黒坂黒太郎コカリナブログ

黒坂黒太郎のコカリナコンサート活動、東日本大震災被災地支援活動など

石巻のコカリナ奏者渡辺杏一さんのこと

2011-04-27 23:31:45 | 被災地支援
渡辺さんに初めて会ったのは今から7年ほど前、コカリナ協会の東京の事務所で、でした。僕が事務所でやっている中級個人レッスンに、新幹線に乗って遠く石巻からやってこられました。それだけでも驚いたのに、お年はもう80歳に届かれるという。そして、演奏を聴かせていただいて、体全体を揺さぶりながらの熱演に衝撃を覚えました。渡辺さんはそれから何度も東京にレッスンに訪れ、コカリナ資格試験にもどんどん挑戦していきました。そして、昨年の秋、最難関である1級試験に合格、講師になる資格を獲得していました。また、渡辺さんは各地で開かれるコカリナフェスティバルにも積極的に参加。そこでのコカリナ熱演もさることながら、二次会で披露する「ボトルフルート」の演奏で、参加者の度肝を抜いていました。「ボトルフルート」というのは大きさの違う様々なビンに息を吹き込み曲を奏でるというなんとも奇抜な発想の楽器です。コカコーラやオロナミンCのビンがそのまま木枠の中にゴムひもで吊ってあり、それをとっかえひっかえ忙しく吹くのですが、これが曲になっていくのですから不思議です。渡辺さんは「一躍ボトルフルートのおじいさん」ということでコカリナの仲間達に知れ渡っていきました。2月末東京で行われた「東京コカリナフェスティバル」にも登場され、帰り際満面の笑顔で「またお会いしましょう」と帰って行かれました。その渡辺さんがあの地震と大津波で行方不明になってしまいました。渡辺さんがお住まいになっていたのは石巻の門脇地区。石巻の中でも最も被害が深刻だった地域です。その渡辺さんはいつも弁護士事務所の3階を借りて練習をされていたのだそうです。その弁護士さんが渡辺さんのためこんな詩を寄せてくれました。

 団長と呼ばれた友よ    渡辺杏一さんに捧げるうた         みちのく赤鬼人

歌を愛したわが友よ あなたは 
多くの仲間と 歌をうたった
私たちの町 いしのまき
友よ あなたは団長だった
混声合唱
市民合唱
こころをあわせて 歌声あわせ
みんなでつくる ハーモニー
ああ わが友よ 団長よ
こんな別れがあるなんて 
どうして信じられますか
  
音楽愛したわが友よ あなたは 
多くの仲間と 楽器を奏でた
私たちの町 いしのまき
友よ あなたは団長だった
ボトルフルート
オカリナ コカリナ
こころをあわせて 舞台をつくり
みんなと多くの 笑顔をつくった
ああ わが友よ 団長よ
あの災害を恨みます
三月一一日の出来事を

酒を愛したわが友よ あなたは 
多くの仲間と お酒に酔った
私たちの町 いしのまき
友よ あなたは団長だった
カクテルつくって
歌って 酔って
こころをあわせて 希望を語り
みんなを豊かな 夢に誘った
ああ わが友よ 団長よ
会えない悲しみ胸にして
今宵コカリナ聴きまする
今宵コカリナ聴きまする


三重県紀宝町で被災地支援コンサート

2011-04-24 23:24:45 | 被災地支援
紀宝町は三重県の最南部にある町。川を渡ったらそこは和歌山県新宮市。太平洋に面したこの町で東日本大震災被災地支援コンサートが開かれました。主催は「鮒田地区自主防災」とう公的な組織。会場は鮒田地区の公民館「弁慶」。海から近いこの公民館の外には海抜を表し、津波に注意を呼びかける立て札が。そして、100人も入ったら一杯になってしまうと思われる会場に240人ものお客さんが来てくれました。今回の震災で犠牲になった人々への合掌から始まったコンサート。コカリナと歌で1時間半。途中、「震災で失われた東北の美しい海岸が蘇る事を祈って」と「浜辺の歌」を急遽入れたのですが、これが会場と大合唱に。感動的でした。多くの皆さんが海でつながっている東北の皆さんに心を寄せてくださいました。被災地支援コンサート、次は、4月29日僕のふるさと長野県上田市塩田平で行われます。


里唄「海と子どもたちのワルツ」について

2011-04-22 23:23:37 | 被災地支援
創りつづけている「里唄」の中に「海と子どもたちのワルツ」という歌があります。これは3年前石巻、塩釜でコンサートをやった時に生まれた歌です。当時、石巻の隣、東松島市の宮戸小学校で教鞭をとられていたコカリナ愛好家の藤野準先生からのイメージをいただき出来上がりました。

