内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

近江荒都歌 ―深く痛切な歴史認識の誕生を告げる不朽の詩的刻印

2021-06-10 10:52:54 | 読游摘録

 瀧浪貞子の『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』は、持統天皇の生涯をその誕生から死まで追うことを通じて、「古代の歴史をマクロな見地から考え直す」という意図のもとに書かれている。八章に分かれており、その第七章の主題が『万葉集』である。
 持統天皇は、六九七年の譲位とともに、それまでの九年間で三十一回に及んだ吉野行幸に終止符を打ち(死の前年七〇一年にもう一回だけ行われた行幸を除く)、『万葉集』の編纂に取りかかる。瀧浪によれば、「吉野行幸に見られたその執念が、譲位後の持統天皇を『万葉集』の編纂に駆り立てたのであり」、それこそが吉野行幸の「政治的帰結」だった。
 『万葉集』の成立過程はきわめて複雑だが、瀧浪は、今日ほぼ定説となっている伊藤博の成立論に従って、巻一の原形は持統天皇によって編まれたという、いわゆる「持統万葉」説に基づいて論を展開する。この原万葉には、「生涯をかけて貫き通した持統天皇の執念といったものが凝縮されているに違いない」と瀧浪は見る。
 以下、瀧浪の論述から摘録する。
 歌の配列方式から、持統天皇が記紀を意識して編纂したことは間違いない。原万葉は、当時天武天皇の遺志を継いで進められていた記紀の編纂に並ぶ文化事業であった。その編纂方式は、王権継承(皇位継承)の系譜を明示し、その正当性を強調するためであったと考えられる。いわば、歌による「皇位継承(王権)の歴史」である。
 しかし、記紀とは異なり、全天皇の時代が網羅されてはいない。それどころか、巻一の最後の一首(後年の追補)を除く八三首に関して、各天皇の時代別に歌数を見ると、極端な偏りがある。雄略一首、欽明五首、皇極一首、斉明八首、天智六首、天武六首、藤原宮(持統・文武・元明)代五十六首となっており、天智・天武朝から藤原宮に至る時代に明らかに重点が置かれており、巻二の相聞・挽歌についても、同様な傾向が顕著に見られる。記紀と並行して編纂された「母体万葉」(巻一・二)は、天智・天武朝以来の「天皇(家)の歴史」を歌によって書きとどめようとしたものだと言える。
 巻一の前半五十三首がいわゆる「持統万葉」である。この「持統万葉」のうち、ほぼ半数の二十六首が持統朝の歌であり、持統天皇は自らの時代を中心に据えて『万葉集』の編纂を行った。その真意は奈辺にあったのか。
 手がかりは、持統朝の歌二十六首の配列にある。冒頭は持統の御製(二八・香具山眺望歌)、末尾は「藤原宮御井の歌」(五二・五三)で、その間に国見・行幸・遷都など、おもに公的行事や儀式に関わる歌が配列されている。
 冒頭の御製「春過ぎて夏来るらし」の瀧浪の解釈はとても示唆的である。その解釈によると、この歌は、たんに季節の推移を詠んだのではない。そこに示されているのは、天武天皇についで愛息草壁皇子を失った悲しみを乗り越え、喪服から禊のための斎衣(「白栲の衣」)に替え、「新たに政務に取り組もうとする持統の並々ならぬ決意」だというのである。確かに、こう解釈するとき、この歌が持統朝の一連の歌の最初に置かれたことに納得がゆく。
 それでは、近江荒都歌がなぜその直後に置かれているのか。近江大津宮は、白村江の敗戦後、持統の父天智天皇が造営した都である。夫大海人皇子(天武天皇)と息子草壁皇子とともに飛鳥から遷った持統が、吉野に隠遁するまでの四年間、親子三人で過ごした地であり、持統の生涯のなかでは「もっとも平穏な日々」であったと思われる。持統にとっては、「家族の形見」ともいうべき都であった。そのかつての都が今は廃墟と化している。その荒都近江を詠む柿本人麻呂と高市古人の歌は、荒都と天智天皇とに捧げる鎮魂歌であった。
 最後に、若干の私見を記す。
 昨日の記事で見たように、人麻呂の近江荒都歌それ自体が新しい歴史的時間認識を示している。しかし、その歌をここに配置することによって、持統天皇は、それとは別次元の歴史認識と時代認識を表明している。この配列が持統天皇独自の考えによるのか、あるいは持統朝の宮廷歌人であった人麻呂がそれに何らかの仕方で関与したか、それはわからない。それはともかく、歌そのものによって表現された歴史的時間の不可逆性の認識と歌の配列によって示された皇統についてのいわば政治的な認識とは区別されなくてはならない。
 たとえ近江荒都歌が鎮魂のための宮廷集団の意思を表現するものだったとしても、実際にそこに表現されている失われた過去への追懐はあまりにも悲痛な響きをもっている。「羇旅信仰に契機を持つとはいえ、その根底に人間の薄命に絶叫する人麻呂の詩精神があってこそ生みおとされた歌」(伊藤博『萬葉集釋注』)である。青年時代、壮麗を誇った都のあっけない崩壊に衝撃を受け、その十数年後、春日に悲しく照らされたその旧都の廃墟を目の当たりにした詩人の精神において、それ以前には人麻呂自身にも他のいかなる詩人にもなかった深く痛切な歴史認識が誕生したことの不朽の詩的刻印、それが近江荒都歌なのだと私は考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『万葉集』における歴史的時間の不可逆性の認識の誕生

