新潟妙高で農家を営む家族8人の物語

新潟妙高で農家を営む家族8人の物語

15年前のおばあちゃんお思い!

2008年05月19日 | Weblog
先日戸棚をかたづけているとおばあちゃんが書いた昔の冊子が出てきた。
下記の通り15年前に書いたものでした。私的には非常に嬉しくなりデジタル保存しなくてはとの思い出そのまま書きつづりましたがかなりの長編です。農家ならではの単語も出てきます10a=100m×10m
暇な所にお読み下さい。

この農業を孫に期待する
新潟県妙高市関山1731-1
                          小出トシノ(66)
1. 地域の概要
 私の生まれ育った旧豊芦村樽本は関山駅から15km、海抜500m~800mの間に耕地が散在し、その昔、源平時代に肥沃な土地を利用し焼畑農業をしながら住み着いたものらしい。
2. 嫁いだ頃
 私が嫁いだ昭和23年頃は、村の平均耕作面積50a程度で、農地は高冷地だったので毎年冷害で稲作は多くの収入が見込まれなかった。従って畑作が中心で戦前戦後は馬鈴薯、雑穀を栽培、その後は葉タバコ、夏秋トマト、に変わってきた。
 昭和23年、保温折衷苗代がようやく県内で始められた頃、村では我が家がまだ一軒だけだった。その秋には米70俵を出荷し、村一番の供出だった。その時の嬉しさは今でも私の頭に焼きついている。
しかし、米は自家用を除いてしまうと販売量は僅かであった。主人の妹達が嫁いでからは労働力が不足だったのでなるべく人手がかからないようにと昭和27年に耕耘機を導入、当時まだ近隣には少なかった近代化農業を進めてきた。
 畑作を進めるには労力もかかり収入も少なかったので稲作一本にしようと昔からの小さい田んぼを大きく広げた。その時代にはまだ一輪車も無かったので鍬やスコップを使い土を背中に背負って古い田んぼを直していったものである。
3. 長男の中学卒業
 昭和40年、長男が中学卒業の時期であった。その頃、義父母は農業の労働力としてはもう無理だったので時々長男を手伝わせていた。それが良かったのか卒業の作文に将来の夢と題して「村一番の農業を目指して」という作文を書いた。それを見た私達夫婦の胸の中に何か大きな希望がわいてくるような気がした。
 その頃、村では中学を卒業した青年は、長男なら役場や農協または郵便局に勤め、次男なら集団就職で都会へ行く人がほとんどで、家に残って農業を行う若者はいない時代だった。学校の担任の先生が何度となく進学のお話に来てくれた。しかし、主人が先生に「長男は俺が小出農業大学を卒業させてみせる」の一言でその場を通し続けた。
 長男の中学卒業後は村の農林課を通して県の緑の学園で水稲、機械、経営の三科目を勉強させていただいた。
 忘れもしないその時だった。初めて学園へ出発する日の朝でした。中学を卒業したばかりの世間知らずの子供が一人で巻町まで行くのは可哀想な気がしたので母親としていろいろ励ましの言葉をかけてやった。その時、主人が一言
「将来、希望を持つ男が一人で巻町くらい行けぬようだったらもう家には帰って来なくてもよい」
と言った。それは息子の出発の朝に際し、父親の励ましの言葉だったのである。
4. 長男の就農と出稼ぎ
 長男が中学を卒業してからは、親子三人、無我夢中で農作業に励んだ。そして、いつも今後の我が家の農業について語り合い、苦しい中にも楽しみとやりがいを感じながら頑張った。その頃次男、長女二人を高校進学させるには収入の少ない山村にとって容易な事ではなかった。そのために長男は冬期間出稼ぎに出た。当時の村の男衆のくらしは、出稼ぎが中心で、家に残った者は藁細工で僅かな収入を得ていた。
 長男は長野県諏訪市で寒天作りの職人として働き、春3月に持ち帰って来るお金は、私達にとって大変な助けだった。6年間の出稼ぎの賃金でバイク、トラックと次々に購入し、農業の近代化をはかり始める事ができた。
5.関山地内に土地を求めて
 長男は心身共に一人前に成長し、規模拡大を進めようと親子で真剣に相談した。
