内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「菫」を巡る言葉の散歩道

2023-04-10 23:59:59 | 詩歌逍遥

 塚本邦雄の『百花遊歴』(講談社文芸文庫、2018年。初版、文藝春秋社、1979年)の「菫」の章を読んでいると、人家の傍や野道にざらに生えているはずの立壺菫や、それよりももっと一般的であるとされている標準型の「菫」さえ、今日ではなかなか出会えないとある。そもそも「人家」や「野道」さえ少なくなってきているのだから、そこに咲いているはずの菫にお目にかかれなくなっているのも致し方ない。
 「人家」とは、ただ人の住む家を指すのではなく、「〔無人の野山・原始林などに対比して〕人が住んでいる(いた)家」(『新明解国語辞典』第八版)を指す。『新漢語林』第二版(2011年)には、唐の詩人杜牧の「山行詩」から次の一節が引かれている。「遠上寒山石経斜 白雲生処有人家」(とおくカンザンにのぼれば、セキケイななめなり。ハクウンショウずるところ、ジンカあり)。「遠く郊外まででかけ、さびしい山を上っていくと石の転がる小道が斜めに続き、白い雲がわき出ているあたりにも、人の住む家があった。」
 「人家」は、だから、街中に密集する住宅を指すことは稀であり、人の住まぬ領域との対比において、人が生活している場所としての家を指し、無人の領域と人里との境界領域にある家を指すことがしばしばある。例えば、「人家もまばらな」と言えば、人里離れた土地に点在する家を指す。
 そんな人家の傍にひっそりと咲いている菫に出会ったことは私にはもちろんなく、ストラスブール大学付属植物園でお目にかかったことがあるだけである。それでも好きな花であることにかわりはない。
 日本の詩歌の中で「菫」を詠んだ歌として著名なのは山部赤人の「春の野にすみれ摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける」(巻八・一四二四)だ。しかし、この歌は菫そのものを讃えているわけではない。もちろん詠われた景色の構成要素として菫も欠かせないにしても、赤人がなつかしんでいるのは野辺の美しさである。当時、菫は薬草として用いられていたというから、菫摘みとは薬草狩りであったと考えるのが妥当なようだ。
 この歌、授業で「なつかし」の原義を説明するときに必ず引く。中世以降に現れ、今日ではそれがこの言葉の一般的になっている「(昔や亡き人を)懐かしむ」という意味は万葉集の時代にはなかったことに注意を促し、「なつかし」の原義は、「いつまでもそこにとどまりたい」「いつまでもいっしょにいたい」という気持ちであることを強調する。だから、古語「なつかし」は「ノスタルジー」とは無縁である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「Rain(I Want a Divorce)」『ラストエンペラー』より ― 追悼・坂本龍一

2023-04-09 23:59:59 | 私の好きな曲

 先月28日に逝去された坂本龍一氏が作曲された楽曲中フランスでもっともよく知られているのは、おそらく、「戦場のメリークリスマス」である。私もこの曲が好きだ。彼自身が弾くピアノ・ソロ・ヴァーションをいったい何度聴いたことだろう。
 大学で試験時間終了を知らせるのに、「試験時間終了です」と言うかわりにこの曲を流すことがある。学生たちには、試験開始前に「試験時間終了時、日本人が作った曲が流れます」とだけ予告しておく。
 この曲が流れ出すと、教室の空気がたちまち変わる。それまでの緊張が解け、みな自ずと筆記用具を置く。そして、答案を提出するとき、一人か二人、「先生、私、この曲、大好きです」と言う。
 先週木曜日の授業のはじめに、「先月28日、世界的に有名な日本人作曲家が亡くなりましたが、誰だか知っていますか」と聞いたら、反応がない。「サカモトリュウイチです」と言ってもまだピンときていない。「でも、この曲は知っているでしょう」と、曲を流すと、みんな「ああこの曲か」という顔をした。追悼の意を込めて、この曲を静かに流しながら、授業を始めた。
 数ある坂本氏の楽曲のうち、私が偏愛していると言ってもいいのが、今日の記事のタイトルに掲げた曲である。
 映画『ラストエンペラー』は、私が日本で公開と同時に映画館で観たことのある数少ない映画の一つである。その圧倒的なスケールの映像に魅了されると同時に、坂本龍一の音楽に深く心を動かされた。
 その中で最も好きな曲が、溥儀との別れを決意した第二皇妃の文繡(演じているのはヴィヴィアン・ウー)が降りしきる雨の中を歩いて去るシーンで流れる「Rain」である。
 文繡が自室を出て、溥儀と正室婉容の居室のドアの下に置手紙を差し込んだ後、階段を駆け下り、雷雨が激しく降る中、自ら正面玄関の扉を開けて外に出る。溥儀の召使いの大季が彼女の後を追いかけ、傘を渡す。それを受け取り「ありがとう」と言って文繡は一人雨の中をゆっくりと歩き始める。数歩歩いたところで、立ち止まり、降りしきる雷雨を見上げ、わずかに微笑み、「要らないわ」(I do not need it.)と傘を捨て、歩き始める。そして、もう一度「要らないわ」と言いながら走り去る。
 このシーンはわずか一分半だが、音楽と映像とが見事に融合していて、最初に映画館で観たときから忘れられないシーンだった。
 この曲には、ピアノと弦楽器だけの室内楽バージョンもあるが、映画で使われたオーケストラバージョン(サウンドトラック版)の方がやはり好きだ。
 今日、復活祭の日曜日の午後、氏の冥福を心より祈りつつ、『ラストエンペラー』の全長版(三時間四十分)を鑑賞した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