2021-06-09 22:14:48 | 読游摘録

 予定より二日早く採点を終えたことで、研究発表の準備の一環として読もうと思っていた本のうちの二冊を今日一日落ち着いて読むことができた。平野仁啓の『続 古代日本人の精神構造』(未来社 一九七六年)と瀧浪貞子の『持統天皇――壬申の乱の「真の勝者」』(中公新書 二〇二〇年)である。前者は再読、後者は今回はじめて読む。柿本人麻呂の近江荒都歌(巻第一・二九~三一)に関する両著それぞれの記述を参照するためである。
 平野氏は、上掲書の第五部「古代日本人の時間意識」の第二節「柿本人麻呂の時間意識」で、近江荒都歌の構造を詳しく考察しており、それがとても参考になる。その結論的な部分を引く。

 近江荒都の歌について、簡単な言い方をすれば、前半部には神話が表現され、後半部には現実の廃墟が表現されており、それぞれ原初へ回帰する神話的時間と現実における流れ去る時間とに対応しているのである。そして、神話的時間と流れ去る時間とのきびしい対立のなかにおいて、流れ去る時間に対する人麻呂の深い歎きが発せられるが、それは反歌において一層鋭く響いているのであった。近江荒都の歌の構造は、長歌における神話と現実、それに反歌における人間の生の三つが対立的に組み合わせられている、と言ってもよいのである。そして、人麻呂の時間意識は、神話的時間と流れ去る時間との対立する構造として成立している。そのような時間の対立についての鋭敏な自覚が、人麻呂をして時間の問題を深く認識させるのである。(三二八頁)

 近江荒都歌三首は、当時の宮廷集団にとって旅中通過する「荒れたる都」の魂鎮めのために読まれたに違いなく、その背景には羇旅信仰があった。しかし、これらの歌、特に反歌二首には、それを逸脱して奔逸する深い感情が詠まれている。かつての大宮人たちを想起するにとどまらず、それらの人たちとの再会の不可能性を詠う第二反歌は、「冷酷な時間の流れにきざまれる人間の悲痛に充ちており、この肉声には、根源の魂振り思想からの逸脱がある」(伊藤博『萬葉集釋注』一 集英社文庫 一二八頁)。
 さらに一言付け加えることが許されるならば、集中最初の人麻呂歌であるこれら三首は、流れ去る時間に対する悲痛な歎きを詠っているだけではなく、歴史的時間の不可逆性の認識の誕生を告げるものでもある。
 しかし、近江荒都歌については、なぜ巻第一のこの位置に置かれているのかという別の問題がある。この問題に対する一つの答えが瀧浪氏の本に示されている。それについては明日の記事で取り上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


採点作業終了

2021-06-08 23:59:59 | 雑感

 採点作業が思いの外順調にはかどり、本日夕刻すべて終了した。最終確認の上、成績表を事務に送信すれば、成績処理については完了である。学部に関する職務としては、五名の小論文審査を残すのみとなった。これは来週と再来週に行う。対面か遠隔か、本人たちの希望に合わせる。修士に関しては、一年次に提出が義務づけられている修士論文途中経過報告書の提出を待ち、やはり六月後半に審査を行う。二年生はもういつでも修士論文を提出していいのだが、夏休み前に完成させるのはなかなか容易ではなく、今年度指導を担当している学生には、今月半ばまでにまず書けたところを提出するように言ってある。
 かくして、ようやく研究発表、集中講義、原稿執筆に取り組む態勢が整いつつある。研究発表については、数週間前からノートを取り始めていたが、少しずつ輪郭がはっきりしてきた。集中講義に関しては、西谷啓治の『宗教とは何か』を再読しながら、シラバスにそって各回の注解ノートを作成する。原稿執筆は集中講義が終わってから、八月中に取り組む。
 これから八月末までの予定はざっとこんなところであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


岩波文庫についてのちょっとした懸念 ― 採点作業の合間の読書記録(3)