規模拡大をするには樽本の狭い所では無理である事に気づき、同じ妙高村の関山に土地を求め、三年間樽本から通勤農業を続けた。
 その間、一層意欲を燃やして頑張ったが、その頃資金繰りは今思えば大変苦しかった。生活費を最小限に抑えて、私達の合い言葉は「何事も五年計画で働けば何とか成功する」と心で叫びながら頑張り続けた。
 この頃、主人は村会議員に当選させていただいた。そのお陰で、関山の村民の方々と広いお付き合いができ、関山耕地に田んぼを借り受け規模拡大を実現させる事ができた。
6. 関山に居を移して
 次第に通勤農業が不可能になったので、現在地に宅地として10aを買い求め昭和45年8月転居する事になった。その時の嬉しさとこれからの農業に対する意気込みは親子3人一生忘れる事ができない
  「代々の愛しす土のぬくもりを残して今は我はいくなり」
 これを機会に私達は心機一転、心も住宅も新しく、これから始まる第2の人生を今まで以上に頑張った。秋の取り入れが終わると、少しでも営農資金の足しにとスキー場に3人でバイトに行った。そして、自作地1ha、小作6haの田んぼを手に入れ、小型トラクター、2条田植機、小型コンバインを購入し私達の労働は大変楽になった。
そのためか長男は今まで以上に稲作を研究し、意欲を燃やすようになった。
7.長男の結婚、そして嫁の病気
 ちょうどその頃、妙高高原の兼業農家の娘さんとの縁談がまとまり、我が家にも春が訪れた。しかしそれもつかの間、2年後の8月、子供を出産して2日後に脳腫瘍のため倒れ、意識をなくし救急車で新潟大学病院に入院する事になってしまった。
 幸い、生まれた女の赤子は元気だったが小さいために保育器に入り、母親の病気で名前すら付けてやれぬ状態だった。その当時の事を考えると、今でも背筋に水をかけられる思いである。
 それからというものは、田んぼは二の次で嫁の病院と退院した赤子の育児で私の頭はいっぱいとなり、農作業の事はまるで手につかず生き地獄とはこの事と悩み続けた。しかし、その時の主人の言葉「災い転じて福となる。竹の節の如く、現在の難を乗り越えることによって幸福を迎えられるのだ。」と強く家族を励ましてくれた言葉が今も頭に染み付いている。私の前では決して涙も見せなかったその主人が、孫娘を抱いて目を潤ませている姿が今でも思い出される。
8. 孫娘の子育てと農業
 それからの毎日は家族ぐるみで協力しあい当時23歳の末娘に子守りを任せ、病院と農業とに頑張りながら、孫を親なしにしたくない一心で藁をもつかむ思いで神仏に祈った。しかしその甲斐もむなしく、とうとう昭和53年12月28日、一人の女の赤子を残してあの世の人になってしまった。その時の私達親子の心情は言葉には言い表す事ができない。しかし、ここで私がくじけては・・と思い、再び心を強く持ち、育児と農業にただただ懸命に頑張る毎日だった。
  「若くして嫁ぎし  いたむ母の胸  涙で語る祖母と二人で」
 何しろ母親亡きおばあちゃん子だったので未満児で保育園に入れてもらった。保育園に入った数日間は、泣く子を預けての送り迎えで後ろ髪を引かれる思い。心を鬼にしての毎日であった。
 ようやくその子が4歳になった頃、一生懸命に可愛がってもやはり母が欲しかったのであろう、ある日突然「どうして私にはお母さんがいないの。おばあちゃんはおばあちゃんでしょ」と言う孫の一言。私は胸に針をつき刺されたような切ない思いだった。
9. 長男の再婚
 それからというもの、長男を相手に主人と3人で昼は農作業、夜には後添いの話で夜が明けた事もあった。
 何しろ農家であり、また子供がいる所になかなか来てくれる女の人はいなく、本当に困っていた所、ある情報誌により群馬県の農家の娘さんとお話があり、早速、長男との付き合いが始まった。
 長男のとの付き合いばかりでなく、家族ぐるみのお付き合いとなり相手方のお父様は農協の理事をされている方で、農家の事情も良くご存じで、3ヶ月のお付き合いで結婚へと進んだ。そして農繁期前に式をあげなければと相手方のありがたいお言葉に早速、昭和57年4月4日めでたく挙式する事ができた。
