goo blog サービス終了のお知らせ 

Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

プレッシャーと戦った経験

2014-02-11 21:53:51 | 他スポーツ
今日、スピードスケートの思い出の記事を書いているうちに、1984年サラエボ五輪を本命の評価で勝てなかった黒岩彰選手を思い出しました。プレッシャーという言葉がマスコミで一般的になったのはこのときですが、自分もささやかながらプレッシャーがどういうものか、学生時代のオリエンテーリングで経験したことがあります。

当時、オリエンテーリングの大学選手権(インカレ)の個人戦出場権を賭けて、セレクションレースに挑戦した私ですが、オリエンテーリングは冬季五輪の距離スキーと同じように1分間隔の時差スタートで、山の中で前の選手に追いついたり後ろの選手に追いつかれたりします。

しかも、地図と自分の方向を見定めるオリエンテーリングの場合、ひとたび大きなミスをすれば10分以上の差が詰まることは日常茶飯事です。後ろの選手を見たときの動揺をどうしても自分はうまくコントロールができず、最後のチャンスだった大学4年のときのセレクションレースでこれが原因で失敗しました。

しかし、オリエンテーリングでは敗者復活戦とも言うべき、前座レースの一般クラスで選手権対象外ながら出場だけはすることができます。ここで入賞すれば表彰台にも上げてもらえて目立てますが、私はまたもレース前で過緊張に陥ります。作戦は十分立てていて、前半の登りで飛ばせるだけ飛ばして後半の下りは慎重に走ってミスをしないと決めていましたが、スタート前の独特の雰囲気は何度やっても慣れませんでした。

そんなとき、時差スタートに必要な自動のスタートチャイマーが、なんと故障しました。スタート地区に響いたのは、手動でスタートを知らせるための笛でした。これで私はわれに返りました。突然頭がクリアになった私は、スタート直後に予想外のミスをします。

当時後輩を指導する立場だった私は「人につられるな。自分より速い選手はいないと思え。」と指導していたことを思い出し、落ち着いてその状況を処理してすぐに予定通りの道に乗り、その後はプランどおりに上り坂を走り切り、そのレースで3位に入って表彰台に乗れました。

私の場合、プレッシャーに勝てたのは偶然でしたが、予想外のことが起こったときにそれをプラスに捉えられたのが、4年間の成長だったと今では思います。清水の長野金メダルのときにも、整氷作業でレースが中断した時間で気持ちを落ち着けたと聞きます。そんな気持ちのコントロールは、私のオリエンテーリングをちょっと思い出しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スピードスケートの思い出

2014-02-11 19:41:14 | 他スポーツ
昨夜は、日本勢の金メダルを期待して、深夜までスピードスケート男子500mを見ていました。結果は加藤条治5位、長島圭一郎6位と残念でしたが、スポーツ観戦の面白さである展開を追うことができました。オランダ勢が表彰台を独占したのですが、彼らは解説の黒岩敏幸氏(アルベールビル五輪銀メダル)の予想を上回る34秒50前後のタイムを叩き出していました。

一本目3位、有利なインスタートが残っていた長島に期待していましたが、リンクレコードを上回るこれほどのタイムは予想外だったかもしれません。長島もそんなタイムを叩き出そうと気負ったのか、彼の二本目は35秒20前後という平凡なタイムで、メダルは夢と消えました。

スピードスケートの500mがインスタート、アウトスタートの二本の合計タイムになったのは1998年長野五輪からです。以前は一発勝負でしたが、スタート直後の遅いスピードで小さい曲率を滑り、スピードに乗った最終コーナーで大きい曲率を滑るインコースが有利なのはおかしいという議論が起きて二本の合計になりました。

今、女子ジャンプの高梨沙羅選手に期待が集まっていますが、1984年サラエボ五輪の当時同じように期待を集めたのがスピードスケート男子500mの黒岩彰選手でした。しかし、不利なアウトスタートを引いた彼は6位とメダルを逃し、「プレッシャー」という言葉が初めてマスコミを賑わせました。

その4年後のカルガリー五輪でリベンジを狙った黒岩彰ですが、彼の引いたスタート順はなんとサラエボ五輪で失敗した「4組アウト」と全く同じでした。滅入りそうになるところでしょうが、イメージトレーニングをしていた黒岩彰の想定に4組アウトはちゃんと入っていました。

結果は銅メダルで見事リベンジを果たしたので、イメージトレーニングは大事と当時少年だった私には印象的でした。また、スピードスケートで思い出すのは長野五輪に出てきたオランダ人の男性、ベンネマルス選手です。

ベンネマルスは1000m、1500mで優勝候補だった選手で、長野五輪では場慣れの意味で500mにも出ていました。それが最悪の結果を招きました。たまたま同走者の転倒に巻き込まれた彼は鎖骨骨折の重傷で、楽しみだった1500mには出られなくなりました。

そのため、長野市内の小学生がベンネマルス選手のために手作りの金メダルを贈ったエピソードを覚えていますが、彼もできることをやろうと、長距離のオランダ人スケート選手のためにタイム表示を出していました。そんなベンネマルスが8年後のトリノ五輪で銅メダルを取ったときは、心の中で拍手しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする