隆々ブログ

小平市議会議員 立花隆一の活動報告です。

《評伝》歯に衣着せぬ発言 小沢氏も一目

2011-11-06 | 政治
11月5日、産経新聞の記事です。 ここ数年、存在感ある政治的言動を示していただけに西岡武夫参院議長の死去には驚かせられました。西岡氏の政治家としての行き方そのものが、迷走する日本政治の歴史を物語っているようです。自民党離党から新進党、自由党から民主党の流れを傍で見てきたので西岡氏の死去には感慨深いものがあります。

(引用) 「政治家は命をかけて仕事しなくちゃ…」  西岡武夫氏は昭和38年の衆院選で初当選以来、日本の行く末を案じ続けた、まさに信念と情熱と決断の政治家だった。

 51年に「保守政治の刷新」を掲げ、自民党を離党して新自由クラブを結成した。以後、自民党復党も含め多くの政党を渡り歩いたが、これも国家の将来を案じた上での決断だった。

 平成6年に民主党の小沢一郎元代表らと新進党結党に参画。以来、小沢氏と行動を共にしてきたが、自由党時代には、民主党との合併に慎重論を唱えて小沢氏を困惑させた。小沢氏も一目置く存在で、政策・政局課題などではしばしば相談相手になっており、小沢氏に直言できる数少ない政治家の一人だった。

 実際、今年6月のこと。東日本大震災の復旧、復興の足かせになっていた菅直人政権に危機感を持った小沢氏はひそかに参院議長公邸を訪れ、「今の危機的状況に対処できるのはあなたしかいない」と、約2カ月後に予定されていた民主党代表選への出馬を求めた。

 西岡氏擁立劇は不発に終わったが、その後も参院議長として歯にきぬ着せぬ発言、行動を続けた。10月27日付産経新聞朝刊には、遺稿となった1面コラム「決断」を執筆し、野田佳彦首相をはじめとする全国会議員に政治家としての覚悟を促した。

 こうした言動ゆえに、政界では「気難しい」「孤高の人」との評や「議長の分限を逸脱している」との批判もあったが、実際には地位におごることのない、気配りの人でもあった。

 約20年前、駆け出しの政治部記者だった私は、自民党総務会長だった西岡氏の担当になり、政治記者のイロハを教わった。周囲からは「西岡学校」と揶揄(やゆ)する声が出るほどだった。

 「政治記者を育てるのも政治家の仕事」「政治家は『知らない』『言えない』と言うのは良いが、事実と異なる嘘をついてはいけない」と常々語っていたが、その裏には「誤った報道で被害を受けるのは国民だ」という思いがあったのだ。

 コラム「決断」は、帯状疱疹(たいじょうほうしん)で体調を崩された中での執筆だったが、題字を含め、締め切りギリギリまで推敲(すいこう)を重ねるこだわりをみせた。掲載後、西岡氏から届いた名刺には「わがままばかりで申し訳ありません」と書き添えられていた。(終了)