切れたメビウスの輪(5)

2016-11-30 21:24:24 | 怪奇小説
横顔生夫も縦顔死郎も、昔からの知り合いのような親しみを感じられた。

「どこかでお会いしましたかね?」
「会ったことはないと思いますが、何故か懐かしいですね。」
「そうですね。だけれど、お互いに思い出せないだけじゃないですかねえ。」
「そうしときましょう、古くからの知りあいさん。」

「ところで、あなたは交通事故に遇われたのですか?」
「ええ、タクシーに撥ね飛ばされました。撥ね飛ばされている時は、空を飛行しているようでした。ゆっくりとフワフワと飛んでいましたよ。」
「わたしは、二階の窓から転落しました。わたしも窓から落ちている時にフワフワと飛んでいましたよ。まるでスローモーションでしたよ。」
「そうですね。まさにスローモーションでしたよね。」

「ところで、横顔生夫さんは死んでいるのですか?」
「いいえ、わたしは生きているつもりですよ。そういえば、縦顔死郎さんは死んでいるのですか?」
「いやいや、私は元々死んでいる世界にいますから、これ以上死ぬことはありません。むしろ、生き返ります。」
「ほう、そうなんですか。死んでいる方と親しくお話しをするのは初めてですね。」
「そうですか、わたしも生きている世界の方と話をするのは初めてです。」
「お互い初めてですが、何か不思議な縁ですね。これからも宜しく。」
「私こそ宜しくお願いします。」

切れたメビウスの輪(4)

2016-11-29 21:11:49 | 怪奇小説
横顔生夫はベッドがもう一台有るのに気が付いた。
誰かが寝かされていて、名札には
『縦顔死郎 転落事故』
と書いてあるが知らない男であった。

縦顔死郎は起き上がり、
「なんだ、ここは。」
「痛い。」
痛くて寝返りもできない。しかも、腕に点滴をされている。
「俺は、どうしたのだ? 生きてしまったのか?」

ベッドの名札には
『縦顔死郎 転落事故』
と書かれている。

縦顔死郎は少しずつ思い出し始めた。

穏やかな天候の日に、二階の窓ガラスを掃除している時にバランスを崩し、窓から転落してしまったのだ。
転落している時に、俺はゆっくりと飛行している自分を見ていた。
そして、着地して暫くしてから救急車に乗せられて、病院に運び込まれた。

日中なので、腕の確かなベテラン医師が診察したが、心肺停止となっていて、AEDによる蘇生も効を奏せず、生き返りが診断された。

俺は生きてしまったのか? 
だけれど、話に聞いていた三途の川とやらは渡っていない。だから生き返ってはいないはずである。いや、まだ死んでいると思っているし、そう願っている。

「こんな所で生き返ってたまるか。おれはまだやることが有るので、それをやる前に生き返っては困る。まだ死んでいたい。」

その時、医者によって点滴が外され、クッションの効いていない台車に乗せられ、殺風景な部屋に運ばれていった。
「ここはどこなんだ、やけに寒い。」

縦顔死郎はその寒い部屋に台車がもう一台置いてあるのに気が付いた。
一人寝さされていて、無造作に置かれた名札には
『横顔生夫 交通事故』
と書かれている。

「やあ。」
と言って、その横顔生夫は台車の上で起き上がり、右手を挙げて挨拶をしてきた。
縦顔死郎も
「やあ。」
と言って応えた。

切れたメビウスの輪(3)

2016-11-28 21:01:13 | 怪奇小説
第三章 横顔生夫と縦顔死郎の住む世界

横顔生夫と縦顔死郎はこの家に住んでいる。
しかし、横顔生夫は生きている世界に、縦顔死郎は死んでいる世界に、夫々住んでおり、世界が異なるので、同じ家に住んでいてもお互いに顔を会わせたことはない。

会社員の横顔生夫は、毎日満員電車で出勤し、残業が終わるとかなり遅いので、家で食事をすることがほとんどなく、家に帰ると風呂に入って、あとは寝るだけで、あまり生きているという実感がない。

ただ、ボーナスを手にした時は、
『額が少ない。』とか、
『能力の無い上司に評価されている。』
などの不平不満を言いながら、アルコールを口にしている時は生きているという実感が溢れている。
時として二日酔いが伴うが、これも生きているからである。

一方の縦顔死郎は、寝たい時に寝て、起きたい時に起きて、時間の概念が無いので自由そのものである。
食事を毎日取る必要がないが、反面、アルコールの楽しみもない。

横顔生夫が目を醒ますと体が痛い。それに、知らない所に寝さされている。
「なんだ、ここは。」
「痛い。」
痛くて寝返りもできない。部屋には電気が点いているので暗くはないが、朝か夜か分からない。よく見ると腕に点滴をされている。
「俺は、どうしたのだ? 生きているのか?」
ベッドの名札には
『横顔生夫 交通事故』
と書かれている。
横顔生夫は少しずつ思い出し始めた。

真夜中に青信号で横断歩道を渡っている時に、タクシーに跳ねられたのだ。
タクシーに撥ね跳ばされている時に、時間が止まり、跳ばされている瞬間から道路にたたきつけられる自分を、横に居る自分がずっと見ていた。

タクシーに撥ね飛ばされた後に、救急車に乗せられた自分は、病院に運び込まれ、真夜中に若い当直医が診察したが、心肺停止となっていて、AEDによる蘇生も効を奏せず、死亡が診断された。

俺は死んでしまったのか? 
だけれど、話に聞いていた三途の川とやらは渡っていない。
だから死んでいないはずである。
いや、生きていると思っているし、そう願っている。

切れたメビウスの輪(2)

