コタラの社長日記

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今度は、僕の父でした

2005-05-28 10:51:49 | Weblog
東京バ~バの葬儀が終わりホットしたのも束の間の事でした。
今度は、僕の父が危篤だと入院先の病院から電話が有りました。

父と僕は、一緒に暮らした事が有りませんでした。

父が話したがらないのでよく知りませんが、
父は私生児として生まれ、里子に出され育てられたのだそうです。
成長とともに継母と折り合いが悪くなり、家を飛び出したと申しておりました。
旧制中学卒業後、職を転々と変え、芸人になりました。

徴兵で兵隊になり、そこで母と知り合ったのだそうです。

僕は、物心付き始めた頃の事をうろ覚えながら覚えています。
父に連れられて何回か一緒に興行主の所に挨拶に行ったりしました。
父は座長で10数人の芸人を連れて全国を回ったようです。
近くの公演に出かけますと、僕は『坊ちゃん』と呼ばれていました。
当時はダイブ羽振りが良かったようです。

博打場にも連れて行かれた事が有りました。
伊豆長岡の旅館の一室で花札です、
電球の傘に丸い黒い布が巻いて有り、今思うとスポット・ライトの代わりだと思います。
ライトの真ん中に座布団が置かれ、花札がまかれ、始まりです。
父の話では、僕は大人しくジット勝負を見ていたそうです。

父は東京の浅草で他の女性と一緒に暮らしていました。
その女性の話ですと、僕が小学校低学年の頃、
麻雀で負け、当時のお金で2000万円損したのだそうです。
博打好きと羽振りの良さが分ると思います。

父との思いでは、小学校3年生の時に父の実家が在る千葉に行った事位です。
何日間か親戚の家に泊めて貰い、色々な場所に連れて行って貰いました。
僕の苗字は珍しいのですが、
父が他の人を呼ぶのに同じ苗字を呼びましたので、千葉には多いのかなと思いました。

『売り出しの頃の北島三郎を1座で使ってた』と言うのが父の自慢でした。

当時、静岡で公演が有ると家に立ち寄る生活でした。
母にすれば面白く無い事です、当然喧嘩が絶えませんでした。
『もう2度と家に来るな!』と僕が言ったのは、高校3年生の時でした。
これ以来2度と家に来る事は有りませんでしたが、時々電話では話をしていました。

一緒に暮らしていたオバサンが亡くなってから、電話の回数が多くなりました。
僕は1年に1、2度は顔を出し、様子を見る事が10年以上続きました。
茨城ですから遠いですよね。

『今これだけ持っている』と元気な時に貯金通帳を見せられましたが、
亡くなってから調べましたら、2000万円以上のお金が消え、たいして残っていませんでした。
一人暮らしの老人に付け入り、持って行った女性親子がいるようです。
住んでいた家はオバサンとの約束で、オバサンの妹の名義にしました。
お墓は生前に作り、これも自慢しておりました。

病院からの呼び出しの電話の後、このような思い出が懐かしく思い出されました。
4月初めの事でございます。