悪しき翻訳は良き翻訳を駆逐する ― 『瘋癲老人末期戯言集』(偽書)より

2023-04-08 23:59:59 | 雑感

 一昨日、オフィスアワーのために教員室で待機しているとき、現代文学・サブカルチャー及び翻訳技術担当の同僚が入ってきた。それは何ら驚くべきことではない。情けないほど貧しいフランス国立大学には、専任教員であっても、原則、個別の研究室はない。
 創立五百年を誇り、ノーベル賞学者を十九人輩出しているストラスブール大学の我が愛しの日本学科の専任教員五人にはたった一つの部屋しかない。しかも、そこには机が四つしか置けない。つまり、全員同時に教員室でそれぞれの場所を占めることができない。だから、オフィスアワーもそれぞれ異なった曜日と時間を選ぶ。
 以前、別の同僚から、そうしているとなかなか顔を合わせる機会がないし、会議のためにわざわざ集まるほどでもないが、同僚間で随時共有しておいたほうがいい情報もあるから、オフィスアワーの一部を全員同じ時間帯にしてはどうかという提案があった。
 誰も異存はなかったので試してみた。ダメであった。その時間帯に複数の学生たちが来てしまい、各教員それぞれに対応せざるを得ず、狭い一室のなか他の面談の話が丸聞こえであるから、面談内容によっては事実上面談不可能であった。教員間の情報交換も無理であった。
 これはコロナ禍以前の話である。コロナ禍以降、一つポジティブな変化だと私が思っていることは、必要に応じで臨機応変にオンライン会議や面談に切り替えることができることである。わざわざ会議のためにキャンパスまで移動する必要もない。それぞれ自宅にいて会議ができ、会議時間だけの拘束で済む。学生たちもオンライン面談に異存はないことが多い。要は、使い分けだ。
 さて、前置きが長くなった。教員室に一緒にいるとなれば、当然、意見交換や雑談が始まる。オフィスアワーの直後に授業がある私は、その授業で取り上げる是枝裕和の小説『万引き家族』(監督自身が映画作成後小説化したもの)の仏訳の困った(というか、個人的には、「ふざけんじゃねーよ」レベルの)誤訳の話をその同僚にした。私の話を聞いて、彼も呆れていたが、彼が言うには、自分が翻訳の仕事に取り組んでいた十年前に比べても、締め切りまでの時間がどんどん短くなっていて、翻訳者も入念な確認をしている時間がないこともそういう初歩的な誤訳を発生させる要因の一つだろうということだった。
 私も僅かだが過去に翻訳の経験がある。そのときつくづく思ったことは、良心的に翻訳しようと思ったら、下調べや事実確認にえらく時間がかかり、その労力は並大抵ではなく、要するに、全然割に合わない、ということであった。
 それでも学術的にはやるべき仕事はある。それは認める。金のためじゃないと労苦を惜しまない有徳な翻訳者もいる。有能な方々は厳しいスケジュールのなかでちゃんと優れた仕事をなさっている。たとえ採算的には厳しくても、これは世に出されるべき翻訳だと、万難を排して出版に尽力している良心的な出版社があることも知っている。
 でも、どのみち、無能な私には無理な話だ。で、翻訳は金輪際しないと決めた。作成した本人が「欠陥商品」であるとわかっているものを売りつけるのは商業倫理に反する。犯罪に問われないだけ、余計に質が悪い。だから、こんなにも粗悪な翻訳が世に出回る。売れりゃ、いいってか。
 翻訳家を目指す学生は毎年いる。彼女ら彼らにまず教えるべきことは何か。翻訳テクニックか。違う。「翻訳倫理」だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「朝から晩まで幸福」だった日本の子どもたち ― エドワード・モース『日本その日その日』より