2021-06-07 15:02:31 | 読游摘録

 早朝ウォーキング・ジョギングが、良く言えば習慣化、悪く言えば中毒化し始めていることを示す「自覚症状」が出て来た(のではないかと愚考する)。どんどんスタート時間が早まっているのである。今朝は四時半に家を出た。しかも四時から室内でウォーミングアップをしてからという念の入れようである。現在日の出は五時半頃であるから、空が明るくなる頃にはもう汗びっしょりで帰宅することになる。
 ちなみに、外出制限令は段階的に緩和されているとはいえ、自由外出時間は夜のほうが延長されているだけで、朝は六時からのままである。つまり、私は確信犯的に毎朝「違反」しているのである。が、そもそもそんな朝早く歩いている人など自宅周辺にはいないし、オランジュリー公園の付近にもいない。治安のきわめて良いこれらの地区をパトロールしている警官ももちろんいない。夜明け前、徐々に青空が広がってゆく、あるいは鈍色の雨雲に覆われた空が少しずつ白んでゆく天空の下、リル側沿いの自転車・歩行者専用道を歩いたり走ったりしていると、広々と開かれた景観を独占しているかのような贅沢な気分が味わえる。
 今朝、東京に住む妹に頼んで送ってもらった本が他の同梱荷物とともに届いた。吉川幸次郎『本居宣長』(筑摩書房 一九七七年 これだけ古書)、『西田幾多郎講演集』(岩波文庫 二〇二〇年)、新渡戸稲造『武士道』(ちくま新書版 二〇一〇年、角川ソフィア文庫版 二〇一五年)、島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書 二〇一〇年)、佐藤卓己『現代メディア史 新版』(岩波書店 二〇一八年)、堀米庸三『正統と異端 ヨーロッパ精神の底流』(中公文庫 二〇一三年、原本は一九六四年刊の中公新書)の七冊。自分の研究ため、来年度の修士の演習のテキスト、学部の授業の参考図書、懐かしの名著など購入目的はいろいろである。届いたばかりのそれらの本をパラパラとめくってみるだけも楽しく、思わずニマニマしてしまう。
 ところが、『西田幾多郎講演集』の編者解説の終わりの方を見て、ちょっと大げさに言えば、愕然とした。これでも岩波文庫なのかと言いたくなるような初歩的なミスがあったからである。
 西田が京都大学で行った「宗教学」講義記録からこの『講演集』に採録された講義記録最終章「宗教の光における人間」の解説に、西田の年譜についてざっくりとした知識をもっているだけの人でもすぐに気づくようなミスがある。誤植ではない。西暦と年号が間違っているのである。西田が「宗教学」の講義を行ったのは、大正二年(一九一三)から翌年にかけての一学年のみであるが、解説には、「一九二七年(昭和二)から翌年にかけて」となっている(二九七頁)。次の頁には「西田が翌年には宗教学講座から哲学・哲学史講座へと転任した」とあるが、確かにこれは大正三年ことであって、昭和三年ではない。昭和三年八月末をもって、西田は定年退職する。西田の定年退職の年くらい、西田哲学にちょっと関心を持った学部生だって知っていておかしくない初歩的な知識である。さらに残念なことに、このミスには「駄目押し」がある。というのも、解説最終頁(二九八頁)に、「この宗教学講義は、一九二七年当時の欧米の宗教学あるいは宗教哲学の様々な関連文献を精査して、それを西田自身の観点から主体的に整理し要約したものである」とあるからである。
 百歩譲ってこれは編者の単なる一時的な記憶違いだとしよう。あるいは、編者の頭の中で大正二年がなぜか昭和二年(一九二七)に置き換わってしまい、そのことに気づかずに校了してしまったとしよう。としても、校正の不備を指摘せざるを得ないだろう。いったい誰が校正したのか。それに、そもそも、西田の京大時代の初期に属する講義の年を定年退職の前年と記して、その誤りに気づかないというのは、編者自身の西田理解について一抹の不安を私に抱かせるに十分である。
 昭和二年は、皮肉にも、岩波文庫創刊の年である。それから九四年間、「いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書」(三木清の手になる岩波文庫発刊の辞より)を何千と出版してきた岩波文庫である。私も四十年以上に渡って少なからぬ岩波文庫を愛読し、渡仏前は二千冊ほど手元にあった。日本における学芸の普及のために、他のすべての後発文庫の追随を許さない輝かしい貢献を一世紀近くしてきた岩波文庫にこのようなミスを発見するのは悲しい。いや、この「ほんのささいな」ミスは、日本の出版文化や学芸全般の質の低下の前兆の一つではないのかと私をいささか不安にする。老いぼれ悲観論者の杞憂であってほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


歴史人口学、スペイン風邪、「ありてかひなき命」― 採点作業の合間の読書記録(2)

2021-06-06 20:30:31 | 読游摘録

 早朝、小雨降る中、ウォーキングとジョギングを交互に繰返し、一時間二十分で総計一万二千歩。これで十五日間連続。体組成計の数値、全般的に良好。BMI : 21、体脂肪率 : 16%。採点作業は、残っていた課題レポート七本の評価はすべて終え、試験答案も四枚採点する。これで残るは答案二十一枚。これらの作業を昼前には終える。昼食後、ネットフリックスで一本テレビドラマを観る。その後、自由読書。
 「メディア・リテラシー」の最後の授業で取上げたエマニュエル・トッドの『パンデミック以後』に、日本の歴史人口学の大家、故・速水融とその弟子たちによる近世日本の人口動態と家族形態についての研究への言及がある。以前から歴史人口学的観点を「近代日本の歴史と社会」の授業に取り入れたいと思っているのだが、ここ三年そこまで手が回らず持ち越している。『パンデミック以後』では、現在の日本の人口動態危機が話題となっている箇所で言及されているのだが、残念ながら時間切れで授業では取上げられなかった。来年度の授業では歴史人口学の知見を是非導入したい。
 その速水融の『歴史人口学で見た日本』(文春新書 2001年)のまえがき、第一章「歴史人口学との出会い」、第六章「歴史人口学の「今」と「これから」」を読む。残りの四章は明日読む。『歴史人口学の世界』(岩波現代文庫 2012年)も読みたいのだが、現在版元品切れ。速水氏のお弟子さんの磯田道史氏の『感染症の日本史』(文春新書 2020年)の第九章「歴史人口学は「命」の学問――わが師・速水融のことども」も大変興味深く読む。
 同書第八章「文学者たちのスペイン風邪」に永井荷風のことが出てくる。『断腸亭日乗』の記述によると、荷風はどうやら大正七年十一月と大正九年一月の二回、スペイン風邪に罹患したらしい。二回目は症状が重かったことが『日乗』の記述からわかる。
 一月十二日、「夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし」と記す。翌日、体温四十度に昇る。十四日、なじみの女性の姉が看病に来る。十五日、大石という医師が朝夕二度診察に来る。十六日、「熱去らず。昏々として眠を貪る。」十九日、「病床万一の事を慮りて遺書をしたたむ」と記す。こんなときにも荷風は日記を書き続け、書物を読み続けようとしているが、この十日ほどは一日一行程度。それだけ重症だったのだ。ようやく快方に向かうのは二十一日。その翌日、荷風はこう記す。

悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。

 この最後の一言が胸に染みた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


万葉の時代の過労自殺 ― 採点作業の合間の読書記録(1)

2021-06-05 22:42:53 | 読游摘録

 課題レポートが七本、答案が二十五枚残っている。答案と言っても実質小論文で相当にボリュームがあり、しかも力作揃いであるから、それらを読んで採点するにはレポートと同じくらい時間がかかる。明日日曜日にレポートの評価は終え、月曜日からは一日六、七枚のペースで答案を採点し、木曜日にはすべての作業を終えたい。この採点作業と並行して、来月十七日の研究発表の原稿書き、七月末から八月にかけての集中講義の準備、八月末が締め切りの原稿の下書きも始めなくてはならない。
 今日のノルマを終えた後に読んだのが、四月に刊行された『万葉集の基礎知識』(上野誠・鉄野昌弘・村田右富美編 角川選書)であった。執筆者数は四二人、二十代から六十代の幅広い年齢層から構成されている。この一冊で『万葉集』の全貌がその内と外から見渡せるように設計されている。
 編者の一人上野誠氏は、「『万葉集』に興味を持ち、これから『万葉集』を学ぼうとする人に、この分野の研究者から届けるメッセージ集のようなつもりで」、第一線で活躍する研究者たちに書いてもらったと「はじめに」に記している。読み物風に読めるように配慮されている一方、多岐にわたる全体の情報量は多く、参考文献もテーマ別に古典的名著から昨年刊行された研究書までよく網羅されている。
 全体が四部に分けられており、それぞれ「万葉集のうちがわ」「万葉集のそとがわ」「万葉集を味わう」「万葉集をよむための小辞典」と題されている。第一部と第二部とがほぼ同量で合わせて全体の三分の二を占める(詳細は、上にリンクを貼っておいた本書の紹介ページをご覧あれ)。全編に十七のコラムが鏤められており、それぞれ独立した文章として読めるようになっている。『万葉集』を将来研究したいと思っている学生たちにとって大変便利な一冊であるばかりでなく、『万葉集』に関心を持つより広い読者層にとっても興味深くかつ楽しく読めるように工夫されている。
 あちこち拾い読みしていて、「班田と万葉集」と題されたコラムに目が止まった。八世紀前半の班田をめぐる農民たちの困苦と「班田使」という臨時雇いの官吏の現場での疲弊が話題となっている。その現場で丈部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)という若者が自殺してしまう。龍麻呂は、摂津国の班田史生という末端の吏員として採用されたが、その業務の最中に首を吊って自殺してしまったのだ。過酷な業務による過度なストレスが原因の過労自殺である。
 題詞には「自経」という言葉が使われている。集中用例はこの箇所のみ。ただ「経」のみで「首をくくる」の意があり、巻第十六冒頭歌の題詞に、二人の男に同時に言い寄られて自死を選んだ桜児について「懸樹経死」と記されている。
 直属の上司である摂津国班田判官(じょう)大伴三中は『万葉集』に龍麻呂を悼む歌を詠んでいる(巻第三・四四三~五)。三中は田舎で龍麻呂の帰りを待つ家族のことを思い、その早すぎる死を嘆く。長歌の末尾七句と短歌二首を引いておく。

いかさまに 思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて去にけむ 時にあらずして(四四三)

昨日こそ君はありしか思はぬに浜松の上に雲にたなびく(四四四)

いつしかと待つらむ妹に玉梓の言だに告げず去にし君かも(四四五)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今年度授業で取上げた本一覧 ― 仏英篇

2021-06-04 12:59:30 | 講義の余白から

 昨日の記事に掲載した和書リストに遺漏があったので、まずそれを補填しておく。いずれも修士の演習で言及した文献である。

苅部直『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫)
坂部恵『和辻哲郎 異文化共生の形』(岩波現代文庫)
桜井徳太郎『民間信仰』(ちくま学芸文庫)
ハルオ・シラネ『四季の創造 日本文化の自然観の系譜』(角川選書)
西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』(講談社学術文庫)
オーギュスタン・ベルク『空間の日本文化』(ちくま学芸文庫)
宮川敬之『和辻哲郎―人格から間柄へ』(講談社学術文庫)
和辻哲郎『古寺巡礼』『日本精神史研究』『人間の学としての倫理学』『倫理学』『日本倫理思想史』『イタリア古寺巡礼』『和辻哲郎随筆集』(岩波文庫)

