台南・ダイアリー

台湾の台南市で3年、新竹市で2年駐在して、色々な所へ行ったり美味しいものを食べたりしました。

開元寺(前編)-台南古蹟探訪1

2005年10月06日 | 台南



( 北園街からみた ” 開元寺 ” の大門 )


このBLOGでは、食べ物の話ばかりで
あまり名所古跡の類は、取り上げたことがない。


が、今回はあえて、オレのアパートの近所にある
” 開元寺 ”
を取り上げることにした。

理由は、この寺が
古跡としての、建築物や仏像類が、美しくて保存状態が良いし、
台湾の近代仏教発展史上最も重要な寺で、
日本との関係もとても深いのに、
今の、台南在住日本人にも、観光客にも
殆ど、その来歴などが知られていないからだ。

そして、
今回の話はとても長くなりそうなので、
いつも長いときにするように、
前編・後編に分けて話を書く。

是非、両方とも目を通して頂きたい。



( ” 開元寺 ” 周辺地図 )




( ” 開元寺 ” 境内の見取り図、
  前殿・主殿・後殿の三棟式/四合院式配置で、
  大寺院らしく七堂伽藍からなっている )


今回の紹介に当たって最初に、
開元寺のことを全く知らない人のために
一般のガイドブックなどにも載っているような、
ざっとした紹介を書くことにする。

” 開元寺 ” は、もともとは
1680年、鄭成功の嗣子鄭経が、母・薫氏の晩年の住居
” 北園別館 ” として建てたものだ。
( だから、開元寺のある一帯は、” 北園街 ” という名がついている )

1679年には、薫氏の死後に ” 海會寺 ” という寺に
改められ、
( この頃の台南市は、開元路のあたりまで海だったらしい )

1796年に、臨済宗の禅寺として
” 開元寺 ” という名前になった。
初代の住持は、中国泉州の承天寺から招聘した志中法師だった。
( ” 開元寺 ” という名前は、
  もともと唐の玄宗皇帝が、8世紀ごろ
  統治の目的で、各群・州に1つずつ建てさせた寺につけたもので、
  日本でも長崎県の平戸などに同名の寺がある )
  


 ( 北園別館跡であることを示す碑 )         ( 開元寺の境内 )


開元寺については、
建築や仏像など沢山書くべきことがあるが、
とても1回でそれら全てについて言及することはできない。

そこで今回は、特にオレが紹介しておきたい
日本統治時代頃の開元寺の歴史について、
その時々の、
住持 ( = 住職 ) に関するエピソードを書くことで
まとめて行くことにする。

まぁ、堅いことはぬきにしても、
開元寺の境内は、樹齢300年以上の大樹が茂って、
とても静かだし、夏も涼しくて散歩には最適なので
このBLOGを読んだ人は、この週末にでも
ゆっくり出かけてみると良いゾ。



( 上の写真は開元寺三川門。
  ” 三川脊 ” 式の骨格で 屋根の上に南方風の花鳥龍鳳はない。
  彩色は鮮やかだが、どぎつい所はなくむしろ可愛らしい色調で、
  ところどころに書いてある絵に結構な趣がある。 )


それでは、日本統治時代の開元寺についての話を始める。


1895年(明治28年)、
  前年より始まった日清戦争で清が降伏した結果、
  台湾、朝鮮半島、遼東半島が日本に割譲され、
  この年、日本による台湾統治が始まった。
  しかし統治初期には台湾人の抵抗が激しく、治安が乱れた状態が続いた。
  そんな折、思想的にも台湾の日本化を図ろうとしていた日本政府は、

1897年(明治30年)、
  曹同宗の僧侶芳川雄悟を、日本軍に従軍させ、
  台湾の諸寺を曹同宗へ吸収していった。
  元々臨済宗だった開元寺もこの時期には曹同宗の末寺になったが、
  当時の開元寺の住持 ” 寶山常青 ” は、
  日本軍の威を借りて、寺を私物化したため、
  開元寺は全く荒廃していってしまった。

1898年(明治31年)、
  芳川雄悟は悪評芬々の寶山常青を除け、
  人望のある ” 永定禅師 ” をもって住持とした。
  永定禅師はこの後5年間で、荒廃した開元寺を建て直し、
  後に、開元寺が
  ” 台湾三大法派の一つ ”
  といわれるまでになる隆盛の基礎を築いた。

