1 左 琴きゝ橋 2 右 かつらがわ 三川合流点から 18㎞
一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に
ひかれて来にけん望月の駒
琴の名手として知られた小督(生没年未詳)は,高倉天皇(1161~81)の寵愛を受けたが,中宮の父平清盛(1118~81)の逆鱗に触れ,内裏を出て嵯峨野に隠れ住んだ。天皇から捜索の命を受けた源仲国(生没年未詳)は,彼女の琴の音を頼りに居所を尋ね当てたという。この石標は小督の弾く「想夫恋」を仲国が聞いたと伝える橋跡を示すものである。
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ロータリークラブ 建立
桂川 距離標 18㎞
八幡の淀川・木津川・宇治川の合流点からの距離
3 京都 大正十三年十月 三宅安兵衛依遺志建之
嵯峨御所大本山大覚寺 北十丁
南北両朝御媾和之旧蹟大覚寺 北十丁
関連記事 ➡ 関連0002 三宅安兵衛の道標
4 史蹟 及 名勝 嵐山
昭和9年10月建設
道標 前回の 記事 ➡ 道標右0146 嵯峨の細みち
五七五
冬凪といふと雖も浪の音 /虚子
京ことば イラウ 触る。「ソンナン危ないしイラワントイテ」
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愛宕山
小倉山
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き下0684 京都タワー 雨と晴れ
五七五
雁さはぐ鳥羽の田面や寒の雨 /芭蕉
京ことば イヌ(往ぬ・いぬ) 帰る。 「もうイヌワ」
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京博 とりづくし 干支を愛でる
ポスター前回の記事 ➡ ポスター0082 北野をどり 上七軒歌舞練場
五七五
おもしろし雪にやらなん冬の雨 /芭蕉
京ことば イチビル 調子に乗ってふざける。「イチビッてばかりでどもならん」
雨模様の中の京都タワー
カメラのレンズにも 雨がかかっているのかな
同じ日の 2時間後 ビルに写る京都タワー
見上げる 京都タワー
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き中0683 古い 看板
五七五
冬雲は薄くもならず濃くもならず /虚子
京ことば イチゲンハン なじみでなく、初めての客。「イチゲンハンはお断りドッセ」
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かし車 とも書かれています
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き中0682 この柱 門柱かも
五七五
静かなる樫の木原や冬の月 /蕪村
京ことば イカツイ いかめしい。「あの人、イカツイ顔付したハルナー」
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この地は、醍醐天皇の皇子で左、右大臣を歴任した源高明(914~982)の西宮領跡と推定されており、昭和50年の秋、建設にさきだって平安京調査会が発掘調査を実施した。その結果、地表下約2mのところで、平安京を南北にはしる西大宮大路と推定される道路跡の一部と、掘立柱建物跡を発見した。道路跡は、西側溝と路面の一部を残していたが、側溝内には、木簡、中国製陶器の破片をはじめ、人面墨書土器、厄除けの人がた、けずりかけ、祈雨祭祀の土馬など、多数の遺物が遺存していた。また、路面には偶然にも牛車のわだちが明瞭にのこっていたが、これは特記すべき貴重な発見であった。
道路跡の西側から検出された掘立柱建物跡は、その全貌を明らかにすることはできなかったが、かなり大規模なので、貴族の邸宅跡とも考えられる。これらの遺構や遺物は、いずれも平安前期に属し、今後の平安京跡研究上標準資料となり得るものである。昭和52年 京都市
石碑 前回の記事 ➡ 道標右0147 渡月橋 にある 道しるべ
五七五
ふんどしに脇ざしさして冬の月 /一茶
京ことば イケズ 意地悪。「あの人、イケズばっかりしハル」
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まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き上0681 おっ 突き当り 地蔵さんの横に 石仏がありそうだ
五七五
この木戸や鎖のさゝれて冬の月 /其角
京ことば イカキ ざる。竹で編んだかご。 イカケとも。
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まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き上0680 京都御苑内の自転車のわだち
五七五
冬日いま瞼にあてて重たけれ /虚子
京ことば イーヒン いない。「あの人もうイーヒン」
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