「捨てる神あれば  助ける神あり」との昔言葉。その時はしみじみとこの諺をかみしめたものだった。
 4月雪解けの春、今度こそ我が家に春が来たのだと親子親戚一同で御祝いをした。
 それ以来、孫娘をはじめ家族全員健康に恵まれ、縁あって嫁いでくれたお嫁さんとは家族円満を第一に心掛け、私と一緒に頑張ってくれている。
 長男も一層農業に真剣に取り組み、嫁さんも農業の経験こそないが、子供の頃から親の仕事を見てきた事もあってか、家事はもちろん、育児、農作業も熱心に最後まで成し遂げ、私達家族は大変喜んでいる。
 それ以来、家事の事は一切嫁に任せ、私は農業に専従し主人と嫁夫婦の」4人で一層農業経営の規模拡大に」努めてきた。
10.長男夫婦と共に歩む農業経営
 昭和60年、妙高村北部圃場整備事業で主人会長になり、自作地で5haの耕地を手に入れ、一年ごとに借地が増え、現在は全耕作面積が17haの大規模経営となった。
 それ以来、いつも前の車には若夫婦、後ろの車には老夫婦と2台の車で田んぼを駆けめぐり頑張り通した。その年の収収穫量は30kg袋で3000袋余りを出荷した。
 春からの苦労は本当に大変だった。しかし、秋の収穫の喜びが、明日からの農業の励みとなった。そして、若夫婦の農業に対する意欲を充分に感ずるようになり、我が家の経営を全部若夫婦に任せ、私達老夫婦は補助者として働く事になった。
大型機械は毎年1台づつ更新し、春は大型トラクター2台で若夫婦が耕し、田植機は乾田用6条植、湿田用5条植、側条施肥機2台揃え、秋には4条刈のコンバインも買い、本当に考えてもみなかった農業経営になった。
 そして、より作業がしやすく、効率をよくするために作業所を新築する事になった。当地は豪雪地なので、地上2階、地下1階で、地上は車庫または作業所として、地下は育苗の作業所として活用できるように設計した。こうした工夫がみのり、労力の軽減とコストの低減につながり、私達女性の仕事も楽になり、農閑期には旅行やレジャーも楽しむ事ができるようになった。大規模経営になると作業が大変になると心配していたが、逆にこの様に楽ができるようになるとは思ってもいなかった。
 長男は昭和63年県の指導農業士に認定され、若夫婦で様々な会議に出席し勉強をさせていただいている事を私達は親として大変喜んでいる。役場や普及所とも親しくなり、田んぼのことは「小出に」との話が出るようになり、平坦地に負けない、大規模農業がこの山間地でも夢ではないと思っている。
11.これからの農業を孫娘に託して
 休耕地に毎年、妙高村名産のそばを作付けし、冬期間製粉し出荷をしている。また、若夫婦は冬期間スキー場に勤め、農外収入を得ている。そして、およそ20年間みんなで頑張り、再度住宅を新築する事になり、平成元年8月、4階建ての新居が完成した。引っ越しをしたちょうどその日は、苦労して育てた孫娘の誕生日だった。これも家族みんなの努力と健康が我が家の幸せに結びついたものと、今感謝の気持ちでいっぱいである。
 これからの日本の農業は一層厳しくなることが予想される。私達稲作農家は今まで以上に、農協、普及所の方々と相談し効率の良い稲作りを勉強し、消費者が喜ぶような美味しいお米を作らなければいけないと思っている。中学を卒業した孫娘は、親の仕事を見て育ったせいか、今年農業高校の経済科に入学し、家中が嬉しく、期待の気持ちでいっぱいである。
 初めは本人も不安そうだったが、入学して日が経つにつれて、学校の先生も先輩も良い人ばかりで、今ではいろいろ夢を持って勉強に励んでおり、農繁期には進んで手伝いもしてくれている。
 私達親子2世代で築き上げた農業を孫娘の代には更に中山間地で安定した稲作経営が出来るようになることを夢見て、主人と二人で老後を楽しみたいと思っている。
 「苦と喜を共に暮らした年月も ここに幸あり妙高のふもとに」
                  

