内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「言葉は自分で自分の命を守れない」― 消えゆく爺の心の叫び

2021-06-20 19:16:47 | 日本語について

 今日の話題は、読んでいくと、徐々に、いや、たちどころに、な~んか、とてもイヤぁ~な気分になる話です。言い換えると、エッ、なに、エっらそうに、上から目線でさ、アンタ、何様のつもり、っていう、とても感じの悪い、年寄の繰り言です。
 だったら、そんな話、しなけりゃいいじゃん、と、そこのお若い御仁はおっしゃるか。それももっともな話じゃ。アンタは正しい。しかしな、年寄りとはこういうものなのじゃよ。言わなきゃいいこと、そのまま墓場に持って行けばいい愚痴、恨み言、讒言(読めるかの、そこのお若いの、「ざんげん」と読むのじゃ、この機会に覚えておきなされ、おそらく何の役にも立たぬがのぉ)の類を、だれかに聞いてほしいのじゃよ。「ウン、よくわからないけど、でも、わかるような気がするよ、爺ちゃん」―孫(あるいはそれくらいの年齢の若人)のこんな見え透いたお座なりな言葉を冥土の土産にして消え入るように身罷りたいのじゃよ、わしは。
 さて、そろそろその意地悪爺さん的な無駄口を始めてもよろしいかの。これが最初で最後じゃ(って、これから死ぬまで何度も繰り返すであろう)。

 日頃、安易な言葉遣いはけっしてしまいと文章でも会話でも余は気をつけている。少なくとも、本人としては、細心の注意を払い、おざなりな言い方で事を済ませないように心掛けている。このブログでもその原則は遵守されている(と本人は思っている)。敢えて今はやりのいい加減な表現を用いるときもあるが、それは意図してある効果を狙ってのことであって、そんな表現がイケてると思っているわけではない。
 ここで、得意技を使うこと、言い換えれば、伝家の宝刀を抜くことをお許し願いたい。つまり、自分のことをすべてアッケラカンと棚に上げ、無防備な他者を一方的に抜き打ち的に難詰することをご寛恕願いたい。
 世の中には、なんといい加減、杜撰、おざなり、ただのウケ狙い、もっと言えば、発言している本人のバカさ加減を露呈するだけの言葉遣いに満ち溢れていることか。この話をしだすときりがないので、ただ一つの表現だけをこの記事では話題にする。そうしないと、この記事はエンドレスになってしまうであろうから。
 おそらく、2011年の東日本大震災および福島第一原発事故以来、特に頻用されるようになった表現であるが、「寄り添う」である。この言葉自体になんの文句もない。美しい言葉である。「年老いた夫婦が互いに寄り添うように生きている」などいう表現には何の異存もない。ちょっとウルッとしそうなくらいである。しかし、フクシマ以来、なにかといえば、「寄り添う」という表現を見聞きするようになった。お使いになっているご本人たちは、それぞれの文脈において、真率なお気持ちからそれを使われている場合がほとんどだと思う。そのことを疑っているわけではない。
 が、正直に言おう。この言葉を聞くたびに、虫酸が走るんだよ。免罪符みたいに言葉を使ってんじゃねーよ。その都度、もっとどんな表現が適切か、頭と心と体を使って、真剣に考えろ。アンタたちのやっていることは、無意識的な、けっして罪に問われることもない言葉殺しなのだ。だからこそ深刻なんだよ。アンタたちが無自覚に安易に同じ言葉を繰り返せば繰り返すほど、その言葉は命を削られていくってことがわかってねーんだよ。言葉を発っそうとするそのたびに、もっと言葉を探せ、躊躇え、言い淀め、逡巡しろ。わかったように流暢に言葉を垂れ流すな!
 と、ここまで書いて、そこかはとなく虚しい気分になったので、今日はこれで御暇します。皆々様、ご機嫌よろしゅう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