風渡る海原
さざ波たち踊る
丘にたつ学びや
子どもたちが歌う
いつもどんな時も君を見守ってるから
海に手を広げ風を受けとめて

この曲は、黒坂黒太郎35周年記念有楽町マリオンコンサートでも会場と一緒に高らかに歌い上げました。ただ、今回の大津波、宮戸小学校も一時孤立状態に置かれ、今は避難所になっています。そんな状況の中でこの歌を歌うのは少し抵抗を感じました。子どもたちは「海は見るのもいや」という精神状態になっているのではと思ったからです。でも先日石巻、女川訪れ、「それは少し違うのでは?」と思ってしまいました。子どもたちが嫌なのは津波であって、海ではない。こんなにひどい目にあっても、「おとなになったら漁師になる」と力強く言える子どもたちがいます。今日は今から三重県紀宝町鮒田というところの公民館で「被災地支援コンサート」の第一回です。ここも太平洋が目の前、人々は何があろうと海と一緒に生きて行かなければならないのです。今日のコンサートでもこの歌を被災地支援の思いを込めて歌おうと思います。
宮戸小学校は昨日、ようやく始業式を迎えたそうです。

ガレキの向こうに穏やかな海(女川にて)


被災地(石巻・女川)訪問②

2011-04-18 11:23:43 | 被災地支援
女川は、宮城県が誇る景勝地、牡鹿半島の付け根にある美しい町です。
ここへ始めていったのは今から23年前、1988年のことです。生涯教育センターで女川高校の高校生達が中心になってコンサートを創ってくれました。以下は当時の記録です。
「静かな町だった。日曜日ということもあったのだろうが、まるで東京の正月のようにスパッと日常というものを切り落としてしまった静けさが町全体を覆っていて、ちょっとそれは感動的だった。万石浦という入り江は海とは思えないほど穏やかでその入り江沿いの道にさしかかった時先生が前方を指さしてつぶやくように語り始めた。『あそこに見えるのが私が勤めている女川高校です。ちょっと高校と思えないでしょう。設備も貧弱でね。もともとこの学校は石巻高校の分校としてスタートしたのですが県はちゃんとした予算など全く出してくれないんですよ。また電車の駅から遠くてね。生徒達は雨の日も風の日もこの道をトボトボとあるいてあそこまで通っているんですよ』 先生のしみじみした語り口を聞きながら僕の胸はつまった。そして、この教師の生徒に向ける思いはただものではないぞ、と思った。コンサートは客の出足も良く、熱気に包まれた。人口15000人の町で400人も集まってくれた(現在は人口は約1万人、震災前)。」
  このコンサートから女川高校の高校生達との付きあいが始まりました。
高校の鑑賞教室でやったり、ひとりのメンバーが数年後に結婚するのですが、その結婚式にまで行ってしまったことがありました。
その彼女は、今は3児の母となり、地震後復興のために災害ボランティアセンターで奮闘しています。今度の訪問でも再会することができました。
その彼女から以下のようなメールが送られてきました。
 黒坂さんと奥様にお会いできてとっても励まされました。黒坂さんとお会いした時に、本当は思いっきり泣きたかったです。私のふるさと女川で黒坂さんのコンサートをした日のことが思いだされ胸がいっぱいになりました。あの会場も津波にのまれてしまいましたが、いつかきっとふるさとを取り戻したいと思います。今、女川で仕事ができることに幸せを感じます。そして、私達の女川のために、沢山の方々から支えていただいていることを一生大切にしていきたいと思います。 また、いつか黒坂さんと奥様のコンサートであつい涙をながしたいです。その日まで頑張ります。本当にありがとうございました。
 このメールを読んだとき、僕の前にはまたあののどかな町並みが続く女川が立ち上がってきました。
必ず復興はできる、そう確信しました。でもその道のりは長い。
どうしても息の長い支援が必要です。皆さんの町でも「支援コンサート」を計画していただけたら本当に嬉しいです。

破壊された生涯教育センター

町が消えた女川



お願い

2011-04-16 17:54:01 | 被災地支援
石巻、女川の避難所では、子供用の下着が圧倒的に不足しているそうです。
もし送ってくださる方がいらっしゃいましたら、黒坂音楽工房、または kuro@waltz.plala.or.jp のアドレスまで
ご連絡ください。避難所の住所などをお知らせします
石巻の避難所にて