 さて、仏語・英語篇である。著者名のアルファベット順に配列してある。これらの書物の授業での扱われ方は一様ではなく、著者紹介の一環としての著作紹介、授業中にその一部を読んだもの、授業中に検討した問題についてさらに勉強するための推薦図書、課題レポートのための参考文献、一般教養として知っておいてほしい本、単に私が最近読んで面白かった本の紹介などいろいろである。
 大半の学生は、これらの文献紹介をただ聞き流すか、聞いたそばから忘れていくか、なんで日本学科なのにこんな本が紹介されるのかわけわからんと怪訝な顔をするのが関の山である。それでもかまわないと私は思っている。世の中には実にさまざまな本があるものだなあと気づくだけでも無駄ではないと思うからである。彼らの中には、これらの紹介された文献のいずれかを自分でちゃんと読み、それをレポートの中に取り入れている感心な学生も数人はいる。そういう殊勝な学生にはもちろんボーナスポイントを贈呈する。

Gaston Bachelard, La poétique de l’espace, PUF, 2020 (édition critique).

Jean-Hugues Barthélémy, Simondon, Les Belles lettres, 2016.

Karin Becker (sous la direction de), La pluie et le beau temps dans la littérature française, Hermann, 2012.

Augustin Berque, Vivre l’espace au Japon, PUF, 1982.

Augustin Berque, Du geste à la cité. Formes urbaines et lieu social au Japon, Gallimard, 1993.

Maurice Blanchot, L’amitié, Gallimard, 1971.

Nicolas Bouvier, Le vide et le plein, Gallimard, « folio », 2009.

Rémi Brague, Au moyen du Moyen Âge. Philosophies médiévales en chrétienté, judaïsme et islam, Flammarion, 2008.

Fernand Braudel, Grammaire des civilisations, Flammarion, 1993 (1re édition 1963).

Florence Burguet, Qu’est-ce qu’une plante ? Essai sur la vie végétale, Édition du Seuil, 2020.

Roger Caillois, Les jeux et les hommes. Le masque et le vertige, Gallimard « Folio Essais », 1992 (1re édition 1958).

E.H. Carr, Qu’est-ce que l’histoire ? Éditions La Découverte, coll. « Bibliothèques 10/18 », 1988.

Roger Chartier, Culture écrite et Société : L’ordre des livres, XIVe-XVIIIe siècle, Albin Michel, 1996.

Emanuele Coccia, La vie sensible, Rivages poche, 2013.

Emanuele Coccia, La vie des plantes, Éditions Payot & Rivages, 2016.

Vincent Descombes, Le complément de sujet. Enquête sur le fait d’agir de soi-même, Gallimard, 2018 (1re édition, 2004).

Eddy Dufourmont, Rousseau au Japon: Nakae Chômin et le républicanisme français (1874-1890), Presses Universitaires de Bordeaux, 2018.

Norbert Elias, La civilisation des mœurs, Calmann-Lévy, 1973.

Robert Ellrodt, Genèse de la conscience moderne, PUF, 1983.

Jérôme Fourquet, L’archipel français. Naissance d’une nation multiple et divisée, Édition du Seuil, 2019.

Francis Fukuyama, The Origins of Political Order, Profile Books, 2011.

Fukuzawa Yukichi, L’Appel à l’étude, Les Belles Lettre, 2018.

Markus Gabriel, Pourquoi le monde n’existe pas, JC Lattès, 2014.

Georges Gusdorf, Les écritures du moi, Odile Jacob, 1991.

Claude Hagège, Halte à la mort des langues, Odile Jacob, 2000.

Francis Hallé, Éloge de la plante, Éditions du Seuil, 1999.

Francis Hallé, Plaidoyer pour l’arbre, Actes Sud, 2005.

Johan Huizinga, Homo ludens. Essai sur la fonction sociale du jeu, Gallimard, 1951.

Samuel Huntington, Le Choc des civilisations, Odile Jacob, 1997.

Ivan Illich, La convivialité, Éditions du Seuil, 1973.

Vladimir Jankélévitch, L’irréversible et la nostalgie, Paris, Flammarion, collection « Champs essais », 1974.

Muriel Jolivet, Chronique d’un Japon ordinaire, Elytis, 2019.

Nikolay Koposov, De l’imagination historique, Éditions de l’École des hautes études en sciences sociales, 2009.

Catherine et Raphaël Larrère, Du bon usage de la nature. Pour une philosophie de l'environnement, Flammarion, « Champs essais », 2009 (1re édition, Aubier, 1997).

Bruno Latour, Où atterrir ? Comment s’orienter en politique ?, La Découverte, 2017.

Jacques Le Goff, Histoire et mémoire, Gallimard, « folio », 1988.

Jacques Le Rider, Modernité viennoise et crise de l’identité, PUF, 2000.

Claude Lévi-Strauss, Anthropologie structurale II, Plon, 1973.

Claude Lévi-Strauss, L’autre face de la lune, Éditions du Seuil, 2011.

Michael Lucken, Nakai Masakazu. Naissance de la théorie critique au Japon, Les presses du réel, 2015.

Michael Lucken, Le Japon grec, Gallimard, 2019.

Michel Lussault, L’avènement du monde. Essais sur l’habitation de la Terre, Éditions du Seuil, 2013.

