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台南・ダイアリー

台湾の台南市で3年、新竹市で2年駐在して、色々な所へ行ったり美味しいものを食べたりしました。

南台電影城で長江七號を見て

2008年03月20日 | 台南

     
   ( 周星馳の最近の映画 ” 長江七號 ” のポスター )


ここんとこずっと
” 牛肉泡麺、カップ牛肉麺 ”
について書いてたんだけど、
今回、1回休んで、
とりとめもない話をする。



       ( 国華街の南台電影城 )

日本の人が、普通、
台南で映画を見に行くとしたら、
大概、
公園路のワーナーか、
新天地三越の新光影城に行くんじゃないかと思う。

でも、
1月に上映開始した周星馳の
” 長江七號 ”
はもう、
どっちでもやってなかったんで
オレは国華街の
” 南台電影城 ”
にでかけることにした。

南台電影城は、
れっきとした一番館だけど、
建物が古いし、座席も少ないから
入場料が安い。

友愛街や国華街で遊んでるような
あんまりお金のない台南の若者にとっては
映画館 っていうと、
ここのことになるんじゃないか。



( 南台電影城のちょびっとボロい映写機 )

台南に長いこと住んでる間、
” 国士やってるヤツがいそーも無い時のラス牌の西 ”
- みたいな、
年寄りで安全牌のオレは、

” 映画を見に行きたいけどお金がない ”
- みたいな、
若~いスナックの小姐に、
よく
「 映画に連れてってよ~! 」
って ねだられたもんだ。

そんな時、
いつも行ってたのがこの、
ちょっとうらぶれた様子がほど良い感じの
” 南台電影城 ”
サ。




周星馳( チョウシンツー )の、
前作は、
3年も前に公開された
” 功夫 ”
だったけど、
こいつが、
オレの大・大・大のお気に入りの映画だった。

そして、
待ちに待ってやっと公開された
今回の作品で、
中心キャラクターになったのが、
上の写真左側に写っている
可愛らしい異星人の
” 長江七號 ”
だ。

余談だけど、
昔から、中国の映画とかテレビで、
スパイのコードネームってことになると、
どーいうわけかいつも
” 長江七號 ”
っていう名前が使われてきた。

日本で言えば、
忍者の名前はいつでも - ” 猿飛 ” 。
みたいな感じかナ。




映画を見終わったオレの感じは、
前作の
” 功夫 ”
と今回の
” 長江七號 ”
を比べてみると、
ストーリーも類型的だし、
周星馳のハチャメチャぶりも、ナリをひそめていて
” ちょっと食いたりねー ”
っていう感じがするな
っていうもんだった。

だが、
ローカルの友達なんかにゃ、
すげー評判の良い映画だ。

今回、
周星馳は今までと違って、
全然目だたねーシブい脇役に徹していた。

唯一の 見せ場 っていえば、
映画の後半の展開に重要な伏線になってくる、
高層ビルの屋上で弁当を食う
( スタントはなし )
短いカットだけだった。

でも、
子役の ” 徐嬌 ”
( 男の子の役だけど、実際に演じてたのは女の子だった )
も可愛いし、

ヒロインの
張雨綺も、十分きれいだった。




映画を見終わったときの後味は

” おもしろうて、やがて悲しき ”

みたいな - 

昔の日本の
” 藤山寛美 ” や ” 大宮伝助 ”
の喜劇にも通じる 気持ちよいもんだった。

周星馳の映画だと、
それ以外にも、
なんかちょっとしたさわやかも感じられるから
本当に良いネ。

オレは、
昼はもう暑いけど、夕方になればまだまだ涼しい
国華街を
ミニショッピングモール
” 浅草 ”
の方に、
ゆるい風に吹かれながら歩いていった。


      

” 浅草 ” で時計を見たら
もう9時をとうにまわっていて、
晩飯をくってなかったオレは、
急に、
すげーハラがへってるのに気がついた。

そんで、
近くの
” 阿瑞意麺 ”
に行こうかナとも思ったけど、
麺じゃあ足りねーなぁって感じもして、
結局、
オートンで
” 花園夜市 ”まで行った。




結局、花園夜市では、
” 牛排、台湾ステーキ ”
を食っちまった。

こいつを最初に食ったときは、
ルックスから想像される味と、
実際に口の中のあるもんとの違いに
本当にびっくりしたけど、
慣れた今じゃあ、
いつも、
うめーなぁと思いながら食っている。

ふつーなら
” 小統一 ”
のを食ってるんだけど、
この日はとんでもなく人が多くて
” 全壘打 ”
の方で食った。

小姐にせがまれて
南台電影城で映画を見たあと、
いつも、そっこーで、
バイバイされてたオレは、

「 全壘打かヨ・・・
  フフン、あんまりかんけーねーゼ・・・ 」

とか思いながらサ♪



そんじゃあね!




3月17日のアクセス数 - 397
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3月17日の練習 - トレッドミル6km + ウェイト
3月18日の練習 - 休み
3月19日の練習 - 休み


台南玉皇宮の春節(1)

2008年02月03日 | 台南


   

忙しくてずいぶん更新しない間に、
ついに今年の春節( 農暦のお正月 )も目の前になっちまった。

多分、普通の駐在さんは、
春節は日本に帰国しているんだろうけど
運 良く/悪く、台南に居残っている人達のために、

今回は台南市では多分、
春節前後のお参りの人手が一番多いと思われる、
( でもそのワリには日本人はあまり知らない )
成功路にある
” 玉皇宮 ”
のことをちょこっと紹介しよう。

仕事も休みでヒマんなって、
初詣に行く場所も判んなかったら、
ここへ行っとけばイイぞ。
ただ、すげー混んでるけどナ。




玉皇宮は
成功路と崇安街の交差点のわきにある
小さい路地を入って行った先にある。

大通りに面していないから、
判りにくいがすごく大きな道教のお寺だ。




成功路の入り口は、
こんな感じだから、ここから入っていったら良いゾ。

今回は、
あまり道教のお寺にお参りしたことない人も
戸惑わないように

簡単なお参りの仕方とか
少し道教の話とかも混ぜて
このBLOGを書いていくゾ。


 

春節前後に玉皇宮に行くと
とにかく人が多い。

今回もお寺の前には
ご供物が沢山並べられていた( 左上 )。

日本人の人も、
もし何か持って行くんだったら、
まずお参りの前にここにご供物を捧げて
それから香( シャン、お線香 )の束を買おう。

お線香の束を買ったら、
右上の着火場で全部の線香に火をつける。

お寺の中には沢山の神様が祭られているから、
順番にお祈り( 拝拝、パイパイ )をして
2~3本の香をそれぞれの神様の前の線香立てに
立てて行くんだ。




玉皇宮は2階建ての大きな寺で、
中にはありとあらゆる道教の神様が祭られている。

こういう場合一般的なお参りの順番は
2階→1階
各階は時計回り
っていうのが普通だ。

それぞれの神様の前で
” 拝拝 ”
っていうお祈りをする。

香を前に構えてお願いを唱え
次に頭の前に香を構えて2~3拝し、
香を線香立てに立てる

- ってのが、まぁ一般的なやり方かナ。

何か占いたいことがある時は、
” ポアポエ ”
っていう占いをやるんだが、

” ポアポエ ”
は、めちゃめちゃポピュラーな占いだから、
やり方を覚えておきたい人がいたら、
” 日月潭文武廟 ”
  の回を、もう1回読んでみてくれても良いゾ!




道教の神様は沢山いて、
時代時代で
その神様間のランキングが色々変る。

この玉皇宮で
一等の神様として祭られているのは、
道教最高神の
” 三清 ”
の下にいる

” 四御 ”
の一人、
” 玉皇大帝 ”
だが、この神様は、
宋代の皇帝には三清を超えた
最高神として祭られているから、
めったにはあなどれない神様だ。

ここら辺の関係に興味がある人は、
” 農暦中元節 ”
の回を読んでくれ。
 



玉皇宮の中に興味深い表があった。

こいつは道教の神様それぞれの誕生日の一覧だが、
阿弥陀仏から関羽まで、実に色々な神様がいる。

そして、
このお寺の主神の玉皇宮の誕生日は
農暦の1月9日になっていた。


ふ~ん、
そういうわけで、春節から小正月まで、
このお寺はやけに人が多いっていうわけなんだナ。




お参りの最後、
1階の向かって左の部屋では、
面白いお祈りが行われていた。

何人かの祈祷師が
地面にムチを打ちつけながら、
自動車とか家の紙細工を踏み潰している。

こいつは
「 交通事故を避けるお呪いかな? 」
とか思ったけど、
実は、車とか家とかが
手に入ることを祈った
現世ご利益のお祈りなんだそうだ。

ここら辺の世知辛さが、
来世の幸せに重点を置いて
仏教とかキリスト教とかを信じてる人と

当面の発財( 金儲け )に関心が行ってる
漢民族との違いかなぁ
- なんぞと、ちっとばっかり考えちまった。


この話は、
もちっと続きがあるんだが、
今晩はちょっと疲れてきたし、
すげー長くなっちまってもいるから
とりあえず
こんなところで終わりにしとこう。

でも、続きもすぐ書くよ!

そいじゃ!