2023-04-07 23:59:59 | 読游摘録

 幕末から明治初期にかけて来日した欧米人たちの多くの眼に強い印象を与えたのは、当時の日本の子どもたちの生き生きとして幸福感に満ちた元気な姿であった。その印象を初代英国公使オールコックの言葉を借りて一言で言えば、「子どもの楽園」(a very paradise of babies)であった(The Capital of the Tycoon: A Narrative of a Three Years’ Residence in Japan, 2 vols. New York: The Bradley Co., 1863, vol 1, p ; 94.)。
 この言葉は、渡辺京二『逝きし世の面影』第十章のタイトルにもなっており、同章の冒頭に引かれてもいる。渡辺京二よれば、以後、この表現は来日した欧米人たちに愛用されるようになる。
 他章と同様、同章には来日欧米人たちの多数の証言が引用されている。イザベラ・バードもその一人だが、それ以上に頻繁に引用あるいは言及されているのは、動物学者で大塚貝塚の発見者として有名なエドワード・モース(1838‐1925)である。その子供礼賛は、他の証言同様、どこか異国のおとぎ話かと思われるほどに私を驚かせる。
 モースはその日本滞在記『日本その日その日』(Japan Day by Day, Boston, Houghton Mifflin, 1917)のなかでくりかえし日本の子どもたちに言及しているが、『逝きし世の面影』に引用されている次の箇所に私は特に心を打たれた。

私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。

Again I must repeat that Japan is the paradise for children. There is no other country in the world where they are so kindly treated or where so much attention is devoted to them. From the appearance of their smiling faces, they must be happy from morning till night.

 これはモースの一般的な印象であって、特別な事例についての感想ではないのはもちろんのこと、恵まれた階級の子どもたちだけに当てはまる観察でもない。当時東京の市街に溢れんばかりに多くいた子どもたちから受けた印象なのだ。
 当時、多くの欧米人たちが日本の子どもたちについて同様の印象を語っているのは、彼らがすべて日本社会の良い面だけを理想化して幻想を作り上げるためではない。そんなことをしても彼らには何の利益もない。もちろん、社会には負の面があり、すべての子供が幸福であったはずはないし、子供に対する虐待も犯罪もあった。
 しかし、欧米人たちが「楽園」とか「天国」とかそれに類した言葉を使いたくなるほどに、子どもたちはいたるところで元気に遊び回り、大人たちはそれを受け入れていたことは事実として認めてよいのではないかと思われる。
 それから一世紀半ほど後の現在、日本はすっかり年老いた国となり、「異次元」という大げさなだけで空疎な言葉で虚飾された少子化対策も焼け石に水であろう。子どもが減り続け、日本がますます小さな国になっていくのは仕方ないとして、子どもたちが幸福であるためにはどうすればよいのだろうか。そのためには政策も技術革新も無駄ではないと思う。しかし、ほんとうの問題はそこにはないことだけは確かだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イザベラ・バードと旅する明治初期の日本の「奥地」― 失わた「異文化」としての明治初期の日本の子供たち

