セミの終わる頃(10)

2016-12-31 11:28:31 | 小説
  第五章 白石との再会

同僚の白石は治子との思い出も忘れ、順調に業績をあげて出世をしていった。
白石のいる会社は、次々と出資していた観光会社の経営権を取得して、温泉宿の古い経営体質から観光リゾートへの脱皮を図ることになり、白石に経営を委ねた。

白石は持ち前の強引さで、旧経営陣と縁の有る社員を全員解雇し、自分の方針に同調する者のみで体制を確立していった。
 
一方、おかみさんの経営している温泉宿は、ひなびた田舎の湯治場の古い温泉宿なので、常連客には人気があるが、新規の利用客は伸び悩んでいて経営は厳しく、いたる所の修繕に資金が必要であった。
おかみさんは仕方なく投資会社から経営参加を条件に資金を借り入れたが、投資会社は経営効率を考えて、リゾートホテルへの転換を迫った。
しかし、おかみさんは経営効率より常連客がくつろげるのが湯治場なのだと、受け入れを拒否し続けたので、投資会社は投資効率を向上させて温泉宿を転売し、高収益を揚げることが不可能だと判断し、商社に持ち株を譲渡してしまった。

商社は投資会社のようなスピードは要求しないが、五ヶ年計画で経営改善を求めてきた。
しかし、おかみさんは、常連客がくつろげなくなるような五ヶ年計画は立案せず、商社とも対立していった。
また、高齢なおかみさんは信頼を置ける治子に温泉宿の実務全般を任せ、自分は経営判断のみを行なうようにしていた。

ある日、治子は商社との会議におかみさんと同席する事になって、温泉宿の玄関で商社のメンバーを出迎えた。
そして、商社のメンバーが乗ったタクシーが温泉宿に近付いてくると鹿が「ギュルギュル、ギュ~イ。ギュルギュル、ギュ~イ。」と激しく威嚇するように吠えた。

タクシーが玄関に止まり、そこから最初に下りてきた男の顔を見た治子は目が釘付けとなった。
「白石さん。」
「おう、君はこんな所に居たんだ。元気かい?」
「あらっ、この方をご存じなの?」
おかみさんは不思議そうに治子に問いかけてきた。
「この人よ、商社で一緒に働いていた人は。」
「そうなの、この方なの。」

「私は君の残した損失を半分にした能力を評価され、観光会社の社長に抜擢されたんだけれど、本当はこんなちっぽけな子会社の社長には収まりたくないんだよ。私の実力は親会社の商社の社長に相応しいんだよ。その時までにこのちっぽけな温泉宿は取り壊して、この辺一帯を日本でも有数なリゾート施設にしてしまうよ。こんな湯治場の温泉宿ではまともな収益は見込めるはずがないんだよ。」
「いいえ、湯治場はお客様がゆっくりくつろいでもらう場所なんです。」
「それでは投資効率が悪いのが、あなたもお分かりだと思いますがねえ。先祖代々受け継がれた温泉宿だと思いますが、時代の流れに取り残されて、逆にご先祖様に申し訳ないのでは無いのでしょうか?」
「いいえ、私の代で終っても、常連のお客様が喜んでいただける温泉宿のままにします。」
「分りました。それでは臨時の株主総会と取締役会を開催して、この温泉宿の取り壊しとリゾート施設建設の決議を行ないます。」
「私は決議に反対します。」
「現在の株主構成をご存じでしょ。今、我々は何でもできるんですよ。
それから治子さん、あなたは社員名簿に載っていないので正式な社員ではないですよね。君さえ良ければリゾート施設の副支配人として私が雇ってあげてもいいよ。今の私は何でもできるからね。君が副支配人でここに居てくれたら、私がここに出張で来た時に、以前のように二人で夜を楽しめるしね。」
「お断りします。あなたは、私の知っている白石さんではありません。」
「この温泉宿は間もなく無くなるのだから、考えた方良いよ。」
「結構です。」
「おかみさん、あなたの頑固さは分りました。今日は、これから帰って臨時株主総会の準備を行いますので、招集通知書が届いたら出席して下さい。代わりに委任状を提出してもらっても良いのですけれどね。それでは今日はこれで。」