1月31日のアクセス数 - 493
2月01日のアクセス数 - 481
2月02日のアクセス数 - 420

1月31日の練習 - 休み
2月01日の練習 - 休み
2月02日の練習 - トレッドミル6km + ウェイト


P.S.

日本では雪が降ったみたいだが
台湾でも結構寒い日が続いている。

台湾には基本、暖房設備がないんで
日本にいるよりもっと寒く感じる日もある。

Kidsのギターだった
ジョニー・デップが、初めて歌にもチャレンジしている
” スウィーニー・トッド ”
をワーナーで見たが、
まぁ、” ゲテモノ ”の領域を超えてなかったナ。

あえてゼニを払って時間をつぶして
見に行くのは止めた方が賢明だろう。



孔子廟/府中街/窄門

2007年03月19日 | 台南


   
            ( 孔子廟 )

土曜日の夕方、
スパゲティのちゃんとしたヤツが食いたくなって、
小星星に予約の電話をかけた。

直前に電話したもんで、
慶中街のミセはもう満杯で、
府中街のちょっと狭い方のミセへ行くことになった。

小星星でスパゲッティを食ったあとは、
府中街を少し散歩してから、
” 窄門、ザイメン ”
でお茶をのんだ。



      ( 孔子廟近辺地図 )

孔子廟前の府中街については、
前に、
”中華料理之食事作法其之弐 ”
の回で、
オレの気に入ってる散歩コースとして
ちょびっとだけ紹介したことがある。

それでこの機会に、
ここら辺のことをもう少し書いとこうかナ
- と思って今回の話を書き始めたゾ。



      ( 府中街入り口 )       ( 夕方の府中街 )

府中街は、
南門路をはさんで孔子廟の向かい側にある
まぁ
” 神社の参道 ”
みたいな通りだ。

あんまり長い通りじゃないが、
台湾の観光客を当てにした
( 日本人にはあまり知られてない )
ちょっとかわいいミセが多い。

おでんのミセ
” 保哥黒輪 ”
とか、
日本式拉麺のミセ
” 三山拉麺 ”
なんかもある。



              ( 府中街のミセ )

上は府中街にあるミセだが、

左上が、
色々な変わった手作りの酢をうってる
” 延齢堂 ”

真ん中が、
水晶とか玉のミセだが、
名前は忘れちまった。

右上は、
手作りおかしのミセで、
” 信裕軒 ”
だ。



     ( 廟 )                       ( 緑屋 )

府中街から
保哥黒輪のあるわき道に入ると、
ちょっとした廟があって
その向かいに
細い螺旋階段でしかたどりつけない
” 緑屋 ”
という喫茶店がある。

晴れた日には
ここの青天の3階で、
タコスでも食ってビールを飲むと良い。

見晴らしもよいし、
風にも吹かれて、
なっかなか気持ちが良いゾ。


   
  ( 窄門入り口 )             ( 窄門に入る細い道 )

しかしこの時はもうかなり暗かったから、
お茶を飲むのは、
台南の謎の喫茶店、
” 窄門 ”
の方にした。

このミセは、
南門路に向かって府中街の並びにあるが、
入り口が、
商店と商店の間の
たった40センチ位の幅しかない路地
( というよりは ”隙間” )
の奥にあるので、
普通の人にはなかなか気づかれない。



      ( 窄門入り口 )           ( 下から見上げた窄門 )

この
「 太った方はお断り 」
みたいな路地を少し入ると、
窄門のレトロな看板があり、
その左側に、
2階のミセに上る古っちい階段がある。

階段を上りながら見上げる窄門の様子は、
昔の洋画に出てくる裏窓みたいで、
なかなか雰囲気があるネ。



                  ( 窄門店内 )
ミセの中に入っても、
インテリアは古風なもので纏められているので、
とても落ちついた感じだ。

開店してからもう20年以上経つミセだというけれど、
20年前の台南で、
このデザインのコンセプトを得たセンスはすごい。
( だって、
  20年前の台南って、どうかすると、
  わざとじゃなくてもこの位古っちかったもんネ )




” 窄門 ”
のメニューには、他では飲めない、
新彊風味のスパイシーなお茶があるが、
まったり気分に浸りたかったオレは
” 茉莉花茶、ジャスミンティー ”
を頼むことにした。

孔子廟の公園が見える窓際の席で
お茶を飲みながら、
オレは、
さっき府中街で買った、
” 台南名物食べ物トランプ ”
の箱をあけてみた。

そして、
一枚ずつ、
どんなものが挙げられているのかナ
  - と、
ゆっくりゆっくり 見ていったら、
思いがけず時間がたって、

もう、
すっかり夜更けになっちまったのサ。






- それじゃ今回はこんなところでご無礼しますヨ -



3月14日のアクセス数 - 572
3月15日のアクセス数 - 688
3月16日のアクセス数 - 305
3月17日のアクセス数 - 351
3月18日のアクセス数 - 404

3月14日の練習 - トレッドミル6km & ウェイト(ジム)
3月15日の練習 - トレッドミル6km & ウェイト(ジム)
3月16日の練習 - 休み
3月17日の練習 - トレッドミル5.5km & ウェイト(ジム)
3月18日の練習 - トレッドミル5.5km & ウェイト(ジム)




----- P.S. -----

普通の散歩の場合オレはだな-


うまいと思ってる
”延平郡王祠前の陽春麺屋 ”
の陽春麺を食ってから
” 延平郡王祠 ”
を見物し、

” 府中街 ”
をぶらぶらしながら
” 孔子廟 ”
へ行き、

” 窄門 ” か ” 緑屋 ”
でお茶(ビール)をのんでから、
” 五妃廟 ”
へ行くんである。

この時点で
陽春麺はすでに消化が完全に終わってるから、
” 五妃街の豆花屋 ”
( 名前を忘れちまったが、
  有名な ” 安平豆花 ” よりよほどうまいヨ )
でちょっと甘いもんを食うのも
良いかもナ。


じゃあネ




水交社之回憶 ( 後編 )

2006年07月21日 | 台南


 


” 水交社 ” は
  台南の WONDER WORLD だ!



台南市の南部には、
実際の地名とは関係なく、
ローカルの人が
” 水交社 ”
と、特別に呼んでいる地域がある。

この、” 水交社 ” の辺りは、
すごく独特な歴史を経ているんで、
町の風景が
他の台南の市街とは、
全然違ったものになってしまっている。

水交社に出かけて撮った上の写真は、
なんか、シンガポールかどこかの 南国の景色みたいだが、
広い通りには人気が全くないし、
台湾では普通埋設になっている電線が、
日本みたいな電信柱を使って、空中に引かれている。




” 水交社 ”
と呼ばれる地域は、
大体、
健康路とその南側、南門路とその西側の辺りだ。

この地域は、

(1)明代~清代は、
   ” 桶盤浅 ” と呼ばれる大きな墓場だったが、

(2)日本統治時代に、
   海軍が、数百の軍の官舎が並ぶ大居住区に改造した。 

(3)戦後になると、
   蒋介石の国民党空軍に接収され、
   台湾空軍の官舎や、進駐米軍のクラブハウスがある地域になった。

(4)そして現在では、
   米軍は台南機場から撤退し、
   台湾空軍の家族も殆んど他所へ行ってしまったので、
   少し寂しいが独特の雰囲気のある場所になっている。
   ( オレは、そいつが好きでよく散歩に行くのサ。 )

前回、

” 水交社乃回憶 ( 前編 ) ”
   で上の(1)と(2)の、
   明代~日本統治時代について書いたので、
今回は

” 水交社乃回憶 ( 後編 ) ”
   で(3)と(4)の、戦後~現在を、

レポートすることにする。



(3)戦後


   ( 志開新村自治会 )           ( 将校級の人の官舎 )

第二次世界大戦が終わった
民国38年 ( 西暦1949年 )、
日本軍が引き上げた後、
蒋介石の国民党空軍が台南飛行場を接収し、
水交社は空軍軍人の官舎として使用されることになった。

ただ、
現実には国民党空軍は、
この時点では十分な飛行機を保有しておらず
アメリカ第13航空隊が同時に台南飛行場を利用することにより
中国共産党に対する制空権が保持されていた。

1950年代~60年代の両岸紛争時には、
国民党の装備も充実してきて
台南飛行場は台湾にとって重要な役割をはたし、
” 雷虎小隊 ”
等の異名をとる部隊が大陸偵察を敢行した。

この時期の水交社の文化は、
米軍の影響が大きく、
上の方の写真で見る、
志開新村自治会の表札デザインや、
将校級の人家の色彩などにその跡が伺える。



   ( 空軍食料供応所あと)        ( 供応所=市場の内側 )

その頃、
水交社のメインストリート、興中路には、
空軍食料供応所 ( 今の水交社市場 ) が出来て、
大陸から来た人や、アメリカ空軍の人向けに、
それまでの台湾南部の人にとっては珍しいものを販売し始めた。

この市場は、
規模から言えば台南の他の大市場より小さいが、
春節 ( 旧正月 ) の支度をする時期には、
大陸の食材を求めて、
台南県のはずれや高雄からまで
外省人の人がこの市場に来て大変な賑わいだったそうだ。



  ( 蔡家豆漿 )                ( 老李布荘 )

