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新疆生産建設兵団の真実:王震生誕100年

2008-04-14 23:15:29 | ニュース

Wangzhen_2 ウイグルのもう1つの占領部隊とされる新疆生産建設兵団、その設立者であった王震が生きていれば100歳の誕生日となった4月11日、北京では次期国家主席と噂される習近平を司会役として王震を称える座談会(研究会)が行われたとか。王震はなく子も黙るような恐怖政治をしたとも伝えられ、また文革中は失脚したが復活し、天安門事件のときは弾圧に力を尽くしたともいわれているがその全体像はあまり有名ではない。そしてこの人物はしかし中日友好協会の名誉会長も勤めたらしく日本ともかかわりの深い人物である。その王震の記事があるサイトに記され、それがUAAに転載されている。日本が新疆に経済援助や企業進出を行う中でも「兵団」は重要な役割をしているのではないかと思う。ある意味日本もウイグル侵略に手を貸している。「兵団」その本質を探る興味深い記事である。

書いたのはMark O'Neill氏、サウスチャイナモーニングポストへの寄稿が多いようだ。


在米ウイグル人協会
http://uyghuramerican.org/articles/1635/1/The-Conqueror-of-Chinas-Wild-West/index.html

4月11日、何十人もの中国の軍、政府、そして党の指導部の高官がウルムチに王震、中国の最も大きな西部を共産主義者の為に征服し、その中で独特の団体を作り上げた男の生誕100年を記念するために集結した。

1954年、中国が共産主義者の一党支配にあり、その非漢族の住民と彼らの住む反抗的な辺境地域が歴史的な、可能性は低いにしても独立の機会を表現していた時、毛沢東主席は新疆を中国にとどまらせる使命を帯びた屯田兵の組織である、漢語でBing Tuan(兵団)として知られる新疆生産建設兵団を設立させるために王震を(新疆に)送った。

ウイグル人の中での断続的な動乱にもかかわらず、(新疆生産建設)兵団は15年前に85歳で死んだその設立者の野望を越えて成功した。当初の175,000人の兵士から、5つの大都市をもつ7万4千平方キロを管理している250万人の団員をもつ存在に成長している。兵団はまるで独立王国のように運営されており、独自の学校、大学、病院、裁判所、警察、新聞及びテレビ局を持っている。

新疆政府に従属せず、兵団は北京に直接報告し、そして北京のこの地域のための戦略の中で中心的役割を果たしており、鉄鋼やトマトを日々生産し毎夜の国境のパトロールの準備を整えている。中国の国家的スポーツ大会に独自のチームさえ送り込んでおり、新疆の綿花の40%、大豆等の脂肪種子の3分の1、甜菜のほぼ半分を生産している。兵団はトマトペーストの世界で最大の生産者の一つにもなってしまっており、昨年は大部分がが輸出の40億元のセールスがあった。1.500の企業を運営し、そのうち11は多くの株式市場のリストの中にある。
兵団はこの50年以上の間、中国の全体の6分の1を占め、石油、ガスおよび31種の開発可能な鉱物の実際の資源の22%以上を埋蔵するこの地域における
植民地化の最重要な団体になった。

「王震同志は我々に、祖国の国境を守るための武器を片手に持ち、もう片方に生産を発展させるための道具を持て、という使命を与えた。」記念祝典で兵団の司令員、華士飛(Hua Shifei)は述べた。

1949年に遠い南京での国民党政権の打倒のとき、漢族中国人は新疆の人口の3%以下に過ぎなかった、この数字は現在では40%に上がっている。この地域からどのような分離も防ぐために第一野戦軍が送り込まれて、その使命を冷血な効率で遂行した。

主な戦闘が終わった後、問題はいかにして北京がこの巨大な地域の管理を徹底させるかであった。漢族中国人はこの厳しい砂漠気候で、雨量の少ない、インフラがなく、敵対的住民を持つ地域には移住したくなかった。毛と王はこの地域の兵士を黒龍江省や内モンゴルのように建設兵団を設立するために用いることを決めた。兵士達は人口の少ない地域に定住し、土地を耕して国境を防衛したものだった。

兵団の一員となったのは人民解放軍兵士に加えて降伏した国民党や東トルキスタン共和国の兵士もいた。中央政府は後に何十万の人々、主に女性を中国全土から兵団に参加させて新しい世代を創出するために送り込んだ。

イスラエルの開拓者のように、屯田兵は灌漑水路や防砂や外敵からの防御のための林を作り、大規模集団化農場で作物を育てた。彼らは道路、電話線、工場を建設し、1975年に奎屯(kuiton)、1976年に石河子(Shiheze)のような大都市を創った。

1962年、中ソ対立の始まりのすぐ後、6万人の少数民族がソビエト連邦に逃亡し北京は戦争を恐れた。兵団員は逃亡者の所有していた農場を引継ぎ2000キロの長さの国境に沿って58の新農場を建てた。

1991年のソヴィエト連邦崩壊と主要な民族にも続いた中央アジア共和国群の出現で、北京は独立ウイグリスタンを恐れた。しかし中国は5つの隣接する共和国と良好な関係を作り上げた。ウイグル人に中国国境内で政治的あるいは軍事的な組織や独立国家を創ることを許すことを支持する国家はなかった、しかるに亡命者は彼ら自身、バラバラになり中国の工作員に浸透されるようなってしまった、彼らの枠組みを活性化させるようなダライラマのような世界的なシンボルもいない。

このような状況で兵団は経済的、そして社会的に強力な組織となった、人民解放軍が軍事的役割を果たす中で兵団員は予備役そして民兵として活動している。
漢族中国人がその90%を占める中、兵団はしかし王震の往時とちがいその団員の意思に反して新疆に留めおく事は出来ず、団員により良い生活、教育と出世の道の約束をすることで彼らをひきつけなければならない。

兵団の政治委員、聶衛国(Nie Weigo)は3月24日に2010年までに兵団は祖生産を650億元、輸出入を710億米ドル、一人あたりの平均所得を7,500元、(中国の非都市部では4,000元である)、にすると言った。兵団内の都市、工場、農場では新しい中国中央部や東部からの開拓民へのチャンスを創出してきており、漢族中国人が(中国の)後背地(たる新疆)の多数を占めることを助成してきたのである。

しかし、重武装のイスラエルやウエストバンクの開拓地コミュニティのように、兵団は内戦の危機がある限り経済的な存在にはなりえない。

「兵団は連結する生産と軍事的な任務の平等な重要性の原則に固執している。」兵団についての政府白書にはこうある。

「兵団は辺境地域に人民解放軍、人民武装警察、兵団、一般の人々を連結させる、『4を1つに』のシステムで、過去50年にわたって内部的また外部的な分離主義者の破壊と浸透の試みを打倒、抵抗することまた祖国の国境の安全にかけがえのない特別な役割を果たしてきた。」

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この記事の中のレポート(pdf)で東レの研究員の御法川紘一氏は新疆生産建設兵団はいまや非軍事組織であるとの見解をみせている。
中国への配慮なのか?

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