そして、タクシーが走り始めると、鹿がまた「ギュルギュル、ギュ~イ。ギュルギュル、ギュ~イ。」と、けたたましく吠え立てた。
草食動物の鹿は下の前歯(切歯)が包丁となっていて、前歯の無い上あごに草を押し付けてかみ切って食べているので牙は無く、本来おとなしい動物なのであるが、そのおとなしい鹿が威嚇するような形相で歯をむき出しにして吠え立てたのであった。

セミの終わる頃(9)

2016-12-30 13:25:18 | 小説
    第四章 鹿の想い

治子が介抱してやった小鹿はお嫁さんを連れてくるようになり、仲睦まじくしている。
しかし、治子を見る目が潤んでいて、エサをくれる人間以上の想いが治子には感じられる。
成長した雄鹿の治子への想いは、自分達に小鹿が産まれてからもずっと続いており、雄鹿が治子にすり寄って来た時に
「あなたには奥さんが居るでしょ、浮気はダメよ。」
と声を掛ける毎日であった。
治子も若い雄鹿が人間であれば不倫に及んでいただろうと考えて、フッと白石との思い出が頭をよぎることが有った。
白石とは恋人ごっこであったが、体は激しく燃えていた。本当の恋人であれば、この上ない幸せであっただろうと考えると、寂しさが込み上げてきた。

治子はふっと、この鹿が人間であれば命を助けてあげた男性から感謝の心と愛する心を貰えるなんて素敵ではないかと考えた。

「ねえ、私とずっと一緒に居てくれる。」
「もちろんだよ、僕の命は全て君の贈り物だからね。体も心も全て君に捧げるつもりだよ。」
二人で知らない地に足を踏み入れたり、
名作のラブストーリーが上映されている空間で二人が主役になったり、
二人で小さな遊園地の迷路で迷ったり、
今日は特別な日だから奮発した食事をしたり、
太陽の下の広い海辺で水着を着た二人で駆けっこをしたり、
大空の花火を見た後で手に持った線香花火に火をつけて二人で眺めていたり、
大きな木の陰で背中合わせに座って本を読んだり、
思い切ってオーロラを見に行ったり、
今まで忘れていた思い出造りができたであろうと思うと治子は寂しさがこみ上げてくるのであった。

そして、治子はこの鹿の愛情が手に取るように分るが恋人にはなれない。
「あなたには雌鹿と小鹿がいるでしょ。」
「鹿の愛と、人間への愛とは別なんだよ。僕は鹿であり人間なので、人間の僕が愛しているのは治子さんだけなんだよ。もちろん鹿の時は雌鹿と小鹿を愛しているんだよ。」
「そんな都合のいいことが有るの?」
「僕の愛は鹿とか人間とか関係なく、生きているものに対する愛なのです。」

セミの終わる頃(8)

2016-12-29 09:46:25 | 小説
「ねえ、今だから聞けるけれど、あなたは何をしにここに来たの?」
「ごめんなさい、この近くで死ぬつもりだったの。
だけれど、この小鹿を見た時に、猟師に撃たれた母鹿に代わって、私が母親になってやろうと思ったの。
死のうと思っていた私が、生きる努力の手助けをするなんて皮肉よね。
本当にこの小鹿に生きる事を教えてもらったのよ。
そして、この子が若い雌鹿を連れて来て、僕のお嫁さんだよと見せに来てくれた時は、すごく嬉しかったの。
生きていて良かった、私はこの小鹿に生かされたんだと思ったの。」
「やっぱりねぇ、私の経験からして最初に会った時にピンときたのよ。そうよ、この子のためにもちゃんと生きないとダメよ。」
「ええ、分かったわ。」

「もう少しあなたのことを聞かせて。」
「ええ、いいわ。小さい頃の私は頑張り屋さんで、何でも自分でやってきたの。
勉強も運動もみんなに負けないように頑張ったの。
会社でも人一倍頑張っていたんだけれど、それは恋人の居ない寂しさを仕事で紛らわしていたのよね。
そして、特別好きでもない妻子の有る男性社員とセックスをしていたのも、現実をごまかしていたのよ。
忙しい時にミスをして会社に損失を被らせてしまった時に、自分は一人ぼっちで恋人ごっこで自分の心をごまかしていたのに気が付いたの。
或る日、仕事の空間に私一人取り残されて、音も無い、風も無い、ただ光だけの世界で、自分の体を突き抜けて行く光を見ていたの。すごく寂しかったわ。」
と治子は吐き出すように、おかみさんに打ち明けた。