左上は、
今の市場の中にある、
” 蔡家豆漿 ”
というミセだが、
オレはここの豆乳が今まで台湾で飲んだうちで
一番うまいと思う。

市場の端の方には、
” 老李布荘 ”
という、一見パッとしない洋服/生地屋があるが、
このミセは戦後、空軍関係者達の委託販売もやっていたので
その頃のミセには、
当時誰も見たことも無かったような
AP( American Optical ) の飛行用サングラスとか
ARROWの シャツなんかがバンバン売られていて、
ずい分遠くから
” 舶来品 ”
を買いたい人がここを尋ねてきていたということだ。



 ( Arrow のシャツ - 写真は ”古着屋DUFF ” )様から拝借したもの

Arrow のシャツというと、
日本人も年配の人ならすぐ、
「 進駐軍の着ていたギャバジンの・・・・。 」
とか
「 あのロカビリーの歌手が着てたやつだろ。 」
と思い出すものだ。
今でも、
ビンテージや古着のオークションなどでよく見ることができる。



 ( 健康路 WESTERN II )          ( 健康路 老拓 )

当時、
水交社には米軍のクラブ
” MAGAMBO ”
ができ、米兵がよく飲んで遊び歩いたので
健康路には沢山の米軍相手のバーが出来た。
この名残りがあって、
今でも健康路には
アメリカスタイルのバーや音楽パブが多い。

全盛期の週末には、
SP憲章をつけた米兵がいたるところを飲み歩き、
それを待つ三輪車 ( 普通のタクシーはまだ台南には少なかった ) が、
健康路場に長蛇の列を作っていたそうだ。



  ( 台南棒球場 )        ( フェンスの向こうの米軍 - オレのイメージ )               
この時期水交社には、
バーだけでなく、野球場や、野外映写場などもできて、
すごく賑やかな繁華街になっていた。

今の水交社には、
もう全くその面影はないが、
ローカルの人と酒を飲みながら
当時の、
ちょっと猥雑さを含んだような賑やかな様子を聞いていると、
その頃の水交社のイメージが、
だんだんと、オレの中にある
” 横須賀 ”
とダブってくる。
( オレの家は横浜市だが、南の端なので横須賀は目と鼻の先だ。 )




(4)現在


    ( 阿玉 )               ( 阿玉陽春麺 )

こういうような経緯から、
台南の人の印象では
「 水交社 = 蒋介石と一緒に来た、外省人の人が住む地帯 」
というイメージが強いみたいだが、

現実には、
以前千数百人もいた外省人も、
他の地域軍官舎へ移動したり、
台南市の文化園区計画があったりして、
現在は十数戸の家族が残っているだけだということだ。

実際、前回紹介した日本式の家屋も
今は殆どが、空き家になっている。

今の水交社市場に行って、
場内で人気がある
” 阿玉陽春麺 ”
を食べると、
これはうまいのはうまいし、
野菜が多くてヘルシーでもあるんだが、
どう食っても、
白くて柔らかい外省麺の陽春麺とは違うものだ。

すでに年月が経ち、
台南の人の口に合うものに調整が進んでしまった
というところだろうか。



  ( 阿菊 )               ( 阿菊陽春麺 )

市場の場外にも、結構有名な
” 阿菊陽春麺 ”
があって、道地な ( オリジナルテイストの )陽春麺を求める
台南の人がよく訪れてくる。

しかし、
こちらももう
ミセの中はバリバリの台湾語が行き交っているし
麺自体の味わいも、
大陸風の
” 陽春麺 ”
というより、もはや台南名物の
” 担仔麺 ”
に近いものに変ってしまっている。

かっていた人が去り、
食べ物等の点においては、
水交社は確実に他の台南の地域と同化しつつあるような
感じがする。


 
  ( 引越を知らせる張り紙 )         ( 人が出て行った後の家 )

そんな風に今の水交社は、

昔、墓場だったことや、
日本軍が大挙して住んでいたことや、
米軍の遊ぶ繁華街だったことや、
大陸から来た人の家族が住んでいたことや、

今は殆ど以前の人が去ってしまって、
部分的には、
台南の他の地域と同化していることが、

渾然一体となり、
やがて段々と風化して、
一種独特の雰囲をもつ場所になっている。


 
  ( 誰もいない道 )          ( 残ったポスト )

その雰囲気というのは、
実際に水交社に行って見れば判ると思うけど、

” 寂れた ” とか ” 淋しい ”

っていうのとはちょっと違って、
表現が難しいが

” きれいな乾いた貝殻 ”

みたいな、
なんか、
色がある空虚さ - を感じさせるものだ。





- という、こんなところで、
長かった ” 水交社之回憶 ( 前・後編 ) ” のレポートも
    無事終了させて頂くことにする。
     それでは次回まで ごきげんよう !




7月16日のアクセス数 - 454
7月17日のアクセス数 - 455   
7月18日のアクセス数 - 432
7月19日のアクセス数 - 329
7月20日のアクセス数 - 376

7月17日の練習 - 休み
7月18日の練習 - トラック9km(清華大学)とウェイト少々(自宅)
7月19日の練習 - トラック7km(清華大学)とウェイト少々(自宅)
7月20日の練習 - トラック10km(清華大学)とウェイト少々(自宅)
7月21日の練習 - ウェイト少々(自宅)


  σ(^_^;)  ほひぇー ・・・ 暑 ・・・





水交社之回憶 ( 前編 )

2006年07月16日 | 台南



 ( 椰子の木と白いベンチ )       ( 切妻屋根の日本式木造家屋 )


” 水交社 ” は
  台南の WONDER WORLD だ!



台南市の南部には、
実際の地名とは関係なく、
ローカルの人が
” 水交社 ”
と、特別に呼んでいる地域がある。

この、” 水交社 ” の辺りは、
すごく独特な歴史を経ているんで、
町の風景が
他の台南の市街とは、
全然違ったものになってしまっている。

水交社に出かけて撮った左上の写真は、
なんか、シンガポールかどこかの 南国の景色みたいだが、
実は、
この椰子の木とベンチの後ろには、
右上の写真の様な 日本家屋 が建ち並んでいるんだ。




” 水交社 ”
と呼ばれる地域は、
大体、
健康路とその南側、南門路とその西側の辺りだ。

この地域は、

(1)明代~清代は、
   ” 桶盤浅 ” と呼ばれる大きな墓場だったが、

(2)日本統治時代に、
   海軍が、数百の軍の官舎が並ぶ大居住区に改造した。 

(3)戦後になると、
   蒋介石の国民党空軍に接収され、
   台湾空軍の官舎や、進駐米軍のクラブハウスがある地域になった。

(4)そして現在では、
   米軍は台南機場から撤退し、
   台湾空軍の家族も殆んど他所へ行ってしまったので、
   少し寂しいが独特の雰囲気のある場所になっている。
   ( オレは、そいつが好きでよく散歩に行くのサ。 )

今回は、

” 水交社乃回憶 ( 前編 ) ”
   で上の(1)と(2)の、明代~日本統治時代についてを、

” 水交社乃回憶 ( 後編 ) ”
   で(3)と(4)の、戦後~現在を、

それぞれレポートする。



(1)明~清代


( すっかり夏草に隠れた水交社内の段墓 )

水交社の辺りは、
明~清代にかけては、
” 桶盤浅、トゥンバンチェン ”
と呼ばれる広大な墓場だった。

今では、
当時の墓は水交社の南側、
大成路から竹渓にかけての南下がりの斜面に
段墓としてしか残っていないし、
誰も手入れをしないので、
夏草に埋もれた墓石を見つけるのも
なかなか簡単なことじゃあない。

でもここには、
歴史的には重要な
台湾で最古と認識されている
明代、永暦年間 ( 1647~1683年 ) 頃の三つの墓がある。

その内二つが、
台湾を最初に独立させた、
延平郡王-鄭成功の
妻二人が合葬された墓 ( 藩府曽蔡二姫の墓 ) と、
子供二人が合葬された墓 ( 二鄭公子の墓 ) だ。



  ( 大成路の傾斜 )          ( 竹渓を覗き込んだ様子 )

台南市って言うのは、
全体にまっ平らで起伏が殆んどない。
わずかに隆起しているのは
前に書いた
”開元寺 ”
の周辺と、
上の方の地図の ” 桂仔山 ” を頂点とする
この水交社の辺りだけだ。
( 上2枚の写真を見ると、なんとなくそんな地形が判る )

それが理由になって、
ここらへんの地名は、
” 浅桶盤、チェントゥンバン - 浅いお盆の意味 ”
をひっくり返した形みたいだってことで、

語順をひっくり返して
”桶盤浅、トゥンバンチェン ”
って呼ばれていたんだ。



(2)日本統治時代


  ( 水交社内の大通り )        ( 典型的な水交社の家 )

1930年代に台南に進出してきた日本海軍は、
一年余りの時間をかけて
” 桶盤浅 ”
の墓場地帯に、
3列の大通りと、通りに沿って数百の日本式家屋を建造した。
そしてこの地域は、
終戦まで、日本海軍の軍人とその家族が暮らす
広大な居住区になった。

右上の写真は、
典型的な将校級の軍人の官舎で、
100坪程の敷地を外塀で囲み、
中に、寄棟式の家屋を建てている。

そして、
桶盤浅の辺りはは台南には珍しく傾斜があるので、
家は通りより高い位置になっている。
外塀の門の色がちょっと和風とは言えないが、
これは戦後、
中国式に赤く塗りかえられたものだ。



  ( 水交社の植物 )             ( 椰子の木と電線 )

そんな和式の家の外側には、
通りに沿って、背の高い椰子の木や、熱帯の植物が覆い茂り、
そのそばを見ると、
今でも電線が地中埋設されず
日本みたいな電信柱が立ち並んでいる。
こういうもの一つ一つの変てこなコンビネーションが、
水交社一帯の独特な景色を形作っているんだ。

- SORA NO AOSA NI CHUUMOKU SEYO !



