アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

神社西0043  三ノ宮神社 灯籠

2016年06月19日 06時24分23秒 | 神社

灯籠の向こうに 神社の 社号標がある

 

大正元年(1912)10月建立

 

青年會

 

関連記事 ➡  三宮神社  社号標  

神社 前回の記事  ➡  神社西0042  三宮神社 御旅所  


寺院西0083  大妙寺  日蓮宗 

2016年06月19日 06時22分50秒 | 寺院

 

この地に 近年 移転してきた寺だろうか 

もしかしたら 

元の住所は  京都市上京区寺ノ内通新町西入妙顕寺前町515 -3  かもしれない

 

普賢三宝荒神(京都市文化財) 伝教大師御作  と赤字で書かれています

 

関連記事 ➡ 伝教大師の作  松ヶ崎大黒天  日蓮宗  

         念佛寺  1200年前、伝教大師の母がこの地で過ごし亡くなる  

寺院 前回の記事  ➡  寺院西0082  高圓寺  西山浄土宗 


まち歩き西0089  幕末 維新殉難志士墓

2016年06月19日 06時15分39秒 | まち歩き

 昔の 山陰街道 です

 

  石柱は  維新殉難志士墓在所丘上  と記されている

樫原札の辻三士殉難の地

この樫原の地(元葛野郡岡村、のち川島村と合併して川岡村)は、江戸時代には交通の要衝として、本陣や旅宿が設けられていた所である。

元治元年(1864)7月19日早朝より始まった蛤御門の変では、長州藩は会津、薩摩の両藩を中心とした連合軍に敗れて、多くの兵士が捕殺された。この時、長州勢に属していた三名の兵士がこの地まで逃れてきたが、幕命によりこの辻を警備していた小浜藩兵に囲まれ、討たれて果てた。遺体は放置されていたが、村人たちによってこの丘の中腹に手厚く葬られ、墓標が建てられた。

長州集義隊 楳本僊之助直政

元下野宇都宮藩 相良頼光

同  相良新八郎

なお、相良兄弟は、元薩摩藩と名乗ったともいわれている  京都市

 

坂道を登って行く

 

村人により 手厚く葬られた

 

長州集義隊 楳本僊之助直政

元下野宇都宮藩 相良頼光

同  相良新八郎

なお、相良兄弟は、元薩摩藩と名乗ったともいわれている 

 

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前回 まち歩き 記事  ➡  まち歩き西0088  樫原宿場街と札場