アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

寺院北0033  椿寺 (地蔵院)  11面観音の御開帳 

2017年12月20日 19時25分17秒 | 寺院

2017年12月の記事 (2017年1月に撮影)

11面観音の御開帳

 

平成27年4月7日の記事

洛陽33ケ所観音巡礼 第30番札所 11面観音

洛陽48願所地蔵尊 第12番  鋤形地蔵尊

天野屋利兵衛の墓(赤穂浪士の時に活躍)

夜半亭巴人 墓所

豊臣秀吉からの5色八重散椿

キリシタン墓碑

などが有名

右の家では昔 椿餅を売っていたが 今は店を閉めている

平成27年3月30日 撮影

 

 地蔵院(椿寺)

正しくは昆陽山地蔵院という浄土宗の寺で、「椿寺」の愛称で親しまれている。神亀3年(726)に、行基聖武天皇の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した地蔵院が始まりといわれる。その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代初期に戦災で焼失したが、足利義満が金閣寺建立の余財で再建し、天正17年(1589)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、行基作のものと伝えられる。地蔵堂背後の板扉はもと北野天満宮にあった多宝塔の遺構とされる。書院の前庭には、北野大茶湯の縁により秀吉から当寺に寄進されたといわれる「五色八重散椿」があったが、惜しくも枯死し、現在は樹齢約120年の2世が本堂前に花を咲かせている。薄桃色や白に咲き分ける5色の八重椿で、花ごと落ちず、花びらが1枚ずつ散るのを特徴とする。境内には、忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛のものといわれる墓や、与謝蕪村の師にあたる夜半亭巴人の墓などもある。洛陽33所観音霊場の第39番札所である。 京都市

 

 

 散椿です

中央 上部に鳥がいます  蜜を吸っているのでしょう

豊國大明神 と書いてあります  右は 

手水舎

 

鋤形地蔵尊

 

 世継地蔵尊

 

 

 

地蔵尊の裏にある 地蔵

この右手に天野屋利兵衛の墓がある

キリシタン 墓碑です

 

観音様です

弁財天、椿大神、鎮守社 です

 

 10月10日  11面観音菩薩  御開帳  

たまたま 通りがかったら 御開帳になっていました

 

 

 

 

平成29年6月8日 画像追加  (撮影日 平成28年11月28日)  駐車場になるのかな

 

 

関連記事  ➡  04  洛陽33所観音めぐり

           08  洛陽48願所地蔵尊

           京の通称寺  39ヶ寺

 前回の寺院記事  ➡  寺院右0032  称念寺  浄土宗 

五七五

ぼた餅の来べき空なり初時雨 /一茶

京ことば  アガル(上がる) 南北の通りを北へ行く 「河原町をアガッて、少し行ったとこ」

   


建物下007  輪違屋・わちがいや  かつて置屋だった

2017年12月20日 14時47分06秒 | 建築物・明治・大正など

 2017年12月の記事

輪違屋は元禄年間(1688~1704)の創建と伝える置屋で、島原では揚屋である角屋(重要文化財)と並び古い由緒を持っています。平面は、通りニワを南端にとってその北に居室を2列に並べ、通りニワは中戸・結界によって玄関土間、内玄関土間、台所土間に3分されます。居室は土間寄りを表から玄関、内玄関、台所とし、その後方の2室は大きく改造して現在は店舗となっており、さらに後方に仏間が配されています。2列目は板間と居間で、板間には一間幅の階段が付きます。この北西隅には座敷4室からなる客室棟が接続し、また北面には囲いが付きます。2階は傘の間、紅葉の間などの客室9室が配されています。傘の間は12畳で、南面に1間の床と2間の棚を構え、北及び東面の襖には傘が張り付けられています。また紅葉の間の土壁には、赤や黒の押し型の紅葉を散らしています。

この2室は当建築の中で最も凝った座敷となっています。平面構成は複雑ですが、大きくは1階南半分を占める居室部と、1階の北半分及び2階の各部屋で構成される客室部とに2分され、それぞれ動線を分けています。

建築年代については、安政4年(1857)に再建された後、明治4年(1871)に改造が加えられたと伝えます。事実、復原すれば当初は桁行14.8m、梁行10.7mで背面に通りニワが突出する規模となって、客室棟はなくなり、さらに板間の幅一間の階段や紅葉の間の後の改築によるものと判明します。

いっぽう、明治7年の祈祷札が残り、また明治4年8月の「町中絵図」(当家所蔵)に描かれている建物の外形が現況に近いことから、このときにはほぼ現在の姿になっていたことがうがわれます。したがって、客室棟等の増築時期は材の古さなどから見て明治4年をあまり遡らない時期、おそらく明治時代初年で、板間の階段や紅葉の間もおそらくこれと同時期に改築されたものと思われます。輪違屋は、古い置屋の遺構として貴重であり、建築的にも質が高く、その座敷の斬新な意匠には目を見張るものがあります。

 

 

2015年9月の記事

 

 瓦の文字は  高 か

 

 

輪違屋(わちがいや)

輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688~1704)の創業と伝える。

現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたといわれるが、その後増築改築がなされて、

明治4年(1871)にはほぼ現在の姿になっていた。

平面構成は複雑だが、大きく分ければ、1階南半分の居室部分と、

1階北半分及び2階を占める客室部分からなる。客室は全部で十数室あり、

なかでも2階の傘の間と紅葉の間が主要な座敷で、

その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。

輪違屋は、建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、

昭和59年6月1日 京都市指定有形文化財に指定された。 京都市の駒札

 

 

 

 

南側の駐車場から見えるところ 

建物 前回の記事  ➡  建物左006 旧三井家下鴨別邸  望楼がユニーク

五七五

大雪となりけり関の戸ざし時 /蕪村

ことわざ

闇の夜に灯火を失う

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます