今年は例年になく早い梅雨入りとなった。聞くところによると、過去二番目に早い記録なのだとか。
3月11日に発生した、東日本大震災。加えて福島原発の事故から、まもなく3ケ月になろうとしているが、復興の槌音が聞こえるどころか、一向に進んでいる気配が見られない。さらに原発は未だ収束の目処さえ立っていない状況である。
色々な話がされているが、事実が明らかになればなるほど、専門家であるはずの人間をはじめ、原発に対してのさまざまに関わっている人たちの意識の低さ、甘さ、認識不足、リスクに対しての認識の誤認など、たくさんの問題が露呈した今回の事故であった。
通常、こうした誰の目にも危険だ思われる物事に対して、関わる側の人間は、本来最悪の事態を予め想定して防衛、防御に努めなければならないはずである。
しかしながら、往々にしてひとは、最悪の事態を無いものとして捉えたがる。そうした現実を見てしまうと怖くてたまらない、耐えられないと言う心理が働き、あえて見ようとはしなくなる傾向がある。そうした現実からの逃避が結果的に、最悪の事態を生んでしまうケースは決して少なくない。
先週のはじめ、知り合いの身に突破的事故が発生した。
医療従事者である知り合いは、その日、たまたまHIVのキャリアの患者さんの介助をしていた。
そのさなか、事故が起こったのである。間接的であったとはいえ、感染のリスクがないとはいえない場面に遭遇したのである。
知り合いは、直ちに上司にその一部始終を報告、しかるべき対応、処置を要求した。
ところが何故か上司はあいまいな態度のまま、その出来事をやり過ごしてしまったのである。
本来、こうした不測の事態が起こった場合、本人が直接、専門の部署に報告、迅速な対応、処置がとられるシステムになっていたはずであった。
しかし、現実には間接的な接触であったことが、その理由なのか定かではないが、「問題はない」、「大丈夫」との見方をされ、さらに起こったことを大袈裟に捉える傾向にあるとみなされ、注意を受けたそうだ。
本人としては、わずかであっても感染の可能性がある事故に遭遇したわけで、冷静に受け止めること自体不可能に思われる。
ましてや不測の事態が起こったときには、速やかに予防薬を服用するとのマニュアルが存在するとなれば、尚更一刻も早い対応を、処置を願うのは当然のことだ。
その事故があった夜、知人の医師に事の次第の詳細を話したところ「99・9パーセントは大丈夫だと思うが、念のため専門の検査を受けることを勧められたそうである。
それからの数日間、本人は生きた心地がしなかったと話していた。
頭に浮かぶのは、大丈夫だろうと言われた99・9パーセントの方ではなく、感染する可能性があるかもしれない0・1パーセントのほうだと言う。
もし私が同じ立場に置かれたら、やはり最悪の事態のほうを想像しただろう。
仕事の都合上、すぐに検査を受けられなかったことも不安を増幅する大きな要素になったことは間違いない。
やっと昨日、専門病院で受信することができ検査をしたそうだが、結果は一週間ほどかかるという。
担当の医師からは、「感染リスクがあることは間違いない、リスクがあった時点で本人が感染対策専門家に直接アクセスできないと、システムとしてはまずい。問題提起したほうがいい」と言われたそうだ。
しかし、果たして一個人が大きな病院、巨大組織を相手に、事実の次第を報告、問題提起できるか甚だ疑問である。すんなり取り上げられ、改善してもらえるどうかわからない。
マニュアルが存在していたにもかかわらず、実際には無視されたも同然なことを考えると、問題提起など到底できるとは考えられない。
それが現場、現実、実体なのである。
こうした状況は、他にもたくさんあるだろう。
リスクをいろいろと考えていたら仕事にならないという意見も聞く。慣れからくる油断もあるだろう。そして一番怖いのは、慣れからくる危険に対しての感覚が麻痺してしまうことだ。原発問題しかり、HIV感染の対応しかり。
私たちは、もっと自分が置かれている環境や状況、自らの行動についても繊細な意識、感覚を備えていなければいけないのではないだろうか。
そして、何か問題が起こったときに問題を提起する方法についても考えておかなければいけないのかもしれない。
ちなみにHIVの検査は、感染した可能性がある出来事の直後だけでは正確には分からないそうで、潜伏期間が2~3か月あるのだそうだ。
知人も一週間後の検査の結果が大丈夫だったとなっても、まだ安心はできない。
3ヵ月後に確かな安心のパスを獲得することを祈るばかりである。