2023-04-06 23:59:59 | 哲学

 イザベラ・バードの『イザベラ・バードの日本紀行』(時岡敬子訳、上・下巻、講談社学術文庫、2008年。原本 Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels on Horseback in the Interior, 2 vols. New York: G. P. Putnam’s Sons, 1880 には、別訳として平凡社東洋文庫版『日本奥地紀行』旧・新訳がある)を授業で取り上げたのは、昨日の記事で言及した石川榮吉『欧米人の見た開国期日本』の中に彼女の観察記録も引用されているからだけでなく、彼女の『紀行』そのものが大変興味深い記録に満ちているからということもある。それに、この『紀行』に基づいた佐々大河の漫画『ふしぎの国のバード』(KADOKAWA、2015‐、現在第十巻まで刊行されている)がなかなかよくできていて、その仏訳版 Isabella Bird. Femme exploratrice, Ki-oon, coll. « kizuna »(日本語版とほぼ同じ造本で、現在第9巻まで刊行されている)があり、学生たちにもそれだけ興味をもってもらいやすいということもあった。
 石川書には十箇所ほどバードの観察記録に言及している箇所がある。授業で取り上げたのは、彼女の日本の子供たちについての観察と印象である。これについては、渡辺京二も『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)も第十章「子どもの楽園」で引用している。
 両書で言及されている青森県碇ヶ関の子供たちの様子を上掲の時岡訳で引用しよう。

私は日本の子供たちが大好きです。赤ちゃんの泣き声はまだ一度も耳にしたことがありませんし、うるさい子供や聞き分けのない子供はひとりも見たことがありません。子供の孝行心は日本の美徳の筆頭で、無条件服従は何世紀もつづいてきた習慣なのです。英国の母親たちのやる、脅したりおだてたりして子供たちにいやいや言うことを聞かせる方法は、ここにはないようです。わたしは子供たちが遊びのなかで自立するよう仕込まれるやり方に感心しています。家庭教育の一部にさまざまなゲームのルールを覚えるというのがあり、このルールは絶対で、疑問が起きた場合は、口論でゲームを中断するのではなく、年長の子供が命令をしてことを決着させます。子供たちは子供たちだけで遊び、なにかおとなの手をわずらわせるというようなことはありません。わたしはふだんお菓子を持参し、子供たちにやりますが、ひとりとして先に父親または母親から許しを得ずに受け取る子供はいません。許しを得ると、子供たちはにっこり笑って深々とお辞儀をし、その場にいた仲間に手渡してからようやく自分の口に運びます。

I am very fond of Japanese children. I have never yet heard a baby cry, and I have never seen a child troublesome or disobedient. Filial piety is the leading virtue in Japan, and unquestioning obedience is the habit of centuries. The arts and threats by which English mothers cajole or frighten children into unwilling obedience appear unknown. I admire the way in which children are taught to be independent in their amusements. Part of the home education is the learning of the rules of the different games, which are absolute, and when there is a doubt, instead of a quarrelsome suspension of the game, the fiat of a senior child decides the matter. They play by themselves, and don’t bother adults at every turn. I usually carry sweeties with me, and give them to the children, but not one has ever received them without first obtaining permission from the father or mother. When that is gained they smile and bow profoundly, and hand the sweeties to those present before eating any themselves.

 自分の子供たちに対する大人たちの態度についてやはり両書に引かれているは、バードの日光での次のような見聞である。こちらも時岡訳で引こう。

これほど自分の子供たちをかわいがる人々を見たことはありません。だっこやおんぶをしたり、手をつないで歩いたり、ゲームをやっているのを眺めたり、いっしょにやったり、しょっちゅうおもちゃを与えたり、遠足やお祭りに連れていったり。子供たちがいなくては気がすまず、また他人の子供に対してもそれ相応にかわいがり、世話を焼きます。父親も母親も子供を自慢にしています。毎朝六時に一二人から一四人の男が低い塀に腰をかけ、二歳以下の子供を抱いてあやしたり遊んでやったりして、その子の発育のよさと利口さを見せびらかしているのを見るのはとても愉快です。ようすから判断すると、この朝の集いの主な話題は子供のことのようです。

I never saw people take so much delight in their offspring, carrying them about, or holding their hands in walking, watching and entering into their games, supplying them constantly with new toys, taking them to picnics and festivals, never being content to be without them, and treating other people's children also with a suitable measure of affection and attention. Both fathers and mothers take a pride in their children. It is most amusing about six every morning to see twelve or fourteen men sitting on a low wall, each with a child under two years in his arms, fondling and playing with it, and showing off its physique and intelligence. To judge from appearances, the children form the chief topic at this morning gathering.

