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時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 頼 三樹三郎 

2020年10月11日 12時28分03秒 | 教育

1825年、儒学者の頼山陽の三男として京都三本木に誕生した。母は近江商人・疋田藤右衛門の四女・梨影(りえ)。

父・山陽をはじめ、1840年からは大坂の儒学者・後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分とされた。この時には尊皇運動に感化されており、江戸幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。

1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜(一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされた。梁川星巌がコレラで亡くなる際、三樹三郎がその最期を看取ったという。同年、幕府による安政の大獄で捕らえられて、江戸の阿部家福山藩邸において幽閉される。父・山陽の愛弟子である福山藩主の侍講・石川和助は、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行ったが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らとともに斬首された。享年35。墓は京都円山公園の裏にある長楽寺と松蔭神社にある。

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