アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

右 銀閣寺  道標・今出川北白川にて

2015年08月28日 15時45分15秒 | 道標

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後二條天皇 北白河陵 ・後二條天皇皇子 邦良親王墓

2015年08月28日 09時42分11秒 | 陵墓

 後宇多天皇(大覚寺統)の第一皇子 ( 1285~1308年)

母は太政大臣堀川基具の養女、西華門院基子(実父は内大臣堀川具守)

後醍醐天皇の異母兄にあたる。

 

 

 

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清風荘 庭園 イギリスのウェールズ皇太子や大津で遭難したロシア皇太子が静養された

2015年08月28日 09時09分08秒 | 建築物・明治・大正など

清風荘

明治・大正・昭和の3代にわたって政界に活躍した西園寺公望の京都における別邸。

公望は嘉永2年(1849)10月ここで生まれた。面積4000坪の広大な邸です。

庭園は明治初年、小川治兵衛によって作庭された。

本邸はイギリスのウェールズ皇太子大津で遭難したロシア皇太子の静養されたところと伝えられている。

歴史的にも由緒深い。

近年京都大学が譲り受け、現在は大学の迎賓館になっている。

 

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進物用に砂糖が使われていたのは 50年以上前の話

2015年08月27日 11時36分00秒 | まち歩き

最近は進物用に砂糖は使われなくなりました

砂糖が貴重な時代でした 1965年くらいまででしょうか

近頃は 糖分の控え目といわれて砂糖を

進物にしなくなっています

 

 

 


石碑 室町幕府・花の御所跡  今出川通室町東北角

2015年08月27日 10時54分26秒 | 道標

この地は,室町幕府三代将軍足利義満(13581408)が造営した将軍家の邸宅跡で幕府が置かれた。

北は上立売通,南は今出川通,東は烏丸通,西は室町通に囲まれた東西一町,

南北二町の規模であった。

仙洞御所や公家邸宅の跡地に造営され,

邸内の樹木苑地が美しかったことから花の御所とも称された。

応仁元(1467)年,戦火で焼失,文明年間(146987)に再建したが再び焼失した

義政・日野富子が暮らした

 

 

従是東北   足利将軍室町第址

 

 

大正四年十一月建之  大正御大典と同年

 

石碑より 東方向を見る 京都御所・御苑がすぐ近く

 

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「五摂家」の二條家邸跡の地下通路と井戸

2015年08月27日 10時35分26秒 | 史跡・旧跡

二條家邸跡

江戸時代、現在の京都御苑の天皇の居所である内裏(京都御所)を中心に

宮家や公家が集住いる空間(公家町)でした。

今出川通の北側にも屋敷が並び、

当地(同支社女子大学東半分)には二條家が広大な屋敷地を構えていました。

二條家は藤原氏を祖とし「五摂家」の1つとして朝廷内では格式の高い家柄にあたります。

 ここに展示した礎石は、女子大学構内の発掘調査(2007年度)で出土したもので、

かつてあった二條家邸の存在を今に伝える貴重な遺産です。

当時の情景に思いを馳せながら、

京都公家社会の息吹を少しでも感じていただけると幸いです。説明板より

幕末期の二條家当主である二條斉敬(1816~1878)は、孝明天皇の関白、明治天皇の摂政となり、

朝廷での重要な舵取りを担った。

彼を訪ねて会津藩主松平容保を始め、将軍・諸大名が数多く屋敷に通っている。

移築した井戸は幕末動乱の中、歴史上重要な二條家屋敷にあった遺構として、

その当時をうかがい知る好資料といえる。

 

二條家邸(江戸時代中期)検出の地下通路

2014年度の新校舎建設に伴う発掘調査で、江戸時代中期の石組の地下式通路を数基確認し、

その1つを移築した。

近世における屋敷図等には「下々道」と記載されるものであり、

この遺構の上部には渡廊下が設置されていたと推測される。

数基の地下式通路は渡り廊下の位置を示しており、

複数の建物が渡り廊下によって接続される上級の公家屋敷であったことがわかる。

二條家が公家の筆頭五摂家であることを感じさせる考古学的に貴重で重要な建築遺構である。

 