 このような見聞を読んでいると、バードが見た明治十一年の日本は、現代の日本人である私たちにとっても、「異文化」と言ってよいのではないかとの感想を私は持つ。そして、その「異文化」はもはや理解の対象にさえならず、決定的に失われてしまったのではないだろうかと自問せざるを得ない。これは懐古趣味ではない。現代日本への憂慮である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


グリフィスが観た明治初期の福井の庶民の暮らしぶりと日本人の動物愛護ぶり ― 石川榮吉『欧米人の見た開国期日本』より

2023-04-05 02:51:28 | 講義の余白から

 昨日の授業は「欧米人の見た幕末・明治初期の日本」というテーマで話した。学生たちの「喰いつき」はいつにもましてよかった。幕末・明治初期(あるいはいわゆる「開国期」)の日本及び日本人が当時来日した欧米人たちの眼にどのように写ったか、彼らが残した日記・旅行記・報告書等によって垣間見ることを通じて、異文化理解とはどういうことかという問いに自ら向き合うことを学生たちに促すのが授業の狙いである(なんかシラバスっぽい)。
 石川榮吉の『欧米人の見た開国期日本 異文化としての庶民生活』(角川ソフィア文庫、2019年。初版、風響社、2008年)の抜粋を読みながら、当時の日本への「旅」を試みた。先週の授業でアメリカ人お雇い外国人第一号として紹介したウィリアム=エリオット・グリフィスが本書にも登場する。
 グリフィスは、廃藩置県の直前、1871年に福井藩の藩校明新館の理化学担当のお雇い外国人教師として着任する。藩の世話で佐平という名の下男を雇う。佐平は女房と赤児と子守りの少女、権次という名の炊事係の少年からなる世帯持ちで、藩からグリフィスに与えられた家に世帯ごと住み込むことになる。
 そのおかげで、グリフィスは、当時の日本の庶民の暮らしを常時身近に観察することができた。この佐平家の嬶天下ぶりが面白い。入浴順を見ると、まず女房が赤児を抱いて入り、次に子守りの少女、そして三番目が佐平で、最後が権次だったという。
 グリフィスは上記の観察を記した『みかどの帝国』の別の箇所で「女性の地位」という一章を設け、そこで一般論として、日本の女性(妻)は、表面的には男性に服従しているが、実際は、気転・言葉・愛嬌・魅力などによって男性(夫)を巧みに支配している、と分析している。今日でもこの分析が当てはまる家庭が少なからずありそうなのも面白い。
 石川書の「動物愛護は日本が本家」と題された節にもその冒頭にグリフィスの観察への言及がみられる。グリフィスによると、浅草寺の境内には、無数の鳩が棲みついており、鳩の巣が寺の外だけでなくなんと釈迦の祭壇の上にまであって、その鳴き声や羽ばたきが僧侶の読経の声と混じり合っていたという。鳩の餌を売る女たちや、それを買って撒いてやる客のいることも彼の眼には珍しかったようだ。それはグリフィスばかりでなく、浅草寺を訪れた他の欧米人も同様な感想を残しているという。
 動物を極端に憐れむ日本人の特性は、仏教の慈悲の教えと輪廻転生の思想から来ているとするのがグリフィスの解釈である。具体的な例として、日本人が歳をとったり怪我をしたりして役に立たなくなった馬をけっして殺さないことや、彼の車夫が寝ている犬や鶏を見ると、その眠りを妨げぬようわざわざ回り道をすることをグリフィスは挙げている。犬・猫・鶏・鳩などをけっして追い払うことをせず、それを避けて行くか、跨いで行くなりしなければならないことは、エドワード・モースも指摘している。
 こうした細部の観察の積み重ねを読むのはそれだけで楽しい。学生たちもそれぞれ想像の羽を広げながら明治初期の日本への「旅」を楽しんでくれたようだ。
 明日の記事では、石川書に言及されているイザベラ・バードの『日本奥地紀行』に見られる青森県碇ヶ関の子供たちの観察を話題にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


