竹内外史の『数学的世界観』(紀伊國屋書店、1982年)所収の「数学基礎論雑談」というエッセイに物理学者のディラックについての面白い逸話が出てくる。
ディラックが友だちとイギリスを汽車で旅行していた。汽車の窓から羊の放牧の美しい光景が見られた。ディラックの友だちが「あの美しい白い羊を見てごらん」と言ったとき、ディラックは、「うん、片側が白い羊ね」と答えたという(161頁)。
この逸話について、「この場合われわれは、直観的には両側が白い羊を見ている」と、雑談(竹内が創作した架空の雑談)をしている二人の数学基礎論研究者の一人が言う。
これはまさに大森荘蔵の虚想の問題だ。大森ならば、「知覚的に立ち現れている羊の白い側と同時に、見えてない側の知覚的思い(=虚想)も立ち現れている。そうでなければ、その羊を羊として見ることさえできない」と説明することだろう。大森の語彙に沿ってさらに言い換えれば、「羊の知覚的に立ち現れている白い側に見えていない側の知覚的思いがこもっている」のである。
この例において、羊の見えていない側に実は黒い斑点があったとしても、つまり、そのときの知覚的思いが実は現実と対応していないことが後に判明しても、白い羊の見えていない側の知覚的思いが無効になるわけではない。
竹内は、この例を「直観的」という言葉を使って説明しているのが示唆的だ。見えていない側も含めて「白い羊」と見るのは、推論、推測、あるいは想像によってではないということである。
この例から、数学における直観へと話は移る。数学でもこのような直観は大切だという。それを説明するのに、竹内は自然数を例として挙げている。「一、二、三、……と書いたときに、この……のところで一を足すというか次の段階にいくというか、その行為を頭に描いて無限の過程を目で見るように認識する。だから、この……に相当するもの、前の例では実際に見ない両側が白い羊を見る、というようなものが、数学的直観だと思う。したがって、この数学的直観の助けなしに、たとえば自然数全体というものを言葉だけで表現しようと思うと、どうしても出来ないように思う。」(161‐162頁)
ここから逆に、数学的直観は日常の知覚経験に基礎を置くとは簡単には言えない。ただ、この数学的直観を基礎づけるために西田の行為的直観を数学基礎論に導入しようとしたのが竹内の先生である末綱恕一であったことは見逃せない。実際、末綱が「行為的直観」という言葉をしばしば使っていたと竹内は別のエッセイ「数理論理学問答」で回想している(154頁)。
末綱が西田と親しく交わったのは昭和十八年四月の初対面以降のことだから、西田の最晩年二年余りに過ぎないが、両者にとって実りある交流だった。西田全集には三十通余りの末綱宛の書簡が収録されている。そのうちの何通かのなかで、西田は自身の哲学、とりわけ、矛盾的自己同一と行為的直観について説明している。末綱の問いあるいは求めに応えてのことだろう。