  ( 一般の軍人の官舎 )        ( 水交社の百日紅 )

何故、もともとは
” 桶盤浅 ”
と言っていた場所が
” 水交社 ”
と呼ばれるようになったかって言うのは、
ここに、
海軍士官の交流団体のクラブハウス
” 水邊交誼社 ”
があったから、それを省略してみんなが
” 水交社 ”
と呼ぶようになった
- っていうのが理由だ。

この名前は言いやすかったみたいで、
戦後は、
” 空軍志開新村 ”
なんていう地名が正式につけられたが、
ローカルの人は、誰も新しい名前を使わないままで、
今でも、
” 水交社 ”
っていう、
日本統治時代のままの通称で
ここら辺のことを呼んでいる。




前編の最後に



水交社には
何も古いお墓や日本式家屋だけがあるわけじゃない。
興中路というメインストリートは商店街になっていて、
戦後すぐにできた
台湾とアメリカの空軍関係者向けのミセが並んでいる。

右上は、
レトロな外見の
” 興中西服店 ”。
旧式のミシンを見事に操り、
100%手作りで洋服を仕立ててくれる。




暑い最中、
ちょっと夢中になって水交社の写真を撮って歩いたオレは、
興中西服店の店先で、
” サトウキビ汁 ”
を売っているのを見つけて、
思わず1ビン買っちまった。

そしてその、
昔ながらの圧搾機でサトウキビの茎を搾っただけの汁は、
そんなに冷えていなかったけど、
なんともパンチが効かない、
でも、不思議と郷愁をかきたてる味がして、

「 来週もまた散歩に来よう・・・・・っと 」

なんて しみじみと、
オレに思わせてしまうのであった。




- ということで、この後は、
   ” 水交社之回憶 ( 後編 ) ” に続く !




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7月12日の練習 - 休み
7月13日の練習 - クロカンマシーン10kmとウェイト(ジム)
7月14日の練習 - 休み
7月15日の練習 - トレッドミル5kmとウェイト(ジム)
7月16日の練習 - トレッドミル5kmとウェイト(ジム)

今週は台風の影響で、余り外で走ることができませんでした。




開元寺(中編)-台南古跡探訪1

2005年10月09日 | 台南



( 開元寺大門を北園街から見る )( 開元寺にはいたる所に花が描かれている )


前回、
「 台南の古跡のなかでも、あまり日本人に知られていない開元寺について
  日本統治時代から第二次大戦前後にかけて起こったことを書いてみよう。 」
と思って始めた開元寺の前編だが、
今回構想をまとめていたら、
どうやっても、後編の方がすごく長いものになってしまうことが判った。

そこで、
この話は全3編で書くことにして、
今回は、
大正初期から末期までの開元寺におきた出来事を、
” 開元寺 ( 中編 ) ” としてまとめることにした。


とても長い話になったけれど、
色々興味深い内容もあると思うので
最後までがんばって読んでくれるよう、是非お願いする。




( ” 開元寺 ” 周辺地図 )


前回は、玄精法師が開元寺を離れて日本に行く所で終わったので
今回は、その続きから話を書く。


1909年(明治42年)、
  玄精法師が日本に行ってしまってから4年間、
  開元寺には抜きん出た僧がおらず、住持が決まらないままでいた。

1913年(大正2年)、
  住持として、福建省鼓山湧泉寺で受戒し、
  明治43年から台北の観音山凌雲禅寺に招かれていた
  超エリート、
  ” 伝芳法師 ” を住持として招聘した。

  この高僧 伝芳法師が、開元寺の住持となった後数年間で、
  玄精法師が去ったあとの開元寺の戒律を建て直し、
  大正時代になって、色々な意味で衰退しかかっていた台湾仏教に、
  大きな近代化の波を起こすのである。 

  住持になった折伝芳法師は、
  先ず寺の規律をただし、
  また、様式や規格を整備して、  
  それまで、鼓山湧泉寺でしか出来なかった ” 受戒 ” を
  中国福建省まで行かなくても、開元寺自身で行えるように改めた。
  この改革により、開元寺には自主独立の気風が生まれ、
  それまで停滞気味だった寺の雰囲気が刷新されるという効果が生まれた。



( 左上は開元寺主殿・大雄寶殿の
  釈迦如来坐像と両脇侍の文殊、普賢菩薩。
  日本でも良く見られる三尊の組み合わせで、
  釈迦如来は手が法界定印 ( 普通に座禅をするときの手の形 ) を
  結んでいるので、すぐ釈尊だなと判る。
  文殊、普賢菩薩は、衣装などが如来のような作りで、
  特に普賢菩薩が薬壷を持っているのが珍しい。
  配置の仕方は日本とは左右が逆になっている。
  右上は、大雄寶殿内の十八羅漢像。
  この主殿の内部は、かなり日本の寺の様子と似ている。 )


1915年(大正4年)、
  伝芳法師が、開元寺の改革を行っているこのような時期に、
  最後にして最大の、台湾人による抗日武力事件
  ” 西来庵事件 ”
  が台南市で勃発した。

  これは、” 西来庵王爺廟 ” という民間信仰の廟
  ( 現在の台南耶穌教會の場所にあった ) で董治をしていた
  ” 余清芳 ” が、
  ” 大明慈悲国 ”
  の設立を目的として起こした抗日武力闘争である。

  背景には、
  明治44年から大正3年まで毎年起きた
  台風災害による食料価格の高騰や、
  日本政府によるサトウキビ工場の接収などに対する
  台湾民衆の不満があり、
  民間信仰と神勅が利用されたこともあって、
  大規模な事件に発展した。
  
  途方も無い数の逮捕者をだし、
  1000人近い人が死刑の宣告を受けたが、
  約100人が死刑になった時点で、
  大正天皇の即位式が行われた為、
  残りの死刑囚は全て恩赦になって、事件は終結した。

  そして、これ以後は
  武力による抗日運動は影をひそめ、
  言論による社会運動が、こういった活動の中心になっていった。 



( 開元寺主殿・大雄寶殿の梁に施された装飾。 梁をひげ男がかついでいる。
      こんな可愛らしいデザイン、他所では見たことが無い。 )


1916年(大正5年)、
  西来庵事件が起きた後、
  日本政府の宗教活動への監視が大変厳しくなり、
  大正時代になって衰退傾向にあった台湾仏教は、
  さらに苦しい状況に追い込まれていた。

  そんな中、開元寺住持・伝芳法師は、
  苦境に際し余り頼りにならない曹同宗を離れ、
  密かに、台北臨済宗北圓山護国寺の長谷川慈圓師と連絡をとりながら、
  台湾仏教の新しい展開、つまり、
  他宗派も取り込んだ ” 日台仏教合作 ”
  の機会をうかがっていた。

1917年(大正6年)、
  伝芳法師は、長谷川慈圓師の協力を得て
  日本を訪問し、各所で精力的な外交活動を行った。
  臨済宗の総本山、京都妙心寺にて学習の上、大蔵経全巻を授かり
  また、当時の文部大臣岡田良平とも会談した。
  この日本訪問により、
  これ以後の伝芳法師の宗教活動は、
  日本政府の監視を受けない自由なものになった。

  台南に帰った伝芳法師は、
  台北護国寺との連絡組織を発足させ、
  台湾南部の仏教の合作を図る、日本仏教を学習して長所を取入れる
  などを主眼とした活動、
  ” 鎮南学林 ”
  運動を展開した。
  また、開元寺を臨済宗の末寺に宗派変えして、
  南部布教活動の拠点にした。

1918年(大正7年)、
  開元寺の住持になって、わずか数年間で、
  歴史に残るダイナミックな宗教活動を行った伝芳法師だが、
  この年、64歳で病気により他界することになった。
  


( 開元寺三川門両側の装飾、左右に龍虎を配置している。
   色彩がきれいで、傍に書かれた仏教故事が楽しい。 )


1919年(大正8年)、
  伝芳法師の死後、開元寺の住持として、
  玄精法師の弟子で、伝芳法師とともに護国寺との協力体制を作った
  成圓法師が選任された。

1920年(大正10年)
  伝芳法師の目指した、宗派を超えた台湾仏教会の合作が、
  ついに全台湾の有力仏寺が参加する
  ” 南瀛佛教會 ”
  として実現した。
  そして、成圓法師も13人の協會設立委員の一人に名を連ねた。

1921年(大正11年)
  成圓法師の犯色と金のスキャンダルが暴露 ( 捏造? ) され、
  信徒、台南の名士、宗教財団による総会の満場一致により
  わずか3年住持を勤めただけで、成圓法師は寺を追われてしまった。