成績優秀者の答案にシールを貼って「表彰」する

2023-04-04 18:28:30 | 講義の余白から

 二週間前に行った「近代日本の歴史と社会」の中間試験の答案を今日の授業のはじめに学生たちに返却した。すべての答案の論述問題と和文仏訳問題にコメントを付すので採点には時間がかかるのだが、今回は昨日月曜日に一気にほぼやり終え、数枚やり残した答案は今朝早起きして採点して今日の授業に間に合わせた。
 全体として結果は良好であった。クラス平均が12,4(20点満点)受験者37名中24名が合格点の10点以上、最高点は18,7(女子学生二人同点)、16点以上が8名。
 授業のはじめに、この上位8名を「表彰」した。日本の百均で買っておいた「とてもよくできました」「よくできました」シールを答案に貼って返却したのだ。トップ二人にはさらに金賞シールも貼ってあげた。成績優秀者は毎回発表するのだが、シールを貼ってあげたのは今回がはじめて。みんな、小学生みたいにえらく喜んでいた。金賞の一人は「答案、家に飾ろうかな」と言い、「親に送ろう」と携帯で写真も撮っていた。
 十点以下の学生たちの答案には、「もうすこしがんばりましょう」シールを貼ろうかと思ったが、それで傷ついたり、嫌味だと不快に思ったり学生もいるかもしれないので、「思案の末、結局やめました」と教室で説明した。該当する学生たちは苦笑していた。
 今年の三年生はクラスの雰囲気がずっとよく(去年の三年生とは天地ほどの差がある)、成績優秀者を発表し、答案を返却するときには、自ずと拍手が起こる。それが親愛の情と敬意とがこもったいい拍手なのだ。これはいつもそうだとはかぎらない。
 表彰されなかった学生たちの中には、自分が期待していたほどの点数が取れずに悔しそうに俯いている学生もいたが、それらの学生たちも自信をもってよい点数を取っているのだ(点数そのものがちゃんと試験勉強したことを証明していますよ)。
 試験問題の構成は、いつもどおり、語彙(5点)、論述(9点)、和文仏訳(6点)の三部立て。論述問題は以下の三題。それぞれ十行程度で答えなさいという設問(各問配点は3点)。

1. イ・ヨンスクによると、明治初期、国語と日本語とはどのような関係にあったか。
2. 明治初期、「社会」と「個人」という概念の翻訳に際してどのような困難があったか。
3. 1940年代前半、時枝誠記が朝鮮半島における「国語」教育の「半島人」たちへの強制を支持した理論的根拠はなんであったか。

 いずれも授業をよく聴いていれば簡単に答えられる問題ばかりなのだが、一人驚くべき答案を書いた女子学生がいた。それぞれ十行くらいでいいのに、三題すべてにその三倍近い量の解答を示し、それがまた授業の内容を細部までよく理解した見事な答案だったのだ。もちろん満点を上げた。
 おかしかったのは、その学生は論述問題の解答にエネルギーと時間を使い果たしてしまい、和文仏訳にはほとんど時間が残っておらず、二問のうちの一つはまったく構文を理解できておらず、低い点数しか取れなかった。といっても、総合点は17,3だから立派なものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小さな誇り

2023-04-03 23:59:59 | 哲学

 いつ、どこで、誰からとは書いてなかったが、私のことを聞いたという、フランスのロレーヌ大学の数学哲学が専門の教授から今日の夕方メールがあった。教授は、西田幾多郎に影響を受けたと思われる日本人数学者、竹内外史(1926‐2017)について、日本人研究者と共同で論文をこれまでに二つ発表している。アンリ・ポアンカレ資料センターの所長でもあり、ストラスブール大学とは緊密な協力関係にある。日本哲学への関心をここ数年深めており、数学哲学の分野においてより包括的な日本哲学研究を今後展開していきたいと考えているが、相談に乗ってくれないかというがメールの主な内容であった。
 西田はすでに中学生の頃から数学に強い関心を示し、大学での専攻は数学か哲学かで迷ったくらいであり、生涯数学への強い関心を保ち続け、数学者末綱如一(1898‐1970)とは親交を結び、全集には三十数通の末綱宛の書簡が収められている。
 私は数学哲学に関してはまったくの門外漢だが、教授に何らかの仕方で協力することで、今まで近づいて来なかった西田哲学の側面に学術的に触れる機会が今後与えられるかも知れない。来週ストラスブール大学に来る予定があるという教授に、面談を快諾する返事をすぐに送った。
 昨年あたりから、フランス人学生から日本哲学の分野での博士論文の共同指導の依頼を何件か受けている。大学ごとの規約の違いによって必ずしも実現可能ではないのだが、私が西田哲学についての博士論文を書いていた二十年余り前とは実に隔世の感がある。
 博論後のこの二十年余り、研究上の業績として誇れるような仕事は何一つして来なかったことを恥ずかしく思うが、フランスにおける日本哲学に対するこのような学術的な関心の深まりにいささかでも貢献できたことは誇りに思うことを許されたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ワーグナー「タンホイザー序曲」― 唐沢寿明主演『白い巨塔』と切り離せない……

