台南・ダイアリー

台湾の台南市で3年、新竹市で2年駐在して、色々な所へ行ったり美味しいものを食べたりしました。

水交社之回憶 ( 前編 )

2006年07月16日 | 台南



 ( 椰子の木と白いベンチ )       ( 切妻屋根の日本式木造家屋 )


” 水交社 ” は
  台南の WONDER WORLD だ!



台南市の南部には、
実際の地名とは関係なく、
ローカルの人が
” 水交社 ”
と、特別に呼んでいる地域がある。

この、” 水交社 ” の辺りは、
すごく独特な歴史を経ているんで、
町の風景が
他の台南の市街とは、
全然違ったものになってしまっている。

水交社に出かけて撮った左上の写真は、
なんか、シンガポールかどこかの 南国の景色みたいだが、
実は、
この椰子の木とベンチの後ろには、
右上の写真の様な 日本家屋 が建ち並んでいるんだ。




” 水交社 ”
と呼ばれる地域は、
大体、
健康路とその南側、南門路とその西側の辺りだ。

この地域は、

(1)明代~清代は、
   ” 桶盤浅 ” と呼ばれる大きな墓場だったが、

(2)日本統治時代に、
   海軍が、数百の軍の官舎が並ぶ大居住区に改造した。 

(3)戦後になると、
   蒋介石の国民党空軍に接収され、
   台湾空軍の官舎や、進駐米軍のクラブハウスがある地域になった。

(4)そして現在では、
   米軍は台南機場から撤退し、
   台湾空軍の家族も殆んど他所へ行ってしまったので、
   少し寂しいが独特の雰囲気のある場所になっている。
   ( オレは、そいつが好きでよく散歩に行くのサ。 )

今回は、

” 水交社乃回憶 ( 前編 ) ”
   で上の(1)と(2)の、明代~日本統治時代についてを、

” 水交社乃回憶 ( 後編 ) ”
   で(3)と(4)の、戦後~現在を、

それぞれレポートする。



(1)明~清代


( すっかり夏草に隠れた水交社内の段墓 )

水交社の辺りは、
明~清代にかけては、
” 桶盤浅、トゥンバンチェン ”
と呼ばれる広大な墓場だった。

今では、
当時の墓は水交社の南側、
大成路から竹渓にかけての南下がりの斜面に
段墓としてしか残っていないし、
誰も手入れをしないので、
夏草に埋もれた墓石を見つけるのも
なかなか簡単なことじゃあない。

でもここには、
歴史的には重要な
台湾で最古と認識されている
明代、永暦年間 ( 1647~1683年 ) 頃の三つの墓がある。

その内二つが、
台湾を最初に独立させた、
延平郡王-鄭成功の
妻二人が合葬された墓 ( 藩府曽蔡二姫の墓 ) と、
子供二人が合葬された墓 ( 二鄭公子の墓 ) だ。



  ( 大成路の傾斜 )          ( 竹渓を覗き込んだ様子 )

台南市って言うのは、
全体にまっ平らで起伏が殆んどない。
わずかに隆起しているのは
前に書いた
”開元寺 ”
の周辺と、
上の方の地図の ” 桂仔山 ” を頂点とする
この水交社の辺りだけだ。
( 上2枚の写真を見ると、なんとなくそんな地形が判る )

それが理由になって、
ここらへんの地名は、
” 浅桶盤、チェントゥンバン - 浅いお盆の意味 ”
をひっくり返した形みたいだってことで、

語順をひっくり返して
”桶盤浅、トゥンバンチェン ”
って呼ばれていたんだ。



(2)日本統治時代


  ( 水交社内の大通り )        ( 典型的な水交社の家 )

1930年代に台南に進出してきた日本海軍は、
一年余りの時間をかけて
” 桶盤浅 ”
の墓場地帯に、
3列の大通りと、通りに沿って数百の日本式家屋を建造した。
そしてこの地域は、
終戦まで、日本海軍の軍人とその家族が暮らす
広大な居住区になった。

右上の写真は、
典型的な将校級の軍人の官舎で、
100坪程の敷地を外塀で囲み、
中に、寄棟式の家屋を建てている。

そして、
桶盤浅の辺りはは台南には珍しく傾斜があるので、
家は通りより高い位置になっている。
外塀の門の色がちょっと和風とは言えないが、
これは戦後、
中国式に赤く塗りかえられたものだ。



  ( 水交社の植物 )             ( 椰子の木と電線 )

そんな和式の家の外側には、
通りに沿って、背の高い椰子の木や、熱帯の植物が覆い茂り、
そのそばを見ると、
今でも電線が地中埋設されず
日本みたいな電信柱が立ち並んでいる。
こういうもの一つ一つの変てこなコンビネーションが、
水交社一帯の独特な景色を形作っているんだ。

- SORA NO AOSA NI CHUUMOKU SEYO !