2016-11-27 09:33:57 | 怪奇小説
第二章 縦顔死郎

縦顔死郎は、オーケストラによるクラシック演奏会に来て、静かに聞き入っている。
演奏が終わった時の、割れんばかりの拍手と、『ブラボー』、『ブラボー』の歓声は自分に対する驚嘆とも受けとれ、ホール全体のうねりが自分を包み込んでいるように思われた。
『ああ、死んでいて良かった。これが俺の死に甲斐であり、これ以上の至福の時はない。』

 縦顔死郎が、クラシック演奏会に行くようになったきっかけは、自分の家からクラシック演奏会が行われている世界に迷い込み、そこに置いてあったパンフレットを手にしたのがきっかけであった。

しかし、なぜ違う世界に迷い込んだのかは未だに定かではない。

 縦顔死郎の世界では読経の単調なリズムはあるが、抑揚が有って迫力のある音は聞くことが無かったので、クラシック演奏会の魅力に引き込まれていった。

それにしても、随分と小さな至福の時である。

帰宅した縦顔死郎がベッドに入り、目を閉じた時に星が輝きだした。
今週、俺は何をやっていたんだろうか? 
コンサート以外は思い出せない。
もしかしたら、ベッドの中でずっと死んでいたのだろうか?
縦顔死郎は昨日までの事を思い出した。

『そうだ、月曜日にコンサートに行ったが、それ以外はずっと死んでいたのだ。』
縦顔死郎は、昨日、夢の中で作ってテーブルの上に置いていたスパゲッティと野菜サラダを、ベッドの上で食べている。

これは、死んでいる者の幸せな時間である。
しかし、この死んでいることの幸せは誰にも邪魔されない。
俺は声を大きくして、死んでいる幸せを叫んでいる。
他人が、どう言おうと俺の幸せは変わらない。

それでは、他の死んでいる者も、みんな幸せなのだろうか?
電車に乗っている時に、俺の前の座席に座ってメールをチェックしているこの男は、死んでいる幸せをLINで共有しているのだろうか?
それとも、この男は生きていて、死んでいる者の幸せを知らないので、分刻みで忙しくしているのだろうか?

ベッドの中の縦顔死郎は、静かに起き上がり、また穏やかな一日が始まって行く幸せを噛み締めた。これは死んでいることの幸せに他ならない。

縦顔死郎は考えた。
『俺は今、生と死のどちらに居るのだろうか。そして、それを誰が認めるだろうか?』
『俺は今ここに居るし、死んでいると思う。誰か答えてくれ、俺は死んでいると。』

目覚めた時に起き、気の向いた時に食事をして、気ままな時間を過ごす。
しかも、酔い潰れる事もなく、快適な生活である。
まさしく死んでいる幸せである。

切れたメビウスの輪(1)

2016-11-26 14:45:53 | 怪奇小説
今日から、新しい小説を掲載します。

副題 死んでしまった男と、生きてしまった男

第一章 横顔生夫

横顔生夫は、就業時間が終わると同時に会社を飛び出して夕食を取り、七時から始まるコンサート会場に向かった。
最初にコンサートに行った時は勝手がわからず、ただ座って聞き入っていたが、二回目の今回は何か自分の意思表示を行おうと、日比谷花壇で、誰にも負けない大きく華やかな花束を手にいれ、会場に向かった。

ソプラノ歌手の深く澄んだ声に魅了されてじっと聞き入っていて、アンコールが始まる前に、意を決して、照れ隠しをしながら花束を手渡し、握手をしてもらった。その時の彼女の手の暖かさは天使のように感じられた。

横顔生夫が、このソプラノ歌手のファンとなったきっかけは、横顔生夫の発信したソーシャルネットワークの記載に対して、彼女からアクセスがあったことによるものであった。
しかし、後日、確認したところ何かの間違いでアクセスしたとのこと。

それまでクラシックにはあまり興味が無かった横顔生夫は、誘われるままにコンサートに出かけ、二回目からは、コンサート会場に大きな花束を持参するファンとなっていた。
そして、コンサートの無い日は、毎日、寝る前に欠かさず彼女のCDをかけて楽しんでいる。

横顔生夫が目覚めて、雨戸を開けると朝日が眩しかった。
『今週は忙しかったなあ。それでも、コンサートは譲れない。これが無いと息が詰まってしまう。これが俺の生きている証だ。』

それにしても、随分と小さな生きている証である。

日曜日の朝食は、昨日、寝る前に作って冷蔵庫に入れていたサンドイッチを食べながら、録画したドキュメンタリーを見るのが日課になっている。
これもまた、生きている証である。

しかし、横顔生夫は
『俺は本当に生きているのだろうか?
他人は、俺が生きている事を認めているだろうか?』と考えた。
この卵サンドは美味しいし、テレビ番組で感動させられていて、自分自身では生きていることを疑う余地は無いと思っている。

それでは、他人はどうだろうか?
電車に乗っている時に、隣でつり革に掴まっているこの男は、生きているのだろうか?
俺が生きているのを認めなかったら、この男は生きていないのだろうか?
もし、生きていないとすると、この男はなんなのだろうか?

会社に着いた横顔生夫は、いつものとおりメールをチェックし、また忙しい一日が始まって行く。これは生きていることに他ならない。

横顔生夫は考えた。
『俺は今、生と死のどちらに居るのだろうか。そして、それを誰が認めるだろうか?』
『俺は今ここに居るし、生きていると思う。誰か答えてくれ、俺は生きていると。』
働いて、給料をもらって、食事とアルコールのある生活をしている。
まさしく生きている所以である。

しかし、酔い潰れて生きているとは程遠い時もあるが、これも生きている証であろうか?