2023-04-02 21:26:08 | 私の好きな曲

 ブログを長期にわたって安定的に継続するためには、曜日ごとに予めテーマを決めておくというのも一つのやり方かも知れません。このブログを始めてこの六月一日で丸十年になりますが、これまでそういうやり方は採用してきませんでした。
 そのことに特にはっきりとした理由があるわけではないのですが、自分で自分を拘束することなく、その日その日の気分で書いていくというのが、ブログを始めた当初の精神状態にとっては適当だったというのがその主な理由であろうと今になって思います。
 このブログを続けることそれ自体は私にとって目的ではありません。ですが、ここまで続けてきて思うことは、毎日投稿することが、ちょうど毎日ジョギングすることが日々のリスタートになっているのと同じように、気分の調整装置になっているということです。
 しかし、これは諸刃の刃です。なぜなら、ある意味でこれは「依存症」ですから。一日でも書かないと、何かやるべきことをしなかったという、本来的には謂れのない「負い目」を感じてしまうのです。これって、ほとんど倒錯的ですよね。
 というわけで、というのもおかしいのですが、土日に関しては、一応お題を予め決めておくことにしました。こうすれば、その日になって、さて何について書こうかという漠然とした思案はしなくて済みます。
 でも、この枠付けが逆にプレッシャーになってしまうこともありえますよね。ああ、考え過ぎると何も始められませんね。今後、基本、臨機応変といえば格好良すぎますので、テキトーに対処していきましょうかね。
 土曜日は、「読游摘録」という既存のカテゴリーの枠の中で、書斎を取り巻く書架の棚で読まれることをずっと待っている本を一冊ずつ話題にしていきます(ゴメンね、今まで待たせて)。
 日曜日は、「私の好きな曲」について書くことにします。ただ、このカテゴリーには厳密には当てはまらない記事もここに入れます。「思い出の曲」「好きな演奏」「忘れられない曲」「耳について離れない曲」「あの時代流行っていた曲」とか、ね。
 前置きがえらく長くなりましたが、今日は日曜日ですので、「私の好きな曲」について話します。
 といっても、たいした話ができるわけではありません。今日は、ワーグナーの『タンホイザー序曲』について、実にくだらない話をしてお茶を濁すことにします。
 毎日クラッシク音楽を聴いていますが、歌劇はまず聴きません。嫌いというのではないのです。喩えていうと、そんな大ご馳走はもう胃が受け付けないということです。ワーグナーは、だからまともに聴いたことがありません(例外は「ジークフリート牧歌」です。この曲については「私の好きな曲」というカテゴリーの中で記事を書くこともあろうかと思います)。
 にもかかわらず、一時期、『タンホイザー序曲』がいつも耳の中で鳴っていたのです。それは、その音楽そのものとは別の理由です。2003年版『白い巨塔』(唐沢寿明主演)の第一回冒頭で、唐沢寿明演じる財前五郎が術前の試技を自室でしつつ、『タンホイザー序曲』冒頭のメロディーを鼻歌で歌うシーンがあるのです。
 その後、このドラマの展開の中で盛り上がるシーンの度毎に同曲が流れるのですね。ドラマで使われていたのは、カラヤン指揮・ベルリン・フィルの1974年録音の演奏でした。これがまた痺れるほかないほどスタイリッシュな演奏なのです(今は、滔々たる大河のように雄大で且つ各パートが実にきめ細かく歌われた、カラヤン指揮・ウィーン・フィル演奏の1987年ライブ録音のほうが個人的には好きですが)。
 この『白い巨塔』の初回を観てからしばらくの間、唐沢寿明の『タンホイザー序曲』の鼻歌が耳鳴りのように毎日聴こえてきて、御本人には何の責任もないのですが、往生しました。この『白い巨塔』の全回を観たのは、日本で放映された数年後でしたが、それ以来、『タンホイザー序曲』がこっちの許可なしにときどき頭の中で突然鳴るのです。
 だから、これは「私の好きな曲」というよりも、「耳について離れない曲」というタイトルのほうが相応しいですね。
 ちなみに、カラヤンの両演奏以上に好きなのは、オットー・クレンペラー指揮・フィルハーモニア管弦楽団の1960年録音の演奏です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