  ( 一般の軍人の官舎 )        ( 水交社の百日紅 )

何故、もともとは
” 桶盤浅 ”
と言っていた場所が
” 水交社 ”
と呼ばれるようになったかって言うのは、
ここに、
海軍士官の交流団体のクラブハウス
” 水邊交誼社 ”
があったから、それを省略してみんなが
” 水交社 ”
と呼ぶようになった
- っていうのが理由だ。

この名前は言いやすかったみたいで、
戦後は、
” 空軍志開新村 ”
なんていう地名が正式につけられたが、
ローカルの人は、誰も新しい名前を使わないままで、
今でも、
” 水交社 ”
っていう、
日本統治時代のままの通称で
ここら辺のことを呼んでいる。




前編の最後に



水交社には
何も古いお墓や日本式家屋だけがあるわけじゃない。
興中路というメインストリートは商店街になっていて、
戦後すぐにできた
台湾とアメリカの空軍関係者向けのミセが並んでいる。

右上は、
レトロな外見の
” 興中西服店 ”。
旧式のミシンを見事に操り、
100%手作りで洋服を仕立ててくれる。




暑い最中、
ちょっと夢中になって水交社の写真を撮って歩いたオレは、
興中西服店の店先で、
” サトウキビ汁 ”
を売っているのを見つけて、
思わず1ビン買っちまった。

そしてその、
昔ながらの圧搾機でサトウキビの茎を搾っただけの汁は、
そんなに冷えていなかったけど、
なんともパンチが効かない、
でも、不思議と郷愁をかきたてる味がして、

「 来週もまた散歩に来よう・・・・・っと 」

なんて しみじみと、
オレに思わせてしまうのであった。




- ということで、この後は、
   ” 水交社之回憶 ( 後編 ) ” に続く !




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7月12日の練習 - 休み
7月13日の練習 - クロカンマシーン10kmとウェイト(ジム)
7月14日の練習 - 休み
7月15日の練習 - トレッドミル5kmとウェイト(ジム)
7月16日の練習 - トレッドミル5kmとウェイト(ジム)

今週は台風の影響で、余り外で走ることができませんでした。





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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (たらくそ)
2006-07-17 15:51:45
名前変えた



前回の部長さん、え○こさんみたいだね( ̄皿 ̄)



で、でんでん虫は…



あと1ヶ月遅れのユリはい(・∀・)ノⅤ←ユリ
Unknown (IMD-Tainan)
2006-07-18 19:30:08
ついに書かれちゃいましたねー。

あまり知られたくなかったのに。
ここにもあるよ (taka)
2006-07-18 21:48:44
koll_tadaさん 你好!

この3連休を利用して3ヶ月ぶりに台南に遊びに行ってきました。でも雨ばっかり・・・



ところで今回のテーマですが、実はσ(^^)も以前別のblogで調べたことがあります。

お父さんがココで働いていらしたそうですが、場所が分からないので誰か教えてください!という問い合わせで地図を探して写真を撮ってきました。

それをblog知合いの方に掲載していただきました。

http://homepage3.nifty.com/hero23mat-paradise/oke_tainan_sam.html

確かに今でもこの一角は周囲とはちょっと違った感じ・・・たぶん当時は田園調布?見たいな所だったんでしょうね(^_^;

たらくそ さんへ (kool_tada)
2006-07-18 22:00:53
たらくそ さん



先日送ったGIFファイルはWEBにアップロードすると

アニメーションになるもんだwo。

MIXIはせこいからコミュニティでないと、

JPEG以外はアップロードできないから、

BLOGか何かでアップしてみれ。

注文あったらつくりかえて差し上げる。



kool_tada
IMD-Tainan さんへ (kool_tada)
2006-07-18 22:03:32
IMD-Tainan さん、



すみませんつい書かずにおれなかったもんで、

お詫びに、次回はもうちょっと気合入れてレポートしますので、

また是非お立ち寄りください。



では、失礼いたします。
taka さんへ (kool_tada)
2006-07-18 22:19:16
taka さん



お久しぶりです。

いかがお過ごしでしょうか。



taka さんの撮られた水交社の写真を拝見しました。

大変きれいに撮れていて良い感じですねー。



水交社については、次回に戦後のことを書くつもりなんですが、

ローカルのおじさん達に聞いた印象では、

何となく日本の ” 横須賀 ” とか ” 横田 ”

みたいな所じゃなかったかなーと考えています。

日本軍のいたところに、戦争が終わって米軍と大陸の人が来て、

「 フェンスの向こうに駐留軍のハウスが見えた。 」

・・・・みたいな。

まぁどんな内容になるかわかりませんが、また次回

よろしければ、お時間があるときにチェックしてみて下さい。



では、失礼いたします。
そういえば (taka)
2006-07-19 01:26:04
そうですね、もともとは日本軍の将校の居留地?だったんですもんね。ただ当時としては立派な建物が並んでたんだろうとは予測できます。道幅も広いしね。



ところでこの場所をお尋ねになられた方は、お父様の遺灰を撒きたいとおっしゃられていたのですが、その後は何の音沙汰もなく・・・ちょっと残念でした。
Unknown (lena wu)
2011-02-01 15:29:20
すばらしいブログですね!^_^
私もう台南に住んでいますよ!!

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