 

 

井戸の検出

2014年度の発掘調査で検出された井戸。幕末期の二條家邸で構築された井戸数基のうち1基を移築した。

井戸の深さは、約2.5mであるが、安全を考慮し60㎝に留めて保存を行った。

 

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道標 上京区役所前にあり  天満宮・上かも・東山

2015年08月27日 02時19分46秒 | 道標

上京区役所前に道標

元は室町今出川東北角に立てられた

2015年1月に上京区役所が新築開所したときに現在地に移され

 

南 左 天満宮

 

東 右 上かも

 

西 すく 東山

 

安政5年弥生(1858年)

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太閤地蔵 とか 子安観世音  これは大きい

2015年08月26日 09時51分53秒 | 地蔵尊

太閤地蔵

像の高さは2メートル、花崗岩製、火災にかかったようで表面が磨滅し、

首が取れたのを継いだためやや不釣り合いな形になっている。

近年、顔の部分を彫りなおした、地蔵なのか阿弥陀像なのかよくわからない。

書物には「石地蔵」と明記されている。地域では「子安観音」として親しまれている。

この石地蔵はひとりでに動き出すという稀代の霊仏であるといわれた。

太閤(豊臣秀吉)が「それは珍しいことだ。

是非、己が屋敷(聚楽第)の庭内に移したいものだ。」といって、

北白川から屋敷へ移すことになった。ところが、夜中になると、

この石仏は無気味なうめき声を出し、「白川へ帰りたい」としきりに鳴動するので、

さすがの太閤も困り果てて、「仏には勝てぬ」といって、ついに元の場所に返したという。

他の古文書にも、「希代の大像にして、いずれの代の作といふ事を知らず云々」

と記されている。しかし、鎌倉時代の作であることには間違いない。

子安観世音

ここは昔から白川の村の入り口に当たり、東は山を越えて近江へ向かい、

洛中へは斜めに荒神口に通じていた。

また、出町から百万遍を経て浄土寺へ向かう細道との交差点でもあった。

この堂々たる鎌倉期の石仏は「拾遺都名所図会」に希代の大像として

描かれている阿弥陀像であるが長い年月の間にかなりの風化が見られる。

古来、子安観世音として町の人々の信仰があつく今も白川女は必ずここに花を供えて商いに出る。

御詠歌

みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音

 

 

 

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鴨川・賀茂大橋からの眺め

2015年08月26日 07時26分47秒 | まち歩き

鴨川 

 左の橋は 出町橋  

 右の橋は  河合橋   

 

森の奥は 下鴨神社へと続く

 

亀石を渡る人たち

 

 

右の川は 高野川

賀茂大橋より 南方面(三条大橋)を見る 

平成27年8月12日撮影

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本阿弥光悦京屋敷跡 58歳までこの地に暮す

2015年08月26日 07時11分57秒 | 史跡・旧跡

本阿弥光悦京屋敷跡

この地は足利時代初期より、刀剣の研ぎ、拭ひ、目利きのいわゆる三事を以て、

世に重きをなした本阿弥家代々の屋敷跡として、「本阿弥辻子」の名を今に遺している。

その本阿弥家歴代の中にあって、日本の芸術史上に著しい光彩を放っている光悦は、

永禄元年(1558)実にこの處に呱々の声をあげたのである。

光悦はその家業の三事において、達人の名をほしいままにしたが、

彼の天成の高雅な芸術的人間性は、特に書道に、かつ茶道に、

気韻あふるる富麗清逸の美的境地を聞き、天下の数奇者の敬仰をあつめた。

光悦は元和元年(1615) 58歳、徳川家康から洛北鷹峰に地を与えられ、

寛永14年(1637)、その80歳の生涯を終ふるまでの晩年を、

鷹峰に風流の生を送ったが、

彼の壮んなりし58年の前半生は、ほかならぬ此の地にあって、

家業にいそしむと共に、芸に遊び風月を楽しむ日常を過ごしたのであった

上京区文化振興会書

 

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