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寺院上0112  勝福寺  浄土真宗本願寺派  

2016年06月24日 20時25分15秒 | 寺院

街の中のお寺です

浄土真宗 本願寺派

 

石碑  親鸞聖人 御草案清水庵

真佛房平太郎御化導

 

 

勝福寺(親鸞聖人旧蹟)

寺伝によれば、当寺はもと「清水庵」「一絛坊」と呼ばれ、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人(1173~1262)が一時派期住居とした旧蹟である。親鸞聖人は布教のため関東にて約20年を過ごしたが、故郷の京都に戻ってきたのは、60歳を過ぎた頃といわれる。帰洛後は主に「教行信証」(親鸞の集大成的著作)の補筆完成に精進いると共に、都での教化活動にも力を注いだ。帰洛後の住まいについては、洛中を転々としたが、嘉禎2年(1236)に一条附近にあった清水庵に居住したという。当寺に残る「御生骨縁起」によると、この寺で教化している時、親鸞聖人の歯が抜け落ち、「秋はつる 落葉は冬ぞ いざさらば 無量寿国の春ぞ なつかし」と一首詠んだ。

四季の移ろいの中に自らの老いを重ねるというその歌に感動した弟子の真仏房平太郎は、聖人に、形見に歯を所望したところ、その願いを聴きいれ、自ら彫った木像を共に与えた。それが当寺に伝わる「落葉の尊形(親鸞像)」であり、その由来である。永正16年(1519)に本願寺第9世の実如上人は当時の一條坊善正に対し、「当寺が親鸞聖人の重要な旧蹟であること、また落葉の尊形を子々孫々大事に保管せよ」と書状を与えている。 京都市

文 平成28年6月23日 追加

 

寺院 前回の記事  ➡ 

   寺院上0111  智恵光院 浄土宗  洛陽48願所  六臂(ろっぴ)地蔵尊が有名  文追加

 


寺院上0111  智恵光院 浄土宗  洛陽48願所  六臂(ろっぴ)地蔵尊が有名  

2016年06月24日 07時03分14秒 | 寺院

国宝があるようだ

 浄土宗

 

智恵光院

称念山平等寺と号する浄土宗の寺で、通り名の由来となっている。

永仁2年(1294)に鷹司家の祖・関白鷹司兼平が一族の菩提寺として、如空国師を開山に請じ創建したのが起こりと伝えられる。その後、聞益上人によって塔頭が整えられ、隆盛を極めた。

享保15年(1730)と天明8年(1788)の大火ですべて焼失し、漸次再興されたが、第2次世界大戦中、強制疎開で塔頭4院も廃寺とされ、現在の規模に縮小された。本堂には、本尊阿弥陀如来像が祀られている。また、地蔵堂には、仏教で死後にいずれかに転生するとされる6つの世界、「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人道」「天道」のすべてを救う力を一体の像に込めて、小野篁が作ったとされる、6本の手を持つ六臂地蔵像が安置されている。そのほか、弁財天を祀った小堂などがある。 京都市  

平成28年6月23日 文追加

 

左から 鐘楼  智徳弁財天  六臂(ろっぴ)地蔵尊

 

 

智徳弁財天

 

洛陽48願所 地蔵尊 第15番札所 

 

六臂(ろっぴ)地蔵尊

 

京都の六地蔵尊を一々巡礼するは、なかなかなればこれを一体にきざみて礼拝すれば功徳まことに大ならん、六道の六地蔵の臂の変れるをとり入れて精進潔斎し密室に入りて一刀三礼うやしく彫りたてまつれる尊像、即ち当院安置の六臂地蔵尊なり。人皇55代文徳天皇の参議小野篁卿のほりたてまつりし日本唯一体の尊像なり。

平成28年6月23日 文追加

 

 

 

本堂

 

智恵姫稲荷

 

 

京都では、8月22日・23日の両日に、都の入口(旧街道)六ヵ所にあるお地蔵さんを巡拝して、

家内安全、無病息災を祈願する「六地蔵巡り」が行われます。

1.大善寺   伏見六地蔵
2.浄禅寺   鳥羽地蔵
3.地蔵寺   桂地蔵
4.源光寺   常盤地蔵           
5.上善寺   鞍馬口地蔵
6.徳林庵   山科地蔵

以上6ケ所を巡ったと同じ御利益があるとされるのは  六臂地蔵      智恵光院 

小野 篁が彫ったとされる 地蔵尊が安置されている

 

寺院 前回の記事 ➡ 寺院上0110  妙尭寺 日蓮宗  

 

 

 

 

 


祠上012  松永稲荷大明神 は  聚楽第 の  鵲橋(かささぎばし)

2016年06月24日 06時59分45秒 | 聚楽第

 

石柱には 彫りが浅くて見えにくいですが 聚楽城 鵲橋(かささぎばし) と書かれています

   南堀に架けられていたいう橋のあった場所の名残 

昭和36年(1961)でこの辺りで行われた

下水道工事の時に多くの石の欄干や擬宝珠が地中から出土したとのことです。 平成28年6月23日 追加

祠 前回の記事 ➡   祠上011  多己龍神  町の小さな祠  

 


史跡上012  名和長年 戦没地  

2016年06月24日 06時57分05秒 | 史跡・旧跡

 名和長年  今から、700年くらい前のことです 

 

名和長年(なわながとし)

生年不詳~1336年

伯耆国名和(現在の鳥取県大山町)を拠点に海運業を行う豪族であったが、鎌倉幕府倒幕を計画して隠岐に配流されていた後醍醐天皇が島を脱出し、名和湊に上陸して以来、天皇の忠臣となった。船上山(同県琴浦町)において幕府討伐を図る後醍醐天皇を迎えて挙兵、幕府軍に勝利し、戦功をあげた長年は伯耆守に任ぜられ、帆かけ舟の家紋を与えられた。戦では、弓の名手だったと伝えられている。その後、建武の新政下において要職を担ったが、建武3年、武家政治の再興を呼びかけて挙兵した足利尊氏と戦い、当公園の地で討死を遂げたと伝えられている。

平成28年6月22日 説明追加

半分 公園になっています  鳥居は昭和10年建立、左の標中は昭和14年建立

 

これは、昭和11年建立 此付近名和長年戦死之

建立年月 不明

こちらは 昭和14年に建立されたもの

帆掛け船の家紋

 

 

ケヤキ

井戸があったのでしょうか

奉納  全日本国防婦人会 

紀元2600年 竣工記念  と書かれています

これは明治19年1月に建立された 顕彰碑  手前の石柱は 昭和10年建立

御大禮記念樹  昭和か大正か

各柱には 数々の名が刻まれています

 関連記事  ➡   もう1つの名和長年の地 

            関連0008  御大典記念のあるところ  

 史跡前回の記事 ➡  史跡西011  樫原廃寺跡  奈良時代