窓の外では鹿が、治子とおかみさんとの話を食い入るように聞いていて、心なしか頷いているように見えた。

「商社は評価が厳しいので、大きな失敗を犯すと閑職に配置換えさせられるの、一生懸命に仕事をやってきたのに寂しかったわ。
配置換えになってからは暇となり、抜け殻のようだったの。 
そして、目的の無い旅行に出たの、いいえ、死ぬ場所を探す旅行に出て、ここの駅に下りたの。」

ここまで話した治子は喉のつかえていた物が取れたようにフゥと大きく息を吐いて気持ちが落ち着いた。

「そして、夢も目標も失っていた私が、母親を猟師に撃たれ、自分も傷付いた小鹿を見た時に小鹿を助けなくちぁと思い、死ぬ事だけを考えていた私が、小鹿に生きて、生きて、と叫んだの。
皮肉よね。
今は怪我も治り、私の子供のように甘えてくれて、私の生きる目標ができたの。
この子はお嫁さんをもらって、可愛い小鹿が産まれ、素敵な家族となったのよね。
みんな、みんな生きているのよね、
私も死ななくて良かったと、本当に思っているの。」

「最初にあなたを見た時に、私の永い経験で、この人は自殺するだろうなあとピンときたの。
実はね、あの時小鹿を抱いて帰ってきてくれた男の人はここの従業員なのよ。
あなたが何かやらかすのではないかと思って、あなたを見張るように頼んでいたのよ。
それでなければこんな山間で男性が必要な時にすぐ現れることは無いでしょ。」

「そうだったの。でも助かったわ。」
「それからね、あなたの命の恩人のあの鹿は、あなたに甘えているんじゃなくて、あなたに恋をしているわよ。」
「えっ、鹿が人間に恋をするの?」
「絶対そうよ、あなたを見る鹿の目が潤んでいるもの。」
「あら、そうなの。鹿でも嬉しいわ。でも、雌鹿といつも一緒よ。」
「鹿への恋と人間への恋は別なんじゃない?」
「そうかしら?」

セミの終わる頃(7)

2016-12-28 21:29:50 | 小説
  第三章 小鹿との出会い

次の日、少しこの地の雰囲気に落ち着きを取り戻し、散歩の途中で会社に帰るか死を選ぶかを真剣に考え始めた。

「私はこれまで自分を顧みないで頑張ったわ。
もちろん、時々愚痴はこぼしていたけれど、仕事一筋に頑張ったのよ。
青春を会社に捧げてきたのよ。
一緒に入社した令子もユリも会社を去って行ったけれど、私だけは頑張ったのよ。
そうよ、私のミスで会社に大きな損失を生じさせてしまったけれど、忙しすぎたのよ。
言い訳にしたくないけれど、毎日忙しく疲れていたのよ。
そうよ、私が悪いのではなく、会社も悪くないのよ。
そういう時代なのよ。」

治子は昨日も来た小高い山の中腹で眼下の街並みを眺めながら、今日も決心がつかないでいた。しかし、この場所は治子の気持ちが安らぐところで、昨日もここで半日過ごしていた。今もこの場所で費やしている時間も、頭の中の整理も、昨日となんら変わりが無かった。

治子が予定も無く宿泊し始めてから三日目に、セミが鳴いている近くの丘を散策していた時にパーン、パーンと音がしたので近くへ行ってみると猟師が鹿を仕留めていた。
「最近は鹿が増えて畑の野菜や森の木の芽が被害を受けているので、頭数を減すようにしているんだよ。」
治子は可哀相に思ったが、人間と鹿との共存には仕方無いと納得させられた。

そして、温泉宿に帰っている時に道のすぐ近くの笹藪で何か動いているのに気が付いた。近付いてみると頭から血を流している小鹿で、先ほどの猟師によって母親と死に別れて逃げてきていたのである。 
治子は可哀相に思い温泉宿へ抱いて連れて帰ろうとしたが、小鹿はおびえて暴れるので抑えきれないでいると、
「私が連れて行ってあげましょう。」
と言って年配の男性が現れて小鹿を抱きかかえて旅館に連れて帰ってくれた。

