内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

寛容再論ための予備的考察

2023-04-14 12:08:19 | 講義の余白から

 来週の「近代日本の歴史と社会」では、自由民権運動と中江兆民の思想を取り上げる。当初の予定では、今週と来週の二回に亘って取り上げるつもりだった。しかし、先週の授業で石川榮吉の『欧米人の見た開国期日本』の「おわりに―異文化理解への心得」を学生たちと読んでいて、問題への学生たちの関心の高さが強く感じられたので、今週の授業では、「自己認識の方法としての異文化理解」(2015年1月6日の記事から8回に亘ってこのテーマについて書いている)と「〈和〉でもなく〈寛容〉でもなく」(寛容については度々取り上げているが、特に、2014年2月8日同年9月19日2016年12月1日2019年1月12日の記事を参照されたし)という、私が過去に何度も講演や授業で取り上げきたテーマに差し替えることにした。この二つのテーマを取り上げたのは、石川書の「おわりに」の最終段落の後半の次の一節との関わりにおいてである。

もともと異文化理解など出来なくて当然なのかもしれない。それでなおかつ異文化間の協調を保つためには、世間は他人ばかりであるのと同様に世界は多様な異文化の集合体であることを承知したうえで、己の文化、己の価値観を絶対視して異文化を評価することをせず、ましてや己の文化や価値観を相手方に強要することなく、異文化を異文化として容認する 寛容さこそが肝要であろう。そのうえで押しつけではない協調点を探ることが国際交流とか国際化の前提である。世界の諸文化の画一化が国際化なのではない。画一化はむしろ人類文化の衰退である。

 この一節をまず読んだ後、寛容について、レヴィ=ストロースの『人種と歴史』(Race et histoire, Gallimard, coll. « folio essais », 1987)の最終段落に出てくる「動的態度としての寛容」を参照した。

La tolérance n’est pas une position contemplative, dispensant les indulgences à ce qui fut et à ce qui est. C’est une attitude dynamique, qui consiste à prévoir, à comprendre et à promouvoir ce qui veut être. La diversité des cultures humaines est derrière nous, autour de nous et devant nous. La seule exigence que nous puissions faire valoir à son endroit (créatrice pour chaque individu des devoirs correspondants) est qu’elle se réalise sous des formes dont chacune soit une contribution à la plus grande générosité des autres.

 その上で、自己認識の方法としての異文化理解という方法論と西洋起源の「寛容」論批判を展開した。この二つのテーマについては、上掲の参照記事に私の言いたいことはほぼ尽くされているので、ここには繰り返さない。寛容論は、今後、渡辺一夫の『ヒューマニズム考』を介して、カルヴァンとモンテーニュと対話しつつ展開するつもりでいる。
 中江兆民の思想との関連では、問答・座談という思想表現形式の可能性の条件としての寛容というテーマを来週の授業で取り上げる。