Henri-Irénée Marrou, De la connaissance historique, Seuil, coll. « Points Histoire », 1975.

Sabine Melchior-Bonnet, Histoire du miroir, Hachette, « Pluriel », 1998.

Maurice Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception, Gallimard, 1945.

Maurice Merleau-Ponty, Le visible et l’invisible, Gallimard, 1964.

Branko Milanovic, Global inequality. A new approach for the age of globalization, Harvard University Press, 2016.

Branko Milanovic, Inégalité mondiale. Les destin des classes moyennes, les ultra-riches et l’égalité de chances, La Découverte, 2019.

Edgar Morin, L’homme et la mort, Seuil, « Points Essais », 1970.

Nakae Chômin, Dialogues politiques entre trois ivrognes, CNRS Éditions, 2008.

Nakae Chômin, Un an et demi. Un an et demi, suite, Les Belles Lettres, 2011.

Ninomiya Hiyoyuki, Le Japon pré-moderne 1573-1867, CNRS Éditions, 2017.

Ogawa Ito, La papeterie Tsubaki, 2018.

Pierre Pachet, Les baromètres de l’âme. Naissance du journal intime, 2015 (1re édition, 1990).

Blaise Pascal, Pensées, Le Livre de Poche, 2000.

Thomas Piketty, Le Capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013.

Claude Romano, De la couleur, Les Éditions de la Transparence, 2010 (Gallimard, édition revue et augmentée, 2021).

Jean-Jacques Rousseau, Du contrat social, GF Flammarion, 2001.

Christiane Séguy, Histoire de la presse japonaise, POF, 1993.

Christiane Séguy, Du sable à la plume, Presses universitaires de Strasbourg, 2014.

Haruo Shirane, Japan and the Culture of the Four Seasons. Nature, Literature and the Arts, Columbia University Press, 2012.

Pierre-François Souyri, Moderne sans être occidental. Aux origines du Japon d’aujourd’hui, Gallimard, 2016.

Jean Starobinski, L’Encre de la mélancolie, Éditions du Seuil, 2012.

James D. Tabor, Marie. De son enfance à la fondation du christianisme, Flammarion, 2020.

Jacques Tassin, Pour une écologie du sensible, 2020.

Jacques Tassin, Penser comme un arbre, 2018.

Emmanuel Todd, L’illusion économique. Essais sur la stagnation des sociétés développées, Gallimard, 1998.

Emmanuel Todd, Qui est Charlie ?. Sociologie d’une crise religieuse, Éditions du Seuil, 2015. 

Emmanuel Todd, Les Luttes de classes en France au XXIe siècle, Édition du Seuil, 2020.

Paul Valéry, Œuvres I, Gallimard, Pléiade, 1957.

Pierre Vesperini, Droiture et mélancolie, Verdier, 2016.

Paul Veyne, Comment on écrit l'histoire, Seuil, coll. « Points Histoire », 1971.

Watsuji Tetsurô, Fûdo le milieu humain, CNRS Éditions, 2011.

Zeami, La tradition secrète du Nô, Gallimard, 1960.


今年度授業で取上げた本一覧 ― 和書篇

2021-06-03 21:32:04 | 講義の余白から

 まだ課題レポートと学年末試験答案の採点業務中で、すべて終えるのにあと一週間はかかりそうだ。一日中採点していると、本当に頭が疲れてくるし、だんだん効率も落ちてくるし、採点の公平さにも影響しかねないから、できるだけ早く片付けたいのはやまやまだが、一日に処理する枚数を制限している。
 今日の採点作業のノルマを終えた後、気分転換のつもりで今年度担当したすべての授業で取り上げた本・言及した本・推薦した本のリストを作成し始めたら、意外なほど時間がかかってしまった。しかし、この作業を通じて、取上げた本の偏向や欠落もわかるようになったから、私自身にとってはまったく無駄ではなかった。
 これはまったく自分のためだけの整理で、そんなもの自分用として保存しておけばいいようなものだが、せっかく作ったから、誰の役にも立たないとは思うが、記念としてこのブログに掲載しておきたい(万が一、どなたかのご参考になれば幸甚です)。
 今日が和書篇で、明日が仏語篇(若干の英語文献を含む)である。
 和書に関しては、古典は書名のみとし、参照した複数の版についての情報は省略する。その他の書物については、漢字名・カタカナ名は区別せず、著者の姓のあいうえお順に配列する。入手が容易な版がほとんどなので、出版年は省略する。映画のノベライズ版は、映画製作者自身がノベライズしたものを除いて、著者名を省略し、書名のあいうえお順に一括して配列する。共著も著者名を示さず、書名のあいうえお順にまとめる。

