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松田直樹さんの思い出

2011-08-06 14:37:18 | 他チーム
先日、JFL松本山雅FC所属のDF松田直樹さんの訃報は衝撃的でした。日本サッカーが成長していく過程を経験した選手で、いつか指導者としても日本サッカーを引っ張って欲しい人材を失ったことは非常に残念です。

松田と言えば1995年ワールドユースに予選を勝ち上がって出場しています。このときはワールドユースの予選を勝ち上がることが初めての経験で、Jリーグの創設で日本サッカーは右肩上がりの成長をするのではと期待を集めていた時期です。

当時、スペイン代表のRマドリードのストライカーのラウルと対戦することが話題になっていましたが、松田はリラックスしたもので、横浜Mの紅白戦で対戦した元アルゼンチン代表のラモン・ディアスの方がよっぽど怖いと言っていたくらいです。

松田といえば、1996年アトランタ五輪のブラジル戦の「マイアミの奇跡」も記憶にあります。あの当時のブラジルはベベット、リバウド、アウダイールのワールドクラス3人をオーバーエイジで補強して、本気で金メダルを取りにきていました。

今振り返ると内容的には一方的に押し込まれ、相手のミスで入った1点を守り切った、楽しくはない勝利でしたが、松田と鈴木秀人で相手の2トップにマンツーマンでついて耐え抜き、1-0でブラジルに勝った、これも日本サッカーの上り坂を感じる勝利でした。

また、松田といえばトルシエ監督のフラット3を消化したDFでした。足の遅いDFだと苦しいこの戦術をこなし、2002年日韓W杯を全試合出場したのは、彼の身体能力の高さを感じます。

トルシエ監督だけではなく、当時横浜FM監督だった岡田監督も松田を評価した監督でした。中澤、松田の守備力を前面に出して、手堅く最少スコアを守り切るサッカーでJリーグ優勝を果たします。

浦和サポの私としては、2004年のチャンピオンシップでPK負けした相手というイメージですが、松田、中澤、河合で組んだ3バックは堅く、三都主のFKで点を取るのが精一杯でした。

34歳という早すぎる死には残念という言葉しか浮かびません。本当なら、最後まで横浜FMでプレーして欲しかったですが、松本山雅をJ2に上げるという新たなモチベーションでプレーしていただけに、まだやりたかったでしょう。松田直樹さんの冥福を祈ります。
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