1922年(大正12年)
  成圓法師が寺を去って1年の空位のあと、
  得圓法師が住持に選任された。

  しかし、得圓法師が開元寺の管財人になるのは、更に1年後のことである。
  管財人が決まるまでに時間がかかった訳は
  開元寺の広大な所有地やその他の財産が、
  寺の総会に参加してくる、
  東海和尚率いる宗教財団や、有力檀家から狙われており
  内紛が続いていたことによるらしい。

( 豊富な資産があり、多数の信徒に影響力がある開元寺では、
  長い開元寺の歴史の中で、こういった
  財産管理問題による内紛とか、スキャンダル暴露の応酬が、
  何回となく繰り返されている。 )


 
( 禅堂、表には達磨大師の故事が書かれている )   ( 僧坊にある客堂 )


1927年(昭和2年)、
  開元寺の財産管理に関する内紛が、続く中、
  抗日学生運動のリーダーだった林秋梧という若者 (当時25才) が、
  台北師範学校を退学になり、開元寺に出家してきた。
  得圓法師は、林秋梧の頭脳と才能を評価し、證峰と名付け
  日本の駒沢大学に留学させた。
  ( 駒沢大学でも、證峰の秀才ぶりは際立っていた様子で、
   禅学思想の大家で駒沢大学学長でもあった忽滑谷快天とも
   親交があった。 )

1930年(昭和5年)、
  東海和尚率いる宗教財団や、日本政府の威を借りた有力檀家は、
  親日的新聞に、得圓法師のスキャンダル記事を連日掲載させ、
  開元寺の財産管理権の所在を問うための
  台南信徒総会を開催するよう画策した。

  この時、
  證峰は3年の駒沢大学留学から帰ってきていたが、
  その頭脳と弁舌を怖れる宗教財団側の策略で
  台南信徒総会から閉め出されてしまい、
  得圓法師が孤立する中、
  開元寺の財産管理権は、宗教財団に移動するとの決議がなされた。

  しかし得圓法師と證峰は、この決議に対し
  ” 開元寺の資産は、台南の信徒だけのものではない ” との
  異議を提出し、再度台湾全体の檀家代表による総会を行うこと要求し
  台南市政府の了承を取り付けることに成功した。

  そしてこの後、次の総会までの間に
  證峰は全台湾の檀家1軒ずつに書面で苦境を連絡し、
  その結果、次回の総会には、
  基隆、台北、台東など、遠くからも多数の協力的な檀家が勇躍参加し、
  開元寺の財産管理権は、逆転で無事、寺側に残ることが決議された。



( 薫氏が1664年に開元寺に植樹したといわれる ” 七弦竹 ”。 
              竹の幹に、琴の弦の様な縦縞が七すじある。 )


こうして、
開元寺の管財権を確保するとともに
多数の檀家・信徒の信任を取り付けた證峰は、
この後、
第二次大戦の動乱に突入していく中で、
学生の時から影響を受けていたマルクス主義を、
仏教に融合させるという
ちょっと不思議な仏教改革を、精力的に実践していくことになるのである。



( ホント、開元寺のリスはデブだ。孔子廟のとは全然違う。 )



今回もずいぶん長くなってしまったが、
とりあえずここまで。

次回は、いよいよ戦争前後の様子を書く最終回だ。
内容が年表だらけの歴史物だし、長くて相当読みづらいとは思うけれど、
頑張ってまた遊びに来てくれ。

では、ご無礼!


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一昨日は、朝ジムでウェイトをやって、夜事務所から家まで歩きました。
昨日は、夕方ジムでウエイトと5kmJOGをやりました。
今日は、夕方ジムでウェイトをやった後、
        成功大学のトラックで10kmJOGをやりました。







開元寺(前編)-台南古蹟探訪1

2005年10月06日 | 台南



( 北園街からみた ” 開元寺 ” の大門 )


このBLOGでは、食べ物の話ばかりで
あまり名所古跡の類は、取り上げたことがない。


が、今回はあえて、オレのアパートの近所にある
” 開元寺 ”
を取り上げることにした。

理由は、この寺が
古跡としての、建築物や仏像類が、美しくて保存状態が良いし、
台湾の近代仏教発展史上最も重要な寺で、
日本との関係もとても深いのに、
今の、台南在住日本人にも、観光客にも
殆ど、その来歴などが知られていないからだ。

そして、
今回の話はとても長くなりそうなので、
いつも長いときにするように、
前編・後編に分けて話を書く。

是非、両方とも目を通して頂きたい。



( ” 開元寺 ” 周辺地図 )




( ” 開元寺 ” 境内の見取り図、
  前殿・主殿・後殿の三棟式/四合院式配置で、
  大寺院らしく七堂伽藍からなっている )


今回の紹介に当たって最初に、
開元寺のことを全く知らない人のために
一般のガイドブックなどにも載っているような、
ざっとした紹介を書くことにする。

” 開元寺 ” は、もともとは
1680年、鄭成功の嗣子鄭経が、母・薫氏の晩年の住居
” 北園別館 ” として建てたものだ。
( だから、開元寺のある一帯は、” 北園街 ” という名がついている )

1679年には、薫氏の死後に ” 海會寺 ” という寺に
改められ、
( この頃の台南市は、開元路のあたりまで海だったらしい )

1796年に、臨済宗の禅寺として
” 開元寺 ” という名前になった。
初代の住持は、中国泉州の承天寺から招聘した志中法師だった。
( ” 開元寺 ” という名前は、
  もともと唐の玄宗皇帝が、8世紀ごろ
  統治の目的で、各群・州に1つずつ建てさせた寺につけたもので、
  日本でも長崎県の平戸などに同名の寺がある )
  


 ( 北園別館跡であることを示す碑 )         ( 開元寺の境内 )


開元寺については、
建築や仏像など沢山書くべきことがあるが、
とても1回でそれら全てについて言及することはできない。

そこで今回は、特にオレが紹介しておきたい
日本統治時代頃の開元寺の歴史について、
その時々の、
住持 ( = 住職 ) に関するエピソードを書くことで
まとめて行くことにする。

まぁ、堅いことはぬきにしても、
開元寺の境内は、樹齢300年以上の大樹が茂って、
とても静かだし、夏も涼しくて散歩には最適なので
このBLOGを読んだ人は、この週末にでも
ゆっくり出かけてみると良いゾ。



( 上の写真は開元寺三川門。
  ” 三川脊 ” 式の骨格で 屋根の上に南方風の花鳥龍鳳はない。
  彩色は鮮やかだが、どぎつい所はなくむしろ可愛らしい色調で、
  ところどころに書いてある絵に結構な趣がある。 )


それでは、日本統治時代の開元寺についての話を始める。


1895年(明治28年)、
  前年より始まった日清戦争で清が降伏した結果、
  台湾、朝鮮半島、遼東半島が日本に割譲され、
  この年、日本による台湾統治が始まった。
  しかし統治初期には台湾人の抵抗が激しく、治安が乱れた状態が続いた。
  そんな折、思想的にも台湾の日本化を図ろうとしていた日本政府は、

1897年(明治30年)、
  曹同宗の僧侶芳川雄悟を、日本軍に従軍させ、
  台湾の諸寺を曹同宗へ吸収していった。
  元々臨済宗だった開元寺もこの時期には曹同宗の末寺になったが、
  当時の開元寺の住持 ” 寶山常青 ” は、
  日本軍の威を借りて、寺を私物化したため、
  開元寺は全く荒廃していってしまった。

1898年(明治31年)、
  芳川雄悟は悪評芬々の寶山常青を除け、
  人望のある ” 永定禅師 ” をもって住持とした。
  永定禅師はこの後5年間で、荒廃した開元寺を建て直し、
  後に、開元寺が
  ” 台湾三大法派の一つ ”
  といわれるまでになる隆盛の基礎を築いた。

  しかし、歴代開元寺の住持は従来
  ” 福建省鼓山湧泉寺で受戒した者 ”
  という約束ごとがあり、
  永定禅師は明治36年、
  開元寺を離れ高雄崗山の超峰寺の住持になった。
  


 ( 三川門金剛力士の内、哈将 )    ( 三川門金剛力士の内、唏将 )


日本統治以前の台湾仏教には確たる流派はなく、
大陸から来た僧侶がてんでに寺を建てている状態だったが、
日本統治時代には、抗日・親日・社会運動などに
宗教が巻き込まれた結果、
合従連衡が進み、大法派と呼ばれるものが出現した

日本統治時代、
台湾には三大法派があり、
南部最大の仏教法派は、台南の開元寺派だったが、
現在は、
永定禅師が移った高雄崗山超峰寺の超峰寺派になっている。

ちなみに現在の台湾仏教では、
四大法派があると考えられており、
超峰寺以外の大法派としては、
  基隆月眉山霊泉禅寺の月眉山派、
  台北観音山凌雲禅寺の凌雲寺派、
  苗栗大湖法雲禅寺の法雲寺派 
がある。



( 前殿・弥勒殿前面、弥勒菩薩 )   ( 前殿・弥勒殿裏面、韋駄天 )


