アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

石碑伏0108  京都歩兵聯隊跡

2017年03月13日 20時29分15秒 | 石碑

 京都歩兵聯隊跡

明治29(1896)年新設された第四師団(大阪)歩兵第三十八聯隊がこの地に駐屯した。明治37(1904)年に深草に司令部を置く第十六師団が新設され,歩兵第三十八聯隊はその配下となった。大正14(1925)年に歩兵第三十八聯隊は奈良に移り,そのあと歩兵第九聯隊が移り終戦に至った。この石標は京都歩兵聯隊跡を示すものである。

舞   伝男書

藤の森神社東側の台上は五十年にわたり郷土歩兵聯隊が駐屯し十万をこえる将兵が苦楽を共にし生死を誓い日夜修身練武に精進した深草兵営の跡である歩兵第九聯隊は明治建軍に当たり明治七年に創設せられて大津にあったこれを母体として明治二十九年歩兵第三十八聯隊が編成され翌三十年七月この兵舎の竣工をまつてこの地に屯した大正十四年五月軍制改革により歩兵第三十八聯隊は奈良に移駐以来歩兵第九聯隊主力がここに駐屯することになった歩兵第九第三十八の両聯隊は明治三十七・八年の日露戦争に出征第四師団に属して南満州の金州・南山・遼陽・奉天の諸会戦に参加して赫赫たる武勲を建てた満州事変にさいしては京都第十六師団の隷下にあつて北満の警備に任じついで昭和十二年支那事変勃発するや北支中支に転戦し南京城を陥れ徐州に戦い長駆大別山を突破して武漢攻略戦に不朽の戦績をのこした歩兵第九聯隊は昭和十六年大東亜戦争劈頭比島に敵前上陸してバターン半島を席捲マニラ攻略の後■力をもつてレイテ島を守備していたが優勢なる米軍主力の反攻を受け死闘数十日ついに聯隊長以下全員軍旗とともに玉砕し光輝ある聯隊の歴史を閉じた時昭和十九年十二月八日歩兵第百九聯隊は昭和十三年この地において編成され中支に出動長期にわたり揚子江中流地域の警備に任ずるほか湘挂・*江の激戦に参加し幾度か敵の重囲に陥りながらよく奮戦力闘を重ね終戦とともに矛を収めて内地に帰還した。このほか大東亜戦争の戦局いよいよ熾烈を極めるにしたがいこの兵舎(通称中部第三十七部隊)において或は動員され或いは兵員を補充された諸部隊は数多くあつたがそのうち主なものを列挙すればインドインパールに進攻した歩兵第六十聯連隊(祭)ビルマの各戦線に苦闘した歩兵第百二十八聯隊(安)沖縄にその最期を飾った歩兵第六十三旅団(石)ミンダナオ島に戦った独立守備歩兵第三十五大隊(幸)本土防衛に任じた護京比叡山城諸兵団の歩兵聯隊等である顧みればこれら諸隊の将兵がこの兵営をあとに出陣するにさいし戦勝と武運の長久とを祈願したのはこの藤森神社であった今や時は移り星は流れて幾春秋かつての勇壮なる軍歌の響きも絶えて久しく懐しき兵営の面影も過去の帳のうちに消え去らんとしているしかしながら祖国を愛し祖国を護り進んで国難に殉じた郷土部隊の光栄ある歴史と名誉ある伝統とは永遠に後世に伝えられるべきである時あたかも明治百年を迎えるに当たりここに京都歩兵聯隊関係者一同あい図り由緒深きこの地を史跡とし先人戦友の遺勲を顕彰して長くその功を讃え陣没した幾多の英霊を慰めるとともに国連の隆盛と世界のい平和とを祈念して思い出多き聖域にこの碑を建てるものである

昭和四十三年四月十八日

京都歩兵聯隊跡記念碑建設会

 

大東亜・・だろうか

石碑 前回の記事 ➡  石碑伏0107   「陸軍」 の文字がここは軍の街だった 

 

五七五

 

もう頭せっけんでエエ妻が決め /やまんば

 

ことわざ

一年の計は元旦にあり(いちねんのけいはがんたんにあり)

 

下のユーザー地図で京都の記事探索が出来ます。試してみてください

 

 



最新の画像もっと見る