「おかあさん、この子がかわいそうだから私が旅館で介抱をしてやりたいの。」
とお願いをしたところ、
「母親が猟師に射殺されて小鹿だけが残ることがよくあるのよ。」
と教えてくれて、快く引き受けてくれたので治子は安心した。
よく見ると小鹿の傷は弾がかすっただけなので消毒をするだけで大丈夫な様子であり、そのまま温泉宿で治子が面倒をみることにした。

治子は小鹿に対して
「生きて、生きて、私が見守ってあげるから、絶対生きて。」
と言い続けて小鹿の母親代わりとなって一生懸命に面倒をみてやったので、最初はビクビクしていた小鹿も、何日かすると治子の手からエサを食べるようになって、治子を本当の母親のように甘えるようになっていった。
治子は小鹿の死の危機からの脱出と、自分の死への願望とで、自分の心の不思議な対立が感じられた。

宿のおかみさんも、治子の献身的に面倒を看ている姿から、彼女の人柄に安心感を持ち始めたのだった。
治子が初めて旅館に来たときは若い女性が一人で予約も無く宿泊に来たので、今まで不審がられても仕方が無かった。

セミの終わる頃(6)

2016-12-27 21:22:00 | 小説
きしむ廊下を進んで質素な八畳ほどの部屋に案内された治子は、都会の生活からかけ離れた静けさを感じていた。

室内はきれいであるが必要以上の設備は無く、程よい広さとなっていて、宿泊客が自宅にいるようにくつろいでもらうために、布団の上げ下げや浴衣の取り換えや部屋の掃除などは宿泊客に任されているが、それが湯治湯の構わない気配りである。
また、信州を満喫してもらえるようにと日帰りのツアーも用意されているので、急ぐのでもなく暇をもてて余すのでもなく、程よく時間を活用できるように配慮されているのも、湯治客にとってはうれしい配慮である。

「よくいらっしゃいました。あとで結構ですけれど、この宿帳に記入をお願いしますね。ところで、あなたはうちには初めてですよね。よくこんな山間の地にいらっしゃったわね。どなたかからお聞きになっていらっしゃったの?」
「いいえ、まるっきり知らないで来ました。だけれど、私はこういう山間の雰囲気が好きです。」
「こんなお若い方が珍しいわね。何も無いところですけれど、ゆっくりしていってくださいね。」
「ありがとうございます。」

治子はなぜか過去に社内旅行で来たことを話すのをためらったが、今夜の宿を確保できたのでホッとしていた。

「懐かしいわね、昔と全然変わってないし、この籐の椅子も昔のままだわ。」
治子は我が家に帰って来たような安堵感を覚え眠りについた。

次の日、治子は今自分が何処に居るのか知るために朝食後に近くを歩いてみた。
旅館から昨日バスを降りた鹿教湯温泉のバス停に行ってみると、昨日は暗くて良く見えなかったが地元の名勝が八個の案内看板で紹介されていて、ひときわ大きな鹿教湯温泉交流センターの看板が人目を引いていた。
観光名物の『おやき』や『かけゆまんじゅう』を販売している小さな商店や信濃湯の宿の看板をゆったりと眺めながら、車が交差できるだけの道幅の道路を歩いて行った。

「あの頃とあまり変わっていないわね。お店も増えていないようだし、温泉街というような煌びやかな様子もないし、田舎の湯治湯の面影がそのまま残っているわね。街並みは変わっていないけれど、私は大きく変わったわ。
みんなとここに来た時と、仕事一途に突き進んでみんなと競争していた時と、挫折を感じた時と、私は大きく変わったわ。」

治子の歩いている山間の道の木々ではセミが忙しく鳴いており、小鳥の声が時折聞こえるが、今まで毎日耳にしていた自動車のエンジン音は聞こえてこない。

治子が仕事をしている会社の近くには、街路樹が植わっているがセミが鳴くのを聞いたことは殆ど無かった。生命体によって感じる季節感は無く、ビル風や多くのビルから吐き出される熱風、そして光化学スモッグなどで季節感を感じているのが現実である。

取引先へ打ち合わせに出向く時以外は空調の効いた事務所の中で取引先との連絡を行っているので、季節を感じるのは通勤の時のみであった。