昨日は東京マラソンの日でした。市民に広く門戸を開放した大都市のマラソンは興味深く、中継した日本テレビも市民のエピソードを取材するなどの特集が組まれました。今ではさいたまシティマラソンの3kmの練習をできるかどうかというところまで体力が落ちた私ですが、以前はフルマラソンに5度挑戦し、4度完走しています。
1.伊豆戸田マラソン(1994年) 3:57
2.埼玉マラソン(1995年) 3:45
3.大田原マラソン(1997年) 途中棄権
4.河口湖マラソン(1998年) 4:08
5.河口湖マラソン(1999年) 4:36
が全記録です。ベストタイムは埼玉マラソンですが、このマラソンは3:10を目標に序盤から積極的に飛ばしたものの、途中で失速して歩き出すなど悲惨な思い出しか残っていないので、マラソンの最高の思い出といえるのは初マラソンの伊豆戸田です。当時、オリエンテーリングをやっていた私は平地より登りの方が力が出るので、戸田のような山岳レースは強いと自信を持っていました。
実際、この戸田のコースは標高差200mほどという厳しいコースで、有名なマラソンランナーが車でコースを見て「このコースは走りたくない」と口にしたというエピソードがあります。ただ、登りは前半に集中していたので、当時オリエンテーリングで上り坂に強かった私は序盤で稼いで、下りは勢いで降りてくるプランを立てていました。
その手はうまくいきました。登りをプラン通りきっちり走り切ると、途中で道路脇の土の上を走って舗装道による足への負担を軽減するなど、なんだマラソンは簡単だと思いながら35kmまで来ました。
しかし、それからが大変でした。よく、箱根駅伝で山下りの6区を走る選手が、下り坂の終わる箱根湯本付近でペースが落ち、ブレーキを起こす話は聞いていましたが、その通りになりました。35km付近から平坦になったコースは、私にとっては登りに感じたコースで、内臓まで痛み出すマラソンの苦しさを痛感することになりました。
普段なら楽に走れるはずの、戸田湾を半周するコースが、これほどまでに足が動かないものかと苦しみながらも、最後まで走りきれた私は3時間57分で完走しました。体重が3kg減るなど、マラソンの厳しさは感じながらも、思い出としては一番強烈なものになっています。いつかまた、フルも出られるようにトレーニングを積みたいです。
1.伊豆戸田マラソン(1994年) 3:57
2.埼玉マラソン(1995年) 3:45
3.大田原マラソン(1997年) 途中棄権
4.河口湖マラソン(1998年) 4:08
5.河口湖マラソン(1999年) 4:36
が全記録です。ベストタイムは埼玉マラソンですが、このマラソンは3:10を目標に序盤から積極的に飛ばしたものの、途中で失速して歩き出すなど悲惨な思い出しか残っていないので、マラソンの最高の思い出といえるのは初マラソンの伊豆戸田です。当時、オリエンテーリングをやっていた私は平地より登りの方が力が出るので、戸田のような山岳レースは強いと自信を持っていました。
実際、この戸田のコースは標高差200mほどという厳しいコースで、有名なマラソンランナーが車でコースを見て「このコースは走りたくない」と口にしたというエピソードがあります。ただ、登りは前半に集中していたので、当時オリエンテーリングで上り坂に強かった私は序盤で稼いで、下りは勢いで降りてくるプランを立てていました。
その手はうまくいきました。登りをプラン通りきっちり走り切ると、途中で道路脇の土の上を走って舗装道による足への負担を軽減するなど、なんだマラソンは簡単だと思いながら35kmまで来ました。
しかし、それからが大変でした。よく、箱根駅伝で山下りの6区を走る選手が、下り坂の終わる箱根湯本付近でペースが落ち、ブレーキを起こす話は聞いていましたが、その通りになりました。35km付近から平坦になったコースは、私にとっては登りに感じたコースで、内臓まで痛み出すマラソンの苦しさを痛感することになりました。
普段なら楽に走れるはずの、戸田湾を半周するコースが、これほどまでに足が動かないものかと苦しみながらも、最後まで走りきれた私は3時間57分で完走しました。体重が3kg減るなど、マラソンの厳しさは感じながらも、思い出としては一番強烈なものになっています。いつかまた、フルも出られるようにトレーニングを積みたいです。