黒坂黒太郎コカリナブログ

黒坂黒太郎のコカリナコンサート活動、東日本大震災被災地支援活動など

年末再び被災地へ

2011-12-30 20:54:33 | 被災地支援
12月27日、 ウィーンに行くレッスンのために再び被災地に行って来ました。被災地はとても寒く小雪が舞っていました。写真は石巻の南浜地区。海岸から約200メートルの地点です。住宅密集地だったところですが、今は、傾いた家々がポツリポツリと点在するのみ。1年前の今頃は、家々に灯りがともり新年を迎える準備に忙しくしていたのだろう、と思うと、胸が締め付けられます。でも、子ども達はガレキの中、そして身を切るような寒さの中で一生懸命練習していました。ウィーンでもきっと素晴らしい演奏をしてくれることでしょう。この子ども達はウィーンで「浜辺の歌」「グノーのアベマリア」「交響詩ふるさと」を110名の大合奏団の最前列で演奏してくれます。長野の放送局SBC信越放送が同行し、1時間の番組にしてくれます。 楽しみにしてください。
よいお年をお迎えください。


現在の門脇小学校。廃墟と化した学校の屋上の看板。信じられないかもしれませんがこれは震災前に作られたものです。
何故かこの看板だけが全く無傷で美しく輝いています。
「育て心と体」


被災松コカリナ100本の合奏

2011-12-21 21:09:15 | 被災地支援
先日、ウィーン楽友協会のコンサート(1月7日)のための練習があり、そこで石巻門脇小学校前の被災松からできたコカリナを100人で合奏しました。
信じられないほど美しい音色が練習会場に響き渡り、涙ぐむメンバーもいました。ユーチューブにアップしましたので
聴いてみてください。
下をクリックしてください。(12月20日アップしたものに少し見にくい部分がありましたので12月21日作り替えました)
http://www.youtube.com/watch?v=8XGTfaftWms&feature=youtube_gdata


京都府美山町にて              12月4日

2011-12-09 11:19:49 | 被災地支援
 日本でコカリナが最初に作られたのはどこか、ということなのですが、長野の志賀高原と思われている方が多いようですが、実は京都府の北のはずれ、もう福井県との県境に近い美山町芦生(あしう)という小さな集落にある芦生木工組合なのです。ここでは、村の背後に広がる広大な森林の木を使い様々な木製品を作っているのですが、長野オリンピックの時に、オリンピックで伐採されなければならなかったイタヤカエデの木からコカリナを作ろう、と言う話になり、長野で製作してくれる方を見つけたのですが、なかなか見つからず、その木を芦生木工組合に送り200本のコカリナを作っていただいたのです。それが、日本で最初のコカリナとなりました。(そのあたりのことは、数年前に講談社から出た本「コカリナ?」に詳しく書いてあります)よって、この芦生や美山町にはその後何度も行き続けています。芦生にある「山の家」でコンサートをやったり、美山町の文化祭に呼んでいただいたり、今回も美山町の知井(ちい)という地区での文化祭にゲストとして招聘していただきました。場所は知井小学校の体育館。地区の皆さんのバンド演奏あり、子ども達のコカリナ演奏あり、そんな中に混ぜていただき、本当に楽しいひとときでした。
知井小学校の校長先生が「ウチの小学校は全員がコカリナを持っています」と嬉しいそうに語ってくれました。コンサートの最後には、一番前に座っていた子ども達が全員ステージに出てきて東日本大震災被災地の皆さんがもう一度「ふるさと」を取り戻せるように、と「ふるさと」を演奏、客席の地域の皆さんと大合唱になりました。
 もう少し、この村に滞在したかったのですが、11日の「矢口周美リサイタル」の準備があり、後ろ髪を引かれながら遅い新幹線で東京に帰りました。帰り際、「新幹線の中で食べてください」、と村のご婦人達手作りの「鯖寿司」をいただきました。(この辺りは昔は「鯖街道」で鯖寿司は伝統料理なのだそうです)その鯖寿司の美味しかったことと言ったら・・。ご飯に山椒の実が混じっていて、口の中に美山の郷がドワッと広がりました。
 写真は文化祭でコカリナを吹く子ども達、と美山町にある日本一の茅葺きの里。子ども達がコカリナを吹く写真には、美しい「気」の中に現れると伝えられる「オーブ」とか「ドラゴンボール」とか言われる白い玉が沢山浮いています。しかもステージ中央の大きいものには模様まであります。これらは10月2日に被災地石巻で行われた「被災松復活コンサート」の写真にも現れました。単なるレンズの悪戯、という説もありますが、不思議なことです。いずれにしても、子どもたちが被災地の皆さんの事を思い奏でるコカリナ、それと一緒に「ふるさと」を歌う村の人々の気と心が一つの大きな渦のようになったことだけは確かなようです。