『万葉集』
『竹取物語』
『古今和歌集』
『和泉式部日記』
『源氏物語』
『百人一首』
『芭蕉全句集』
『蕪村句集』

阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)
荒野泰典『近世日本と東アジア』(東京大学出版会)
荒野泰典『「鎖国」を見直す』(岩波現代文庫)
イ・ヨンスク『「国語」という思想』(岩波現代文庫)
伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ)
伊藤博『萬葉集釋注 十』(集英社文庫)
井之上喬『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』(PHP新書)
上野誠『万葉集講義』(中公新書)
宇野重規『トクヴィル』(講談社学術文庫)
宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書)
梅渓昇『お雇い外国人』(講談社学術文庫)
大今良時『聲の形』(全7巻、講談社)
大鹿靖明=編著『ジャーナリズムの現場から』(講談社現代新書)
大岡信『私の万葉集 五』(講談社文芸文庫)
大野晋編著『古典基礎語の世界』(角川ソフィア文庫)
大野晋[編]古典基礎語辞典』(角川学芸出版)
大橋幸泰『潜伏キリシタン』(講談社学術文庫)
岡潔『数学する人生』(森田真生編 新潮文庫)
小川糸『ツバキ文具店』(幻冬舎)
E. H. カー『歴史とは何か』(岩波新書)
マルクル・ガブリエル『つながり過ぎた世界の先に』(PHP新書)
唐木順三『日本人の心の歴史』(ちくま学芸文庫)
苅部直『「維新革命」への道』(新潮選書)
苅部直『日本思想史の名著30』(ちくま新書)
菊谷和宏『「社会」のない国、日本』(講談社選書メチエ)
ロバート・キャンベル編著『日本古典と感染症』(角川ソフィア文庫)
倉嶋厚監修 宇田川眞人編著『花のことば辞典』(講談社学術文庫)
倉嶋厚・原田稔編著『雨のことば辞典』(講談社学術文庫)
こうの史代『この世界の片隅に』(上中下3巻 双葉社)
小西甚一『日本文学史』(講談社学術文庫)
小林敏明『〈主体〉のゆくえ』(講談社選書メチエ)
小松和彦『異界と日本人』(角川ソフィア文庫)
佐竹昭広『萬葉集抜書』(岩波現代文庫)
澤宮優 平野恵理子=イラスト『昭和の消えた仕事図鑑』(角川ソフィア文庫)
白川静『初期万葉論』(中公文庫)
新海誠『小説 秒速5センチメートル』『小説 言の葉の庭』『小説 君の名は。』
助川ドリアン『あん』(ポプラ社)
鈴木貞美『「近代の超克」 その戦前・戦中・戦後』(作品社)
鈴木孝夫『日本語と外国語』(岩波新書)
田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)
出口汪『論理的に書く技術』(ソフトバンク文庫)
時枝誠記『国語学原論』(上・下 岩波文庫)
エマニュエル・トッド『パンデミック以後』(朝日新書)
ロナルド・トビ『日本の歴史 第9巻 「鎖国」という外交』(小学館)
中江兆民『三酔人経綸問答』(光文社古典新訳文庫)
中江兆民『一年有半』(岩波文庫、光文社古典新訳文庫)
中西進『古代史で楽しむ万葉集』(角川ソフィア文庫)
永原慶二『戦国時代』(講談社学術文庫)
飛田良文『明治生まれの日本語』(角川ソフィア文庫)
福沢諭吉『学問のすすめ』(講談社学術文庫)
福沢諭吉『文明論之概略』(岩波文庫)
藤沢周平『時雨みち』(新潮文庫)
堀潤『僕らのニュース革命』(講談社現代新書)
堀潤『僕がメディアで伝えたいこと』(幻冬舎)
堀川惠子『死刑の基準』(講談社文庫)
堀川惠子『裁かれた命』(講談社文庫)
堀川惠子『永山則夫』(講談社文庫)
堀川惠子『教誨師』(講談社文庫)
本多勝一『〈新版〉日本語の作文技術』(朝日文庫)
前田勉『江戸の読書会』(平凡社ライブラリー)
松田奈緒子『重版出来!(1)』(小学館)
松永昌三『中江兆民評伝』(上下巻、岩波現代文庫)
松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書)
松前健『日本の神々』(講談社学術文庫)
水島治郎『ポピュリズムとは何か』(中公新書)
三木清『人生論ノート』(新潮文庫)
三橋健『かぐや姫の罪』(中経出版)
村上紀夫『歴史学で卒業論文を書くために』(創元社)
目崎徳衛『百人一首の作者たち』(角川ソフィア文庫)
森田良行『思考をあらわす基礎日本語辞典』(角川ソフィア文庫)
安田敏朗『「国語」の近代史』(中公新書)
安田敏朗『植民地のなかの「国語学」』(三元社)
安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書)
安丸良夫『現代日本思想論』(岩波現代文庫)
柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書)
吉海直人『百人一首で読み解く平安時代』(角川選書)
『吉野弘詩集』(岩波文庫)
渡辺京二『バテレンの世紀』(新潮社)
渡部泰明『和歌史 なぜ千年を越えて続いたか』(角川選書)
和辻哲郎『風土』(岩波文庫)

『近代の超克』(冨山房百科文庫)
『俳句歳時記 春』(角川ソフィア文庫)
『俳句歳時記 夏』(角川ソフィア文庫)
『大学で学ぶ日本の歴史』(吉川弘文館)
『かぐや姫の物語』(角川文庫)
『シネマ・コミック かぐや姫の物語』(文春文庫)『小説 聲の形』(講談社 上下2巻)
『小説 映画 聲の形』(講談社ラノベ文庫 上下2巻)
『小説 映画 ちはやふる』(講談社)
『ノベライズ この世界の片隅に』(双葉社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今日からブログ九年目