1903年(明治36年)、
  永定禅師のあとをついで
  福建省鼓山湧泉寺で受戒した
  ” 玄精法師 ” が住持になったが、
  大陸の禅寺の厳しい戒律を開元寺に取り入れて
  はげしい修行をおこない、
  なんと自身、不思議な法術まで使えたため、
  開元寺の信徒は一挙に増加し、文人の往来も多く、寺は隆盛を極めた。
  この時期に、建築物の補修や新設なども一気に進んだ。
  
  当時の新聞にも、
  玄精法師が毎日の座禅中に魂を遊離させ、
  麻豆の檀家まで飛んで行って見聞きした様子を弟子に伝えた
  - というエピソードが紹介されている。



( 弥勒殿内部で弥勒菩薩の周囲に配置された、風調雨順の四天王像 )


1908年(明治41年)、
  玄精法師と開元寺に危機が訪れる。
  この年、台南の北にある塩水の港で
  怪しい術を使って詐欺を働いた僧が逮捕される
  - という事件が起きたが、
  その僧が取り調べを受けた際に、
  「 玄精法師から法術を教わった 」 と供述したため
  玄精法師まで台南警務課に逮捕投獄されてしまったのである。

1909年(明治42年)、
  台南市民の熱心な要請もあって、
  玄精法師は拘束を解かれたが、
  出獄後は、前にもまして厳しい修行を行い、
  やがて日本の曹同宗の本山へ出かけ、
  そこでの研究に没頭したあまり、
  ついにそのまま開元寺へ戻ることはなかった。-



( 開元寺には、大きな木が多い為、沢山のリスがすんでいる
  栄養が良いのか、どのリスもぷくぷくに太っているゾ )




今回は、ここまで。
あとは、

   ” 開元寺 ( 後編 ) ”    に続く



今回は開元寺の沿革とか、前置きが多かったが、
次回は、大正中期から戦争までの波乱万丈の開元寺の歴史だ。
今回よりもっともっと興味深い内容になるゾ。
必見!





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ここのところ事務所の帰り道、永康市から台南まで歩いているので、
ウェイトばかりで、JOGをやっていません。
今日は、朝、ジムでウェイトとJOGを5kmやりました。   

10月9日のレースは走らないことにしました。
12月18日の ” ING台北国際マラソン ”
                 までレースにはでません。



國華街之小吃(前)-台南地域情報2

2005年09月14日 | 台南



         ( 民族路と國華街の路口 )


 國華街には、台南の有名小吃店が多い。 

ここに行かないと、「 台南でメシ食った。 」 - って言えないゼ!

( 小吃 - シャオツー、軽食のこと )



國華街の有名小吃店群は、
地域的には、上の地図のように、西門路と平行した
” 永楽長楽市場 ( 水仙宮市場 ) ゾーン ” のあたりにある。

この辺には本当に沢山、
台湾ローカルの観光ガイドブックに載っているような
昔からの ( = 古早味、グーツァオウェイの ) 小吃店が多いので、
一回では、ちょっとそれら全部を紹介するのは無理だ。

ということなんで、
今回は、特に有名なミセで、民族路との路口の近くにある、

” 金得春捲 ”
” 富盛號 ”
” 阿松割包 ”

の三つのミセを、まず紹介してしまうことにした。
( だから、今回のタイトルには ( 前 ) って、つけておいたゾ。
  それでもって、( 中 ) や ( 後 ) については、
  同系統のネタばっかり書くと、飽きてきちゃうから、
  もう少し違うネタを紹介してから、その後また書くことにするヨ。 )


(1)金得春捲

いっとう最初に断っておくが、
このミセで売っている ” 春捲 ” は、
日本人のオレ達が普通に考える ” 揚げ春巻 ”とは、
全然関係ないものだゾ。

” 春捲 ” という名前こそついているが、
実は、大陸中国の南部 ( 福建省など ) や台湾で、
春の ” 清明節 ”の時に食べる
” 潤餅、ルンピン ” というものなんだ。



” 金得春捲 ” は、
民国40年 ( 1951年 ) に、初代の ” 李金得 ” さんが始めたミセだ。
当初は冷飲の店だったが、
清明節の日に ” 春捲/潤餅 ” の需要が高いのに気がついて
商売換えをした。
売り始めた頃は、あまり売れなかったらしいが、40年位前に、
野菜を沢山入れた今の作り方に改良してから、
人気がでて國華街の名物になったということだ。

値段は1個30元。
ちょっと甘いあっさり味だが、ぶっといので、1個でも結構腹がふくれる。
ミセで食べれば、清湯(チンタン、具なしスープ)もタダで飲めるヨ。

一応、営業時間は 8時半~18時だが、
午後の3時、4時にはもう売り切れになっているケースが多いから、
行くなら、早めが良いゾ。



上が ” 春捲 ” を作っているところだが、
すごく色々な材料を包んでいるのが判るネ。
( ちなみに中身は 
  - 豚肉、エビ、薄焼き卵、キャベツ、そら豆みたいな豆、乾燥豆腐、
    香菜、ピーナツの粉と砂糖 なんかだ )

薄い小麦粉の皮で材料を捲いた後、
鉄板の上で軽く焼いて、表面をパリッとさせてくれるので
焼き色がおいしそうな感じの出来上がりになる。

良い材料が色々入っていて、
オレは、なかなか爽やかな味わいのものだ - と思うが、
どうしても ” 甘い春捲 ” に抵抗がある人がいたら、
作ってもらう時に、
ピーナツ粉と砂糖を混ぜたものを、除けて作ってもらうと良いゾ。



左上の写真が、
買ってきた春捲を上からみたところで、
右上の写真が、断面の状態だ。

今回食ってみて気がついたんだが、
この春捲は、端っこからかみついていっても、
皮が変に破れたり、具がばらばらこぼれたりしなくて
大変食いやすい。
テイクアウトして、屋外で食っても全然問題ないゾ。

このミセの紹介のついでに、
” 何故、清明節に春捲/潤餅を食うのか? ”
の由来を簡単に説明しておこうと思う。

清明節は、
農暦の春分の日から数えて15日目のことで
中国古代天文学上の24節季の内の一つだ。
そして、古来、漢民族にとっては
” お墓参り&掃除の日 ” になっている。

清朝末期、太平天国の乱の際 ( 150年位前かな ) に、
戦乱は、南方の福建省にまで及んだので、
当時の人々は、清明節になっても、
お墓のお供えものをちゃんと準備する時間が足りなかった。
そこで、困った福建省の人々は、用意した食材を、
全部まとめて餅皮に包んで、お墓に供えたのが、
今、中国南方の人や、台湾の人が、
清明節に潤餅を食べることの起源になったらしい。



(2)富盛號

” 富盛號 ” で売っているのは、
” 碗粿、ワーコエ ” っていう、
日本には類似品が存在しないものだが、
まぁ、簡単に言って、
” もち米のプリン ( 甘くはない ) ”
だと思っておけば、そんなに間違いはないだろう。



” 富盛號 ” は、40年以上
” 碗粿 ” と
” 魚庚 ( ユイグン、揚げた魚入りのとろみスープ ) ”
だけで商売をやっているミセで、
碗粿の評判でいうと、
おそらく、台湾全土でも1、2番をあらそう人気店だ。

営業時間は、7時~17時で、
値段は、” 碗粿 ” ” 魚庚 ” ともに30元だ。
ここも、午後遅くなると売り切れてしまうので
( 毎日売り切りで、作りおきは、一切しない方針らしい )
行くなら、なるべく早くに行ったほうが良い。

ここの碗粿の作り方をちょっと書いておくと、
もち米を、少しの間水に浸しておいてから、削って粉状にし、
サツマイモのスターチと一緒に碗に入れて蒸しあげる
- というものだ。
具には、
赤身の豚肉、エビ、ひき肉 なんかが入っている。



上の写真が、
店先の様子と、買ってきた碗粿 ( 1個30円 ) だ。

碗粿には、白っぽくてそれ自体には味が無く、
タレをかけて食べるものと、
ここのもののように、茶色くて、
碗粿自体にも、少し下味がついているものとがある。

いずれにしても、勝負どころは、
生地のQQ感 ( もちもちした感じ ) と
生地と具のコンビネーションから来る味わいとだ。

そして、” 富盛號 ” のは特に
程よいQQ感と自然な味わいがあると言われている。
最大のライバルは、同じ台南市内にある
” 小南碗粿 ” だろうが、
こちらのは、
” 富盛號 ” に較べてQQ過ぎる という意見も結構ある。



(3)阿松割包

” 割包、クワパオ ”
っていうのは、二つ割りの肉まんの生地の間に
豚肉とか酸菜とかをはさんだ、中華風ハンバーガーだ。
もともとは、中国福建省の点心だが、台北の方に
” 石家割包 ”
っていう有名なチェーン店もあるし、
” 潤餅 ” とか、” 碗粿 ” よりは、
日本人にとっても食いやすく、よく知られているものだろう。

大陸だと、簡体字で
” 刈包 ”
( ちなみに中国語で草刈りを表す言葉は ” 割草 ” だ ) 
台湾の田舎だと、同音の当て字で
” 掛包 ”
なんて書いてあることもあるが、同じ食い物のことだ。



