内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

寛容再論(一)「寛容」という訳語が隠してしまう clémence と tolérance の本源的な差異

2023-04-23 18:00:37 | 哲学

 今日からしばらく寛容について再論する。
 寛容再論は今月14日の記事で予告しておいたことだ。でも、今日始めるということが、再論準備万端を意味するわけではない。「とにかく記事を書きながら考えていこう」という気持ちにさせるきっかけが与えられたに過ぎない。だから、どこまで行けるかわからないし、何らかの結論に到達することもないかも知れない。それでも始められるのがブログのいいところだと勝手に思っている。
 渡辺一夫の『ヒューマニズム考 人間であること』(講談社文芸文庫、2019年)のジャン=カルヴァンの生涯の説明のはじめの方に、カルヴァンが1532年に発表した『寛容について』への言及がある。この書物は、皇帝ネロの師匠であったセネカの著作を翻刻注解したものである。
 カルヴァンが古代ローマの哲学者セネカの寛容論に関心をもったのには、当時のフランス国内の宗教事情がからんでいる。渡辺一夫はその事情を以下のように説明している。

 そのころ、フランスにかなり流入していたルターの宗教改革思潮に対する旧教会側からの弾圧は日増しに強まっていました。ところが、弾圧が強まれば強まるほど、また、新教徒たちの旧教会側に対する抵抗・反抗も熱を帯びてきていました。つまり、旧教会側の不寛容な暴力的圧迫は、狂信の相を見せ、新教徒たちの反抗も、同じく狂信的なものになりかけていたのです。
 ジャン=カルヴァンは、当時旧教会側の人間として、その有力者に寛容の必要を訴えようとしたものでしょう。権力のある側の人々が、不寛容な方針をとるばあい、同じキリスト教徒が、同じキリストの名においていがみ合い、殺し合うという悲惨事がおこるのを察したのでしょう。それが『寛容について』の翻刻注解の発表となったとも考えられます。(76‐77頁)

 この翻刻注解書のラテン語正式書名は Annei Senecae De Clementia である。この clementia がフランス語の clémence の語源である。ところが、この clémence も tolérance も「寛容」と和訳されることが多い。しかし、この両語は語源的にまったく別の系統に属する。このヨーロッパ精神史にとってきわめて重要な意味論的差異が「寛容」という同一の日本語によって訳されることによって覆い隠されてしまう。
 上に引用した渡辺の説明からもわかるように、カルヴァンにとって当時切実な問題だったのは、旧教会側の人間として旧教会側により寛大な態度で新教徒たちに対することを訴えることだった。つまり、たとえ相手が過ちを犯していることは事実であるとしても、それを処罰するのにより穏やかな態度を取ることを「内側の」人間として求めているのだ。それが clémence である。この語の類語として、générosité, indulgence, magnanimité などのフランス語を挙げることができる。
 しかし、このブログの寛容論(4月14日の記事に過去の記事のリンクが貼ってあるのでそちらを参照されたし)でも再三述べてきたように、tolérance にこのような意味はもともとない。この語が「信教の自由」という積極的な価値と結びつくのは十八世紀の啓蒙思想以降でしかない。カルヴァンの時代、そしてモンテーニュの時代には、tolérance がそこから派生した tolérer という動詞は「本来望ましくない苦痛を、条件つきで、ある限界内において、一定の期間のみ、我慢する」という意味で主に使われていたのである。
 したがって、回心以前のカルヴァンが自身もそちらに属していた旧教会側に求めたのは、clémence であって、tolérance ではない。「寛容」という同じ訳語によって覆い隠されてしまうこの両者の決定的な違いを明確に規定することが、宗教改革、宗教戦争、そしてその時代を生きた思想家たちそれぞれの思想を理解する上できわめて重要だというのがこの再論の出発点である。