑菌が繁殖するので、寝起きで飲食をすると、雑菌が身体の中に入ってしまう』と話していました。

言われれば、納得します。
これで更に納得したのが、
安岡正篤先生が本の中で書いていた「医者いらず」です。
本の中で先生は、
『朝起きたら1番最初にする事は、梅干番茶を飲む事だ』と勧めています。

以前にも、このブログで書いていますが、又書きます。

昔ながらに作られたシワシワの梅干を湯飲みに入れ、
熱い番茶を注ぎ、梅干をクチャクチャに潰して飲む、ただこれだけの事です。
小梅などのカリカリの梅は、梅漬けで梅干ではないそうです。

梅干には、殺菌作用、食欲をそそる作用、
酸っぱさのクエン酸は身体の疲労物質の乳酸を素早くエネルギーに戻す作用もあるそうです。

母は、『梅干は朝食べなさい、夜は毒です』と言っていました。
これも納得出来る話です。
夜は寝るだけで、
食欲を増しエネルギーを蓄積する必要がないからです。

科学や化学が進み伝承医療を馬鹿にする風潮がありますが、
昔の人達の知恵を思い出して欲しいものです。
伝承医学を馬鹿にする科学者、化学者も、昔の人達に育てられたのですから、

梅干を焼酎に入れて飲む人が居ますが、肴を食べ過ぎませんか?


安岡正篤先生の本を探していましら、このHPにたどり着きました。
http://kawachi-news.com/yasuokamasahiromain1.html

会社訪問

2008-01-23 14:41:04 | Weblog
昨日は、韓国の大学生、
女性3名、男性2名の会社訪問を受けました。
沼津信用金庫と沼津産業振興プラザの引率です。

日大の女生徒が通訳で、
『日本語は、分かりますか?』の質問に、
『私、韓国人では有りません』と言われ、
顔形からは国境は有りません、もう同じ東洋人です。

何故韓国の大学生が、
日本の企業を視察するのかは、分かりません。
何故ならば、母国にも弊社と同じ位の規模で、
塗装の仕事をしている会社が在るはずだからです。

日本で何を学び、帰るのかは分かりませんが、
彼らの真剣さには驚きます。

『40年前の日本の学生の様です』と沼信の方は言っていました。
全部では無いでしょうが、
今の日本の学生に生活苦はないでしょうから、危機感も無いのでしょう。
でも、日本に来て、
企業訪問出来る韓国の学生ならば、生活には困っていないとも思いますが、

一通り現場で説明し終わり、休息です。
事務の娘が「コタラの葉」を出しましたので、
お茶菓子にクッキーを箱ごと出しました。

かなりの数量が入っている大き目の箱ですが、
もう自分達のモノと云う感じで分け出しました。
食べるだけ食べ終わると、ポケットに入れ、箱は空でした。

昼食を満足に食べさせて貰えなかったのでしょうか?
それとも珍しかったのでしょうか?
唖然とさせられましたが、笑えました。


お土産で貰った「福」と書かれた巾着袋

雪の日の思い出

2008-01-22 09:57:43 | Weblog
小学校1年生の春休みだったと思います。

東京で働いていた姉に会いに行った帰り、
見送りの姉と母が、
新橋駅のホームで話をしていました。

汽車の到着を持っていると、
雪がみるみる内に積もっていきます。
七五三で買って貰ったコートに学生帽を被った僕は、
大好きな姉との別れが辛く、
小さな雪だるまをもくもくと作りました。

この頃です。
姉が持って来た「平凡」か「明星」に、
丘の上に建つ白い家に行く途中の庭で、
車に乗った歌手のフランク永井さんが、
ニッコリ微笑んでいる写真が掲載されていました。
白いレンガ造りの家だと書いてありました。