平成5年8月

タニシの道

2008年05月18日 | Weblog
今日も晴れて農作業日和が続いています。田植えも後3日ほどで終了の見込みです。今のところ機械のトラブルもなく順調に進んでいますよ~少し時間があるので田んぼに目をやるとカエルの卵やタニシが沢山目にします、この写真はタニシが移動した後ですね。この距離でも時間かかったのでしょうね。田んぼ中タニシの道でいっぱいです。

週末の田植え

2008年05月17日 | Weblog
今日は土曜日小学校も保育園も今日は休み!っと言うことで子供達は田植機に乗り込んでいます。田植機も乗り場には丁度良い場所があるのですよね~まるで子供が乗ることを想定して作ったかのような・・・。
子供達はドロドロの中を田植機が走れるのが嬉しいらしいです男の子の感覚は分かりませんね
明日も休みです明日も乗るんだろうな~私は楽で良いのですが

苗箱の中は?

2008年05月16日 | Weblog
田植えが始まり機械も人も慣れてきて軌道に乗ってきました、田植えをするには丈夫な苗が必要ですが通常は箱の上ばかりを見がちですが本当に大事なのは箱の中、「根」が一番大事なのです。水を吸う力がないと良い稲にはなれないので根を強くすることを一番に考えています。
そこで今日は苗箱の中「根」をクローズアップ
箱の中はこんな感じで根が混み合っています(ちょっとやそっとじゃ)崩れないほど頑丈です。箱の中の根はこんな状態になっているのですよ。
行き場を失った根が大変なことになっているのが分かるかと思います
根が行き場を失い狭くなっているので田植えをすると言うことになりますね

田植え開始

2008年05月13日 | Weblog
いよいよ春作業最後の大一番田植えの開始です。この為に春から頑張ってきました。今年は苗の出来も良く田植えもスイスイと進んで行っています。妙高山をバックに田植え頑張っていますよ。台風の影響で風が強くて変な雲が出ていました。そのなかでも今日は長野のおばちゃんも手伝いに来てくれました長男の運動会の日程も迫って来ていますし何とかして終わらしたい感じですが明日の天気はどうやら

田植え前の苗運び

2008年05月12日 | Weblog
田植え前には苗を田んぼに運ばなくてはいけません、先日作ったラックを使い苗を運びます軽トラックに積んでドンドン田んぼに運んでいきます1台70枚の苗を積んで出発です。田んぼごとに品種が違ったりするので間違わないようにみんなで確認しながらの作業ですね。綺麗な軽トラックは2台ともリースの借り物です新しい車は良いですね~でも室内は汚さないように最新の注意が必要ですね。

今年から畑も少し手伝います。

2008年05月11日 | Weblog
年々足腰が弱ってきているおばあちゃんの手伝いをしようと今年から畑を少し手伝うことにしました。取り合えず何かを植えなくてはと意気込みホームセンターで苗を買ってきてパプリカ・ナス・トウモロコシを植えてみました。
夏には私の育てた野菜がプレゼントとしてお届けできることを祈って!

苗運びラック

2008年05月10日 | Weblog
早いもので最初に出した苗が1ヶ月になろうとしています、明日から苗を田んぼに運ぶ作業ですがこのラックに満タンの苗を付けてそれを軽トラックに積み運んでいきます。一枚5キロ以上の重さになっているのですよ
私の、か弱い腕では・・・(都合の良いときだけか弱く)
あ~明日は全身泥だらけになること間違いなしです。もしかしたら土に足をとられて田んぼで泳いでしまうかも!

代掻き開始

2008年05月08日 | Weblog
田植えの前の準備代掻き(しろかき)が始まりました。
代掻きとは一度土を起こした田んぼに水を入れて水と土をかき混ぜて土をトロトロにする作業です。
写真のように土がトロトロになっているのが分かるかと思います。この長い機械340cmも有りますのでこのままでは道路を走れませんよね、そこでこの機械は3つに折りたたみが出来ますそれも電動で・・・便利ですよね。ダンナ曰く「高さ調整まで機械がしてくれるのでかなり楽だよ」のこと、小出家は3台のトラクターが有りますが運転方法が全て違うらしく載せて貰ったこと有りません。そもそも田んぼの位置よく分かっていませんので