” 阿松割包 ” は、
もともと、当代の林清松さんのお父さんが、
福建省で ” 割包 ” の作り方を教わってきて、
赤嵌楼の近くで開店した店だ。
材料が高く、製法に手間がかかる割には利益が薄いので、
何回か閉店してしまっていた。
けれど、今の場所に移ってきてから人気がでてきて
ここ20年ほどは、順調に営業しているとのことだ。

営業時間は、8時~18時で、木曜日はお休みだ。
割包には、” 普通肉 ” 2個50元
     ” 赤身肉 ” 2個60元
     ” 豚の舌 ” 2個70元 の3種類があって、
ミセで食べても、持ち帰っても
” 清湯 ” がサービスされる。
( 確かにこの値段では、利益をだすのは難しいだろう。 )

そこそこの大きさのものだが、全然脂っこくないので
男なら2個はぺろっといける。
清湯は漢方薬のにおいがするが、それほどきつくないし、
割包に合うから、一緒に頼んだほうが良い。
( タダだし )



上の写真は、
” 割包 ” をつくっているところと、
このミセの
” メニュー ” だ。

このミセの割包の特徴は、
肉の調理法と味付けの仕方にある。

肉は、一般的な割包みたいに油の多い部分を
醤油で煮込んだものではなく、
赤身肉や豚舌などを、
紅糟 ( ホンザオ、米と赤い麹から作る調味料 ) とか漢方薬で
1時間程度煮たものなので、
ちょっとピンク色で、味もすごくあっさりしている。

味付けに使うタレは、
一般の割包は甘辛しょうゆを使い、
” 石家割包 ” は赤い甜麺醤を使っているが、
” 阿松割包 ” では、他のミセとはちがって、
芝麻醤 ( ツーマージャン、ゴマダレ ) を使っている。
あと、
” 阿松 ” では、” 石家 ” と同じで、
味付けに、タレだけでなく、ピーナッツ粉も使っている。
( でも ” 石家 ” ほど沢山は入れてないようだ。 )

” 阿松 ” の味わいはすごくさっぱりしているので、
胃に負担がかからず、何個でも食えそうな感じだ。
逆に
「 オレは、こってりしたヤツが食いたいんだい! 」
っていう人がいたら、台南では、前に紹介した、
 ” 滬豐 ” へ行って、
” 滬豐東披肉 ” ( これも割包の形をしている ) を食うと良いゾ。



左上の写真が、買ってきた
” 阿松割包 ” の割包だ。

”金得春捲”もそうだが、この”阿松割包”も
もちろん、作りたてが一番うまいんだが、
時間が経ってもそんなに味が落ちない。
(皮がしっかりしてるので、へたりが少ないからだと思う。)
それに、食べてるときに、ばらばら崩れてこないから
外で食うのに都合が良い。

一番上の地図の、長楽市場の海安路側には、
右上の写真みたいに、オブジェやベンチが多く作ってあるし、
少し南に歩けば、大きな
” 水萍温公園 ” もあるから、
( 水萍温公園には、 ” 客家資料館 ” もある )
休みの日には、今日紹介した
” 春捲 ” や ” 碗粿 ” 、 ” 割包 ” を買って、
長楽市場を見物したり、公園に行って
買ったものを食べたりして
ゆっくり遊ぶのが、なかなか楽しいゾ。



最後に、
ちょっとだけ歴史の話になるんだけど、
二~三百年以上前、台南市の海岸線は
実は、今の西門路と同じ位の場所にあった。
( だから、今の台南市の西区のあたりは殆ど海だった。 )

しかしその後、台江の堆積作用によって陸地が広がり、
海岸線はだんだんと西へ移動していった。
そして、海岸線の移動により新規に増えた土地には、
海から採れた蝦や魚の海産物を扱う市場が、
新しい海岸線と平行に、立ち並ぶようになった。

そんな市場が、
水仙宮を中心とした場所の
” 永楽市場 ” と ” 長楽市場 ” や、
少し南の方の、
” 大菜市 ” とか ” 保安宮市場 ”
なんかなんだ。

今でも、西門路に沿って南北に点在している、
古くからの市場は、
もともとは、こういう由来で、できてきた
- って、そういうわけなんだヨ。




さてさて、最後にちょびっと歴史の話もしたから、
今回は、ここら辺で終わりにさせてもらうことにしようかナ。

と・こ・ろ・で・
なかなか、場所やミセの紹介が進まないもんだから、
このごろ、
” エリアで区切って一度にドバッとミセを紹介する ”
作戦を実行してみたんだが、
やってみたら、
とにかく一回書くのに、すげー手間がかかる!
それに、こんなやり方じゃあ
今日紹介したみたいな、有名店には、
ちょっと失礼な感じもする。

そういうことで、
この ” 國華街 ” の紹介シリーズの後は、
また少しづつの記事を、こつこつ地道に書き続けることにするヨ。


じゃあネ ♪




一昨昨日のヒット数 - 824
一昨日のヒット数 - 658
昨日のヒット数 - 662

一昨日は、練習はやりませんでした。
昨日は、ジムでウェイトと4kmJOGをやりました。
今日は、ジムでウェイトと6kmJOGをやりました。

高雄のレースまで、あと25日。

( 同じ日に開催される台中の
  ” 舒跑国際国道馬拉松 ”
  の方が大きいレースですが、泊りがけの参加になってしまうので、
  やはり近場の高雄で開催される
  ” 三商巧福路跑比賽 ”
  の方を走ることにしました。 )





火車站東側-台南地域情報1

2005年09月06日 | 台南



オレはよく、台南駅の東口側に行く。

多分普通の日本の人は、
にぎやかで、店舗や宿泊施設の多い、
西口側 ( 正面のロータリーがある側 ) に行くことが多いと思うが、
オレの場合
成功大学の運動場にジョギングに行ったり、
学生街でメシを食ったりする関係で、
結構駅の東側を、うろうろする時が多い。

そういうことで今回は、
さくっと、台南駅の東口側にはどんなものがあるのか、
まとめておくことにするヨ。



台南駅の東口を出ると、
線路と平行に前峰路が走り、それと直角に大学路が走っている。

駅の東側は遠東百貨店を除くと
殆どが成功大学、台南学院、台南一中など、学校の土地だ。
特に成功大学は、
勝利路や長栄路までも広がる広大な敷地を占めていて
中には図書館や、歴史資料館、運動場なんかもあって
色々、利用価値が高いゾ。

(1)遠東百貨店

駅を出ると右手に、巨大な円筒型のビルがある。
この建物の下の方の階が、遠東百貨店になっている。
上の方は、元はホテルにする予定だったが、今の所何にも使っていない。
( もったいねー! )



百貨店前の広場では、
日曜日に、結構有名な芸能人を呼んで
ミニコンサートをやることがある。
だいぶ以前だが、オレもここで
蔡依玲や、郭品超が歌うのを見たことがあるゾ。



遠東百貨店の4階には、
台南では、一番日本の本を多く扱っている
” 永漢国際書店 ”
がある。



左上の写真のように、
雑誌類も沢山置いてあるし、
少年ジャンプは1週間遅れ位で読める。

右上の写真をみると、
文庫本類も、結構数がそろえてある。

ただし、
この店は2年前位まで、新光三越にあったんだが、
その頃からの売れない本を、ずーっと持ち越しているから、
ページが黄色く変色したような本も時々あるゾ。



地下の食堂エリアには、三越と同じで
” すがきや ” がある。

すがきやのラーメンは、
多分、麺とか濃縮スープを、どこかでまとめて作ってから、
各店舗へ配送しているんだと思うナ。
日本でも台湾でも、大体同じ味がするからね。



地下には、やはり三越と同じで
スーパーマーケット がある。

品揃えは相当豊富で、値段設定も結構安い。
ただしこのスーパーには、
三越ほどは日本の品物が置いていないので、
日本のものを買いに行くなら、
西門路の三越に行ったほうが良いだろう。


(2)成功大学陸上トラック

台南駅を背にして、左手には
成功大学の陸上400mトラックがある。



オレがこのBLOGの一番下の所によく
” 今日は成功大学で8kmのJOGをしました ”
なんて練習ログを書いているのは、
わざわざ自転車こいでここまで来て、走っているのサ。
( だって、台南で公道を走るのは、半分 自殺みたいなもんだからネ )



この写真を撮った時は、夏の日中なんで、
さすがに、走っている人は殆どいなかったが、
夕方になれば、かなりの数の人がここでジョギングをしている。

それで、
このトラックでオレが走っていると、
「 オヤヂのくせに生意気なペース、フン! 」
と思うのか、時々、競り合ってくるヤツがいる。
もちろん、みんなあっさりと
” 返り討ち ” にしてやるワケだが、
なかには、なかなかあなどれない強者もいる。

なぜか、
帽子をかぶって走ってるランナーには、結構早い人が多い。
特に、よく会うメキシコ人みたいな風貌のオッサンは、
体型も長距離選手特有の形になっているし、
インターバルのスピードがとてつもない。
いつも後ろから切られたように、スパッと抜かれてしまう。
いずれ、台南で名のあるランナーに相違ない。
ムム  ヽ(*゜O゜)ノ  スゴイッ!!!