多分、車はジャガーXK120のロードスターだったと思います。

雪景色

2008-01-21 10:45:01 | Weblog
今朝起きましたら、
庭に雪が積もっていました。

最初の雪の思い出と云えば、
11才年上の姉が、
中学最後の年に雪だるまを作ってくれた事でしょうか、
当時は、6畳1間の納戸に間借りしていました。

東北の角部屋で、畳は無く、ゴザを引いただけの部屋は、
隙間風が入り込み寒さに震えていました。
ゴザの下には、新聞紙が敷き詰められ、風が入るのを防いでいました。

母が着物の仕立てで生計を立てていたので、
火鉢の炭が欠かせなかったのが幸いと云えば幸いでした。
炭を入れたアイロン、コテなどを使っていましたので、
真夏でも火鉢の中の真っ赤な炭は必需品でした。

冬は炭を入れたコタツが、唯一の暖房でし、
寝る時は湯たんぽがお友達でした。

今は、あの頃の寒さを感じられません。
地球温暖化の性でしょうか、
それとも豊かになった衣食住のお陰でしょうか、

長泉商工会

2008-01-19 09:17:09 | Weblog
15日に三島プラザホテルで、
長泉商工会の賀詞交換会が行われました。

同じ工業団地の社長が商工会の会長で、
強く勧められ『ま~、これも縁かな?』と云う事でした。
会員に成ればなったで、何と無く馴染めます。

長泉町は、企業誘致が盛んに行われています。
今の町長、先代の町長と、
お2人は気さくな方達で腰も低く好感が持てます。

長泉町長から『長泉に来たいと、十数社からオファーが来ていますが、土地の問題が有り、5~6社の誘致しか出来ませんし、今年越してきた会社が1万坪の土地を探しています。そして長泉の人口は4万人を超えました』と、話しました。

僕が越してきた平成元年には、28000人でしたから、凄い人口増加です。

隣りに座っているオジサンが、
『僕が子供の頃の長泉の人口は2500人でしたよ』と話します。
『え~、そんなに少なかったんですか~?』と答えます。
『そ~なんですよ。僕は三軒家で45年もラーメン屋を遣っています』とのこと。
長泉町で、行列が出来るラーメン屋の事を聴こうと思っていた矢先でした、、、
聴かなくて良かった~!

長泉町長
https://japan.nagaizumi.org/gyousei/mayor_aisatu.html

網代の思い出

2008-01-18 09:29:34 | Weblog
母の実家でしたし、唯一の親戚でした。
祖母やオジサンの病気見舞いで、
小学生の頃は網代によく連れられて行きました。

網代に行くには熱海駅で乗り換えです。
何度行っても熱海駅の混雑には驚いたものです。

進駐軍も多く、目の前で買った煎餅を一口食べ、
不味かったのでしょう、線路に吐き出し、残りを貰った事もありました。

売店で買って貰う、
1個10円の砂糖をまぶした豆や塩豆、アイスクリームも魅力でした。

同年代の友達もでき、一緒に遊ぶのが楽しみでした。
夏は海岸で磯物やサザエ、アワビ取り、
ナマコ、ウミウシ、イソギンチャクをオモチャにしました。

お寺の境内や墓場でのチャンバラゴッコ、
巻き火薬の拳銃の打ち合い、鬼ごっこなど、子供が大勢集まりました。

映画館が二つも在り、
夜は50円札を握り締め、
ワクワクしながら出掛けて行ったのが、昨日の事の様です。


熱海市網代町
http://www.uptown-izu.com/station/ajiro/

時の流れ

2008-01-17 08:56:29 | Weblog
お通夜で、
懐かしい顔達に出会いましたから、
次の日の葬儀にも参加しました。

帰りの挨拶を交わし、車で出ようとすると、
2番目の従姉が悪い足を引きずりながら近寄ってきました。
『元気でね~!』と言いますと、
『元気でね~!』と答えます。

その顔は、
もう生きている間に、会う事が出来ないかもしれないと、
言っている様な感じでした。

時の流れは、
色々な事を乗り越えて来たと云う自信と、
思い出を綺麗にもするし、現実と云う残酷さも突き付けます。

自分では、
20才からの延長線上で生きていると思っても、
もう、その様な事を、
考えなければならない年に入ったのでしょうか、


網代の祭り
http://www.ajiro.com/
小さい頃は、
従兄に連れて行って貰い、一緒に山車を引きました。
ヒックリ返った山車を引いていた事もあります。
乗っていた人達は、大丈夫だったのでしょうか、