解釈と翻訳を通じて政治思想の問題に至る ― 一つの実例に即して

2023-04-01 10:45:41 | 日本語について

 熟練のプロであれ、駆け出しの新人であれ、ずぶの素人であれ、原文の解釈なしに翻訳はできない。端的に言えば、一つの翻訳は一つの解釈である。いずれの解釈が正解、あるいはいずれが他に優ると決定できる場合もあるが、できない場合もある。後者の場合、その理由はさまざまあるが、主に原文自体が孕んでいる非決定性、両義性、曖昧性にある。
 当該の文章だけでは複数可能な解釈のうちのいずれが正しいか或いはより妥当か決定できない場合でも、その文章が置かれた文脈というより高次のレベルで解決できることはある。あるいは、著者のその他の著作に示された考えを参照することによって判断を下せることもある。あるいは、その文章が書かれた歴史的・社会的・文化的文脈にまで視野を広げることで、重層的かつ漸近的に正解あるいは相対的に良い解に接近することができる場合もある。
 以下に挙げる一例は、授業で実際に取り上げた一文である。これを仏訳するとき、どうしても二つの解釈のうちのどちらか一つを選ばなくてはならない。まず原文を示す。

福澤の考えでは、それ[=日本の独立]は あくまでも「自由の気風」によって、人々それぞれの「独一個の気象」すなわち個人の独立の意識が育つことで確立する、「国民」どうしの水平な紐帯の意識に基づいた、一国の独立でなくてはならない。

 問題は、「確立する」がどの語にかかっているか、である。直後に読点が打ってあるので、「国民」にはかからないことはわかる。残る可能性は二つある。一つは「水平な紐帯の意識」であり、もう一つは「一国の独立」である。
 第一の解釈は、個人の独立の意識は「国民」どうしの水平な紐帯の意識の確立の前提であり、後者が一国の独立の基礎である、と捉える。一国の独立を、個人の独立の意識に支えられた国民の水平な紐帯の意識に基礎づける、いわば「二層構造」説である。
 第二の解釈は、個人の独立の意識と「国民」の水平な紐帯の意識とを一国の独立の二つの条件とする、いわば「並立」説である。
 これら二つのうちのどちらの解釈を採るかで仏訳は次のように異なる。前者が第一解釈に対応し、後者が第二解釈に対応する。

Selon la pensée de Fukuzawa, cette indépendance devra être celle d’un pays, fondée sur la conscience du lien horizontal entre les membres d’un État, et celle-ci ne s’établira qu’après, par l’esprit de liberté, le développement de l’individualité, c’est-à-dire de la conscience de l’indépendance de chaque individu.

Selon la pensée de Fukuzawa, cette indépendance devra être celle d’un pays, qui ne sera établie qu’avec, par l’esprit de liberté, le développement de l’individualité, c’est-à-dire celui de la conscience de l’indépendance de chaque individu, et (aussi) fondée sur la conscience du lien horizontal entre les membres d’un État.
 

 前者の解釈には未解決の問題が残されている。個人の独立の意識の発展は国民の水平な紐帯の意識を必然的に生じさせると著者は考えているのか、あるいは、前者は後者の必要条件ではあっても十分条件ではなく、前者から出発して後者の確立へと至るためにはさらに平等意識や民主主義等を条件として必要とするという考えがこの文章に前提されているのか、という問題である。しかし、翻訳としては、この不確定性はそのままにしておくのが妥当であろう。
 後者の解釈によれば、この文は、個人の独立の意識と国民の水平な紐帯の意識との関係はここでは問われておらず、一国の独立にはこれら二条件が必要だと言っているだけだということになる。したがって、後者の翻訳が穏当ということになる。この場合、個人の独立の意識と国民の水平な紐帯の意識とは、それぞれ独立に成立しうるのか、あるいは、後者は前者なしでも成立しうるのかという問いが残る。しかし、これらの問題への解答は、この文章の翻訳という問題の枠組みを超えている。
 これは翻訳の問題としては些細な一例に過ぎないが、それを通じて向き合うことになる政治思想の問題はけっして小さくはない。