2021-06-02 12:30:14 | ブログ

 このブログを始めたのが2013年6月2日である。より正確には、アメーバブログでこの日に始め、二月ほど経ってから、それまでの記事を全部移動させる形でこちらに引っ越してきた。今日から九年目に入る。日数でいうと2923日連続で投稿していることになる。その間、数えたわけではないが、十数度一日のうち複数回投稿したこともあるので、記事の件数は三千件近い。
 何か継続的に行おうと決めたことは、十年は続けてみようと思っている。水泳に関しては、子供の頃にスイミングスクールに通っていたときを除けば、2009年8月にパリで始めた。すでに十年を超えている。ここ一月余り休んでしまっていたが、昨日から最寄りのプールが平常のフル稼働に戻ったので、明日から再開しようと思う。ただ、先月後半から始めたウォーキングの効果が体に目に見えて現れてきて、こっちの方が面白くなってきてしまったので、ウォーキングをメインとし、水泳はウォーキングの後の「おまけ」という位置づけになる。
 ブログに関して言えば、十年続けたからといって何か確かな成果が得られる保証はないが、それくらいの息の長さを目安にして、明日からも毎日投稿ということだけを原則に、無理に気張らずに、続けていきたい。歩くことや泳ぐことが心身の健康にとって有効であることは言うまでもないが、私にとっては、それと同じくらい、このブログの記事を書くことが心の健康の支えになっている。だから、頑張って書こうというのではなくて、ちょうど毎日規則正しく食事を摂ることが健康の基礎になるのと同じように、日々の良き習慣として続けていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 


反時代的学問としての「読書の学」― 吉川幸次郎『読書の学』について

2021-06-01 14:34:24 | 読游摘録

 昨日の記事の話題は何か唐突な感じを与えたかも知れない。このブログで取り上げる話題は、その日その日の思いつきでもいいのだから、唐突だったとしても、出し抜けだったとしても、別にかまわないわけだが、昨日の話題に関して言えば、私自身にとってはふと思いついただけのおざなりな話ではなかった。
 その前の日まで五日間連続で吉川幸次郎の『古典について』を取上げたが、同じく吉川の『読書の学』(ちくま学芸文庫 二〇〇七年)も並行してところどころ読み直していた。こちらはその電子書籍版を昨年十二月に購入したが、そのときは読んだ感想をすぐにブログに書きつけなかった。その『読書の学』の中に、昨日の記事のようなことを考えさせるきっかけになった学問論が展開されているのである。本書は、一九七一年から一九七五年にかけて筑摩書房の雑誌「ちくま」に連載された文章からなり、一九七五年に単行本として刊行された。
 その学問論の要点は以下の通り。現代の学問においては、書物は、広い意味での内的あるいは外的事実の獲得のために読まれるので、その事実が獲得されてしまえば、用済みであり、書物の言語は、忘れられ、棄てられる。現代の学問は、事実に執着し、事実を伝える言語の形態を深く問わない。書物を主な考察対象とする人文科学でさえそうであるのだから、「事実そのもの」を扱うとされる社会科学の分野や、ましてや自然科学の諸分野においては、言語に対する執着は希薄となる。あるいは、自分たちの研究分野で必要とされる言語にしか関心を示さず、それ以外については、言われた内容、伝えるべき事実が大事であって、言語表現そのものは二の次となる。しかし、言語もまた事実であり、伝えられる事実は言語と独立に存在するものではない。ここに言語形態そのものを考究対象とする学問が成立する理由がある。ただし、ここでいう言語形態とは、言語学の対象としてのそれではなく、認識・思想の表現形態としての言語である。したがって、新聞雑誌に掲載される、読み捨てればよいような文章は対象とはならない。この認識・思想の言語表現の諸形態を研究対象とするのが「読書の学」である。
 思い切って要約してしまえば、これが吉川の所説である。が、このように暴力的に要約してしまうことがまさに読書の学に反する態度である。読書の学は、「何をいっているかを知るだけで満足する見方、それに満足せずして、いかにいっているかを、著者の心理に立ち入って把握する能力」だからである。このような能力は、「ゆっくりした時代にこそ高まる」と、「読書力について」という別の文章の中で吉川はすでに書いている。
 実際、前田英樹が『愛読の方法』(ちくま新書 二〇一八年 本書については昨年十二月に四回取上げている。こちらがその初回)の中で『読書の学』に言及している箇所で言っているように、吉川は、この読書の学を「手を変え、品を変え、執拗に」説いている。『読書の学』はもともと一般読者向けに書かれた文章でありながら、具体例として上げられた詩句の注解は、確かにいささか度が過ぎると素人には思えるほどに詳細である。
 吉川が『読書の学』を書いてから四十五年以上が経っている現在、私たちは吉川の時代には想像もできなかった速さで、恐ろしく大量の文章を時々刻々発信し、受信している。いちいち表現の仕方になんか注意していたら間に合わない。少しくらい間違っていたって、通じればいいではないか。そのほとんどは記憶されることもなく、使用後は忘却されるのだから。学問においてさえ、細かい字句に拘っていては「生産性」が上がらない。表現に彫琢を施している暇はない。どんどん論文の本数を増やさなくては、「業績」を評価してもらえない。
 現代において、読書の学は、反時代的学問である。まさにそうであるからこそ、存在意義があると、あるいは死守しなくてはならないと、吉川の文章を読みながら、老生は愚考した。