(3)育楽街・育楽一街

駅から見て、遠東百貨店の裏手にあたる
育楽街と育楽一街は、成功大学の生徒の食堂街だ。



ここでは、
色々なものが手軽に安く食べられるし、
学生相手なんで、料理のボリュームがすごいゾ。

特に、
育楽一街を東の方に歩いていって、勝利路が近くなると、
食堂の数とか、密度がぐっと上がってくる!
みんなも、是非一度散歩に行ってみると良いゾ。

ただ、この辺に結構多い、
” 日式○○○ ” というような食い物は、
概して日本風でもなんでもないし、
味もおいしくない事が多いから、
育楽街のあたりでは、
拉麺や、猪排蓋飯 ( カツどんのこと ) なんかには挑戦せず、
牛肉麺や、排骨弁當 みたいなものを食っておくのが、
まず、賢明なセレクションだと思うネ。



--- かなり長くなったけど、
これでオレの、台南駅東口側のまとめは、おしまいだ。

これからも、時々こういう
特定の場所をまとめて記事にする 
- ことがあるかもしれない。

だから、このBLOGを読んでいる人で、
「○○○のあたりには面白いものがあるヨ。 」
ってな情報を持っている人は、
書き込みとかで教えてくれると、すごく感謝するゾ。


では、ご無礼!




一昨昨日のヒット数 - 598
一昨日のヒット数 - 584
昨日のヒット数 - 552

一昨日は、成功大学で5kmJOGをやりました。
昨日は、練習は休みでした。
今日は、ウェイトと5kmJOGをやりました。

台中のシューパオ杯国際レース
または ( どっちを走るか未定 )、
高雄の三商巧福のレース
まで33日。



-------- P.S.映画のハナシ --------

2ちゃんねるのスレッドが原作の映画、
” 電車男 ”
を見てきた。

最初の方の、
割とスレッドに忠実にストーリーが進む部分は
かなり面白くて、
見に来ていた台湾の他のお客さんも大爆笑だった。

しかし後半、
映画化のために原作から変更した部分が
なんか作為的な感じで、くどくなってしまい、
スレッドほどの素直な感動は感じられなかった。

そういう意味では、
この映画の魅力は、原作のもっていた力が殆どで
映画化という部分の功績は、殆どないみたいだった。
( 電車男の報告を、敵の攻撃に例えるシーンとか、
  ハッピーなシーンでの ” キター! ” の連発とかの表現が
  みんなハズレてしまっていた。 )

山田孝之も中谷美紀も好演していたので、残念!

30点

-------P.S.映画のハナシ おしまい----------






2004年台南県跨年晩会

2004年12月31日 | 台南


今日は、12月31日。
毎年、この日の晩は 台湾の各地区で ” 跨年晩会 ”といって、
地区の市役所とか 県庁が
年越しコンサートを 開くのが 最近の通例になっている。

オレも去年は 台南科学工業園区 で開かれた 台南県の 跨年晩会 に行って
すごい人出に 驚いちまった。

今年は、オレのアパートに すごく近い
永康市の 陸軍砲兵学校 のそばで 晩会 をやるので
自転車で 出かけることにしているぞ。

上の写真は、その ” 2005年台南県跨年晩会 ” の案内のポスターだ。

 

左上の写真は、去年の 跨年晩会 で見た
” 蔡依琳 ” だ。
デビューしたときは、” 清純派 ” って感じ だったが
その後、踊れるタイプの曲を 多く出してブレークした。
( 顔もムカシとは違う ので整形してる かもしれない。 )

オレでも聞けば知ってる ヒット曲を沢山持っている。
去年の跨年晩会で、この子が出たときの 観客のノリは
他の歌手とは 2レベルくらい違っていた。

この前、売れている整形外科医が 誘拐されて 1500万円払って助かった
- っていう事件があったが、
そのときに、その整形外科医が
「 蔡依琳の豊胸手術をしました。 」
ってしゃべってしまって、話題になったもんだ。
( 豊胸手術をした - というほどのションプーではないと思うが・・・ (^o^; )

右上が、今年の 跨年晩会 に出る歌手では、一番ビッグネームの
” 張恵妹 ” だ。
この人は、陳水扁が 前の大統領選挙で当選したときに
台湾の国家を歌ったせいで、中国からにらまれて、
北京での コンサートが中止させられた ことがある。
しかし、ノンポリの彼女は、
「 こんなことなら、国家なんか 歌わなければよかった。 」
なんて後でいったもんで、
今度は、台湾ナショナリストから いっせいに怒られてしまったことがある。
ヒット曲がイッパイある 全世代の人に知られている 有名歌手だ。
( ここまでは、出かける前に書いた分だ。 )


( ここから、帰ってきてからかいた分。 )

おー!
やっと帰ってきたぞ、台南県跨年晩会 から。
寒かったー!
台南 でこれほどの寒さが 味わえるとは・・・
すでにオレのカラダが、台南気温 に適応してしまった今
この北風はこたえたゼ。
一緒に行った 台湾在住10年の 黒シャツ隊のT君も、
「 台南としては 過去最低級の寒さジャー。 」
って ふるえてた。

しかも・・・・ 
オレ達が、
海鮮なべ食って、
熱燗のんで、
自転車タイヤに空気入れて、
開元路を自転車こいで 北上して、
跨年晩会から 遠くの駐車場に自転車止めて、
長いこと歩いて、
人を押しのけて 立ち見の前の方に たどり着いた
- そのとき

既に ” 張恵妹 ” のステージは終わっていた。

張恵妹 以外の有名人は
” 阿杜 ” とか ” 信楽団 ” とかオトコばっかりで、
ちょっとオレは ノリにくいかな?
- とか思ってた。

だが、” 信楽団 ” はなかなかよかった。
” One Night in 北京 ” とか
” Fallen Angel ” みたいな
ブルースががった、ちょっと古めのロックっぽい曲が
のびのあるボーカルの にいちゃんの声に ぴったりあってる。

黒シャツT君とか、他でみてた客は
” 阿杜 ” の方が 好みみたいだったが、
オレは、こーいうハスキー声の 恋愛バラードはちょっと苦手だ。


 

0時0分には、台南県長が出てきて
観客とかみんなで恒例のカウントダウンをやって
花火が上がった。
台南に来てから 2年が過ぎて、
これで、色々あった2004年も
「 ハイ、さよ-なら。 」 さ。
あっけねー!
たった今から、2005年が始まるぞ。


このダイアリーを 読んで頂いている みなさん。
昨年は、コメントなど 色々本当にありがとうございました。
仕事は忙しいけれど、
2005年は もっともっと頑張って やって行きます。
今年も、よろしくお願いいたします。


26日のヒット数 - 261
27日のヒット数 - 239
一昨昨日のヒット数 - 322
一昨日のヒット数 - 486
昨日のヒット数 - 281

27日は月曜で練習はやすみでした。
一昨昨日は、ウェイトと5KJOGをやりました。
一昨日は、ウェイトと5kJOGをやりました。
昨日は、徹夜仕事のあとだったので練習は休みました。
今日は、ウェイトと30分JOGをやりました。




海中鮮 ( 情報提供者其之一 ” 戴裕峰 ” )

2004年08月04日 | 台南
今日は、
お客さんとの懇親会で永康市 ( 台南市のとなり )の 永大路にある
” 海中鮮 ”
に行って海鮮を食った。

ここは、永康市の中では結構立派な海鮮料理屋で、
結婚式なんかによく使われるミセだ 。
( 台南近辺には海鮮料理屋がすごく多いが、結
婚式に使われるかどうかで、
” ビール屋 ” と ” 海鮮レストラン ”
の二種に分類できるかも知れない。 )

料理は1卓5000NT位のコースで
( ふつう、レストランのコース料理は、1卓分で頼むことが多い。 
円テーブル一つに、8~12人分が食える料理がでる。 )
値段としてあまり高い方ではない。 
だが、ここでは結構凝ったものがたくさんでて、味もうまかった。 

他にこの永康には、
オレが推薦するサイコーの海鮮レストランがあるんで、
そのうち紹介する。 楽しみにしていてくれ!

ハナシはかわって、ヒット数のこと - 。 

オレのダイアリーには、
平均して毎日大体200前後のヒットがあるんだが、
昨日はどういうわけか、ヒットが1400近くになって、
いきなりGOOのBLOGのアクセスランキングで、
23位にランクされてしまった。 
びっくりしたけど、おもしろいから、
これから練習ログ以外に毎日のヒット数の記録を書くことにした。

ところで、みんなはこのダイアリーが、
オレの個人的な経験だけをベースにして書かれている
- と思っているかもしれないが、それは違う。 

実は、このダイアリーは、相当沢山の
” 台南っ子 ”
のありがたい手助けの上に成り立っている。 

今日の写真では、
そんな助っ人の一人で、貴重な台南情報を提供してくれる仲間を紹介する。
 
これが、情報提供者其之一
” 戴裕峰 ” だ。 

ホラ、いかにも  
” ボク、食いしん坊です。
ってカオにかいてあるみたいな、
チョーいい雰囲気だしてるよネ!

昨日はウェイトと30分JOGをしました。
今日はウェイトと60分JOGをしました。 
最近はマタズレをあまり起こさないくらい、内股の皮が丈夫になってきました。 
人間どんなことにも慣れるようです。

昨日のヒット数 - 1374