  しかし、歴代開元寺の住持は従来
  ” 福建省鼓山湧泉寺で受戒した者 ”
  という約束ごとがあり、
  永定禅師は明治36年、
  開元寺を離れ高雄崗山の超峰寺の住持になった。
  


 ( 三川門金剛力士の内、哈将 )    ( 三川門金剛力士の内、唏将 )


日本統治以前の台湾仏教には確たる流派はなく、
大陸から来た僧侶がてんでに寺を建てている状態だったが、
日本統治時代には、抗日・親日・社会運動などに
宗教が巻き込まれた結果、
合従連衡が進み、大法派と呼ばれるものが出現した

日本統治時代、
台湾には三大法派があり、
南部最大の仏教法派は、台南の開元寺派だったが、
現在は、
永定禅師が移った高雄崗山超峰寺の超峰寺派になっている。

ちなみに現在の台湾仏教では、
四大法派があると考えられており、
超峰寺以外の大法派としては、
  基隆月眉山霊泉禅寺の月眉山派、
  台北観音山凌雲禅寺の凌雲寺派、
  苗栗大湖法雲禅寺の法雲寺派 
がある。



( 前殿・弥勒殿前面、弥勒菩薩 )   ( 前殿・弥勒殿裏面、韋駄天 )


1903年(明治36年)、
  永定禅師のあとをついで
  福建省鼓山湧泉寺で受戒した
  ” 玄精法師 ” が住持になったが、
  大陸の禅寺の厳しい戒律を開元寺に取り入れて
  はげしい修行をおこない、
  なんと自身、不思議な法術まで使えたため、
  開元寺の信徒は一挙に増加し、文人の往来も多く、寺は隆盛を極めた。
  この時期に、建築物の補修や新設なども一気に進んだ。
  
  当時の新聞にも、
  玄精法師が毎日の座禅中に魂を遊離させ、
  麻豆の檀家まで飛んで行って見聞きした様子を弟子に伝えた
  - というエピソードが紹介されている。



( 弥勒殿内部で弥勒菩薩の周囲に配置された、風調雨順の四天王像 )


1908年(明治41年)、
  玄精法師と開元寺に危機が訪れる。
  この年、台南の北にある塩水の港で
  怪しい術を使って詐欺を働いた僧が逮捕される
  - という事件が起きたが、
  その僧が取り調べを受けた際に、
  「 玄精法師から法術を教わった 」 と供述したため
  玄精法師まで台南警務課に逮捕投獄されてしまったのである。

1909年(明治42年)、
  台南市民の熱心な要請もあって、
  玄精法師は拘束を解かれたが、
  出獄後は、前にもまして厳しい修行を行い、
  やがて日本の曹同宗の本山へ出かけ、
  そこでの研究に没頭したあまり、
  ついにそのまま開元寺へ戻ることはなかった。-



( 開元寺には、大きな木が多い為、沢山のリスがすんでいる
  栄養が良いのか、どのリスもぷくぷくに太っているゾ )




今回は、ここまで。
あとは、

   ” 開元寺 ( 後編 ) ”    に続く



今回は開元寺の沿革とか、前置きが多かったが、
次回は、大正中期から戦争までの波乱万丈の開元寺の歴史だ。
今回よりもっともっと興味深い内容になるゾ。
必見!





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ここのところ事務所の帰り道、永康市から台南まで歩いているので、
ウェイトばかりで、JOGをやっていません。
今日は、朝、ジムでウェイトとJOGを5kmやりました。   

10月9日のレースは走らないことにしました。
12月18日の ” ING台北国際マラソン ”
                 までレースにはでません。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
最近ちょっと (上に交わりて諂わず下に交わりて驕らず)
2005-10-07 13:53:13
最近、ちょっと話が長いし、蘊蓄多くてうんざり

昔みたいに簡単なほうがよかった

返信する
上に交わりて諂わず下に交わりて驕らず さんへ (kool_tada)
2005-10-18 01:55:36
上に交わりて諂わず下に交わりて驕らず さん、



コメントありがとうございます。

「話が長くて薀蓄が多く、うんざり。」

ですか、手厳しいですね。

ただ、この”開元寺”の3つの話は、申し訳ありませんが、ちょっとこういう書き方でやらせてください。

また、次の話題以降、ご意見を参考にして、少し考えて書いていきます。



これに懲りずに、またお時間が御有りの時には、このBLOGにもお越しください。

では、失礼致します。
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