内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

グリフィスが観た明治初期の福井の庶民の暮らしぶりと日本人の動物愛護ぶり ― 石川榮吉『欧米人の見た開国期日本』より

2023-04-05 02:51:28 | 講義の余白から

 昨日の授業は「欧米人の見た幕末・明治初期の日本」というテーマで話した。学生たちの「喰いつき」はいつにもましてよかった。幕末・明治初期(あるいはいわゆる「開国期」)の日本及び日本人が当時来日した欧米人たちの眼にどのように写ったか、彼らが残した日記・旅行記・報告書等によって垣間見ることを通じて、異文化理解とはどういうことかという問いに自ら向き合うことを学生たちに促すのが授業の狙いである(なんかシラバスっぽい)。
 石川榮吉の『欧米人の見た開国期日本 異文化としての庶民生活』(角川ソフィア文庫、2019年。初版、風響社、2008年)の抜粋を読みながら、当時の日本への「旅」を試みた。先週の授業でアメリカ人お雇い外国人第一号として紹介したウィリアム=エリオット・グリフィスが本書にも登場する。
 グリフィスは、廃藩置県の直前、1871年に福井藩の藩校明新館の理化学担当のお雇い外国人教師として着任する。藩の世話で佐平という名の下男を雇う。佐平は女房と赤児と子守りの少女、権次という名の炊事係の少年からなる世帯持ちで、藩からグリフィスに与えられた家に世帯ごと住み込むことになる。
 そのおかげで、グリフィスは、当時の日本の庶民の暮らしを常時身近に観察することができた。この佐平家の嬶天下ぶりが面白い。入浴順を見ると、まず女房が赤児を抱いて入り、次に子守りの少女、そして三番目が佐平で、最後が権次だったという。
 グリフィスは上記の観察を記した『みかどの帝国』の別の箇所で「女性の地位」という一章を設け、そこで一般論として、日本の女性(妻)は、表面的には男性に服従しているが、実際は、気転・言葉・愛嬌・魅力などによって男性(夫)を巧みに支配している、と分析している。今日でもこの分析が当てはまる家庭が少なからずありそうなのも面白い。
 石川書の「動物愛護は日本が本家」と題された節にもその冒頭にグリフィスの観察への言及がみられる。グリフィスによると、浅草寺の境内には、無数の鳩が棲みついており、鳩の巣が寺の外だけでなくなんと釈迦の祭壇の上にまであって、その鳴き声や羽ばたきが僧侶の読経の声と混じり合っていたという。鳩の餌を売る女たちや、それを買って撒いてやる客のいることも彼の眼には珍しかったようだ。それはグリフィスばかりでなく、浅草寺を訪れた他の欧米人も同様な感想を残しているという。
 動物を極端に憐れむ日本人の特性は、仏教の慈悲の教えと輪廻転生の思想から来ているとするのがグリフィスの解釈である。具体的な例として、日本人が歳をとったり怪我をしたりして役に立たなくなった馬をけっして殺さないことや、彼の車夫が寝ている犬や鶏を見ると、その眠りを妨げぬようわざわざ回り道をすることをグリフィスは挙げている。犬・猫・鶏・鳩などをけっして追い払うことをせず、それを避けて行くか、跨いで行くなりしなければならないことは、エドワード・モースも指摘している。
 こうした細部の観察の積み重ねを読むのはそれだけで楽しい。学生たちもそれぞれ想像の羽を広げながら明治初期の日本への「旅」を楽しんでくれたようだ。
 明日の記事では、石川書に言及されているイザベラ・バードの『日本奥地紀行』に見られる青森県碇ヶ関の子供たちの観察を話題にする。