桓武天皇御母御陵参道
大阪皇陵巡拝會
大枝陵道 敷地 と書かれています
ようやく 着きそうです
父 高野乙継
母 大枝真妹
夫 光仁天皇
子 桓武天皇
光仁天皇夫人 贈太皇太后
天高知日之子姫尊
大枝陵
光仁天皇夫人高野新笠を埋葬した陵墓。父は高野乙継といい、百済系大和の後裔、母は土師氏一族の大枝真妹という。光仁天皇が東宮のときに入妃し、桓武天皇が生まれた。延暦8年(789)12月28日崩御。年齢不詳。翌9年1月15日この地に埋葬された。明治13年(1880)12月、現在のところに治定された。
陵より南を見るが 木々だけです
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陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓西009 宇波多陵 桓武天皇の夫人
社号標 題字は 梅原猛 とあります
石鳥居の 扁額
石鳥居 享保16年(1731)の建立
拝殿とその奥の本殿
大枝神社
康保4年(967)施行の『延喜式』には神社の名前として「乙訓郡大井神社」と記載されている。現在の氏神は高美計神である。この地の先住民である大枝氏の祭祀神といわれている。しかし、はじめは聖徳太子の幼児の像が祀られていたところから千児明神と称していた。現在、児子神社はこれより東方、大枝塚原町の地にある。
境内には享保8年(1723)と記された石燈籠があり、江戸時代にはさかえた様がうかがわれる。神紋は双葉葵である。
明治6年(1873)村社に公定される。現在、沓掛町の氏神として人々に親しまれている。
境内地2反4畝16歩(736坪 約2433㎡)
大礼祭は5月21日(近年は21日の直前日曜日)
大枝神社奉賛会
狛犬
享保8年(1723) 建立の 灯籠
末社 左は 天満宮
末社 不動明王
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梅原 猛 書の石碑➡ 石碑2 八ツ橋 発祥之地 熊野神社内
神社 前回の記事 ➡ 神社西0050 兒子神社
道沿いに 草に被われた階段がわずかに見えました
奥に 石柱のようなものがありました
石碑の裏に回ってみました
明治39年(1906)9月1日 建立
建立年から 日露戦争に参戦され戦死された村出身の人たちでしょう
8名の名が記されています
全員 陸軍 です
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石碑 前回の記事 ➡
参道
クスノキ
第2鳥居です
扁額 兒子神社
狛犬
昭和61年7月 建立
手水鉢 左は井戸か
拝殿と 本殿
児子神社
塚原宮田にあり、祭神は兒子大国御魂神を祀る。
聖徳太子の幼児の像が祀られてあるので児子神社と呼ばれていると云われている。
寛文11年(1671)に祭祀境内地7反5畝10歩、境内に4社の末社があり、
一説には茨田神社址であるとも云われているが、
大枝の地が宇波多の云われているところからきたものと思われる。
茨田神社とは河川の工事に功績のあった茨田氏を奉祀した神社で、
延喜式神名帖にかかげる【乙訓群茨田神社】で、
其の所在があきらかでないところからのものであろう。
明治6年(1873)、村社に公定される。
本殿前の 狛犬
阿吽の口の開きが反対の位置にあるようです 吽阿の位置にあります
末社 稲荷神社
末社 猿田彦神社
末社 左 水神社
神社 前回の記事 ➡ 神社西0049 三ノ宮神社 ここにも三宮神社がありました
辰巳公園に空爆、当時はB29の空襲 この日は焼夷弾ではなく 爆弾でした
ここ 上京区だけでなく 東山区・馬町 右京区・太秦 の 被災に記されています
上京区では 偶然にも平安時代の大内裏内に投下されています
平成28年6月25日 文追加
昭和20年(1945)6月26日昼前、低い雲の上空に敵機B29の爆音が近づき、突然に轟然たる爆発音とともにすさまじい土煙が上がった。この時の被爆は上長者町通より南は下立売通、東は大宮通、西は浄福寺通に至る方400mの地域で、当時の報告には50キロ爆弾7発とも5発ともいわれた。
報道管制のため、その状況は、多くの市民の知るところとならなかったが、西陣警察署の記録によると
1 負傷者 即死 43人、重傷 13人、軽傷 43人 計109人
2 被害家屋 全壊 71戸、半壊 84戸、一部損壊 137戸
計292戸
3 罹災者 850人
であった。ちなみにこの辰巳公園も被災地跡にできたものである。
第2次世界大戦(大東亜戦争)において京都市は非戦災都市と言われてきたか、東山区馬町と太秦の三菱工場および当地域が爆撃をうけたものであり、当地域が最も犠牲者を出したのである。
ここに戦後60年を期して、この悲惨な空爆の事実を伝えるためこの碑を建立して後世への記録と留める
平成17年8月
空爆被災を記録する碑の建立委員会
この地図には 空襲(空爆)という言葉が使われている
戦後 前回の記事 ➡ 戦後003 西陣空襲の爆弾の破片
参陵道 と読める
大阪皇陵巡拝 會の字は埋もれているのか
三ノ宮神社の 社号標 の前に建てられています
右は 三ノ宮神社 本殿へ
左は 宇波多陵への 参道
宇波多陵道 敷地 と書かれています
山道を登りきったところに 陵墓がありました
宇波多陵(藤原旅子)
父 藤原百川
夫 桓武天皇
息子 淳和天皇
宇波多陵
三ノ宮神社の脇道を山中を登っていく
桓武天皇夫人藤原旅子を葬った陵墓、南を正面とする円墳。
夫人は贈太政大臣藤原百川の女で、延暦の初め天皇の後宮に仕え、
淳和天皇を生み、延暦7年(788)5月4日、30歳で亡くなった。
淳和天皇即位後、皇太后を追贈された。
この陵は明治13年(1880)12月の治定。
「宇波多」は「茨田」の転訛によるといわれ、
式内茨田神社は現在その場所が不明。この近くと推定されている。
帰り道 来た道を下ります
関連記事 ⇒ まとめ042 陵墓
関連記事 ➡ 桓武天皇 柏原陵 散歩に訪れる人も多い
陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓右008 暲子内親王 陵 父・鳥羽天皇 母・美福門院 弟・近衛天皇
昭和56年3月の建立
次の石鳥居が見えてきました
左は 宇波多陵 への参道
右は 神社の石鳥居
石でできた 扁額 三ノ宮神社 と記されていました
昭和56年5月の建立
拝殿です
本殿です
末社の 八幡宮
末社
神社 前回の 記事 ➡ 神社上0048 桜宮神社 古い歴史があります
道の両側から 竹が迫ってきます
見上げると こんな感じです
車が通らなければ 竹の雰囲気がたっぷり味わえそうですが
車は少ないですが通ります
竹の道 ➡ まち歩き伏0303 深草の竹林の道
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き上0112 一条戻橋の話 (十三 ) 結婚するとき 京で有名な橋
川柳
腰よりも 口につけたい 万歩計 /鈴木
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地福寺
文治2年(1186)法然上人の弟子花元上人が創建したとつたえる天林山と号する西山浄土宗の寺。本堂に安置する本尊阿弥陀如来坐像(平安時代)は一木彫、等身大、黒漆を塗った重厚味のある像。もと松尾の葉室山中にあった峰ケ堂の遺仏、あるいはそれより古い松尾山寺の関係の遺仏ともみられている
扁額は 天林山 と号されています
西側の道からの 入口
寺院の前回の 記事 ➡ 寺院上0116 浄圓寺 浄土宗 乾観世音第19番 新選組 花・ハナミズキ