なぜ私は毎日歩くのか

2021-06-19 18:50:48 | 雑感

 到達目標数値を設定して先月15日から取り組んできたウォーキングとジョギングは、今日19日まで、途中二日(先月22日と今月12日)休んだだけで、34日継続し、その間徐々に負荷を高めていき、結果、体脂肪率、内蔵脂肪レベル、皮下脂肪率、基礎代謝量、骨格筋率、BMIのすべてにおいて「最良好」に到達した。単に数値的にだけではなく、身体がとても良好な状態にあることを今実感している。
 そのことに満足感と充実感を覚える一方、なんでこんなことをしているのだろうと自問もする。健康維持のためと一応は答えることができる。が、では、何のための健康維持か、とさらに自らに問わずにはいられない。健康であれば、日々を快適に過ごせることは確かだ。とはいえ、体は遅かれ早かれ老化し、衰えていくものだ。それにできるかぎり抗いたいという意志がないわけではない。その果敢なレジスタンスは、しかし、最終的には敗北するに決まっている。
 自分は長生きしたいのだろうか。かつては漠然とそう思っていたかも知れない。ところが、いつからとはっきりとは言えないが、惨めな姿を晒してまで長生きすることをひどく怖れるようになった。その思いが強くなったのは、明らかに昨年のコロナ禍の渦中でのことだった。老いさらばえて生きたくはない、介護される立場になる前に人生を終えたい、と切に願うようになった。とはいえ、自殺願望はない。
 では、健康なまま、ある日突然、苦しまずに、ぽっくりと逝きたいのだろうか。いや、そうではない。願って叶うことではないが、それはむしろ望まない。一つ願うことがあるとすれば、生の最後の瞬間まで意識を明晰に保っていたいということだ。しかし、意識の明晰さは保つことができたとしても、寝たきりの状態になるということもあるではないか。例えば、その前日まで健康そのものもであっても、思わぬ事故によって半身不随になることだってありうるのだから。ある日、意識不明となり、生命維持装置なしには生きられない状態に陥ることだってあり得ないことではない。しかし、これらの可能性を想定してみたところで何の益もない。
 いったい私は何を望んでいるのか。一言で言えば、死が訪れる直前まで自己省察を続けたいのだ。それができるかぎりにおいて生き続けたいのだ。その生への意志が、私に毎日このブログを書かせ、毎朝歩かせている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二つの口頭試問 ― 『葉隠』とニーチェ、江戸時代の寺子屋とアンシャン・レジーム期の小さな学校

2021-06-18 23:59:59 | 講義の余白から

 本日、二つの口頭試問があった。午前と午後にひとつずつ、どちらも遠隔で行われた。
 午前は、学部の卒業小論文の口頭試問。論文のテーマは、山本常朝の『葉隠』とニーチェの『悦ばしき知識』の比較研究。副題は「いかなる点において武士の倫理の理想像はニーチェの超人に接近するか」。出色の出来栄えであった。既成の倫理的価値が揺るがされている危機の時代に生きたという類似する歴史的文脈の中で、両者それぞれがいかに新しい価値の創出を試みたかという問いを立て、一見して対立する価値観を提示しているかに見える『葉隠』と『悦ばしき知識』からの引用を積み重ね、結論として、両者の親近性を生の哲学の探求に見出す。三島由紀夫の『葉隠入門』に触発されつつ、『葉隠』の思想の核心を、その死への思想にではなく、この生の今の一瞬を十全に生きるための日常の中の工夫と見み、それをニーチェの生の哲学に引き寄せていく解釈の手並みは見事であった。
 講評の中で、江戸時代、武士道が士道に対する批判として現れ、両者がどこで対立するかを考察するとき、ニーチェが『悦ばしき知識』で展開した既成倫理批判がその考察に有効な手がかりを与えてくれることを指摘しておいた。修士論文としてさらなる展開が期待できるテーマだが、本人は修士に進む道を選ばず、まずはバイトで稼ぎ、日本で一年間暮らし、その後もし勉強を継続したくなったら、修士に進むかも知れないと言っていた。今年の三年生の中には哲学的センスが光る女子学生が何人かいたが、彼女はその中でも際立っていた。
 午後は、論文の審査ではなく、修士一年の終わりに提出が義務づけられている研究報告書についての口頭試問。私が修士論文指導教官であるこの学生は、当初、関西圏における江戸時代の児童教育の事例研究をテーマとするつもりで、来年度の岡山大学への留学が決まっていたのだが、主に経済的な理由でそれを諦めざるを得なくなった。その結果、現地での史料調査が必須の事例研究は困難となり、私と相談の上、テーマを日仏比較研究に切り替えることにした。フランスのアンシャン・レジーム期に登場した「小さな学校 Petites écoles」と江戸時代後期の寺子屋との比較研究である。前者に関しては、当然のことながら、フランスがその研究の中心であるから、一次史料にも研究文献にも事欠かない。後者に関しては、日本語の二次文献に頼らざるを得ないが、それにしてもフランスでは簡単には閲覧あるいは入手できない文献が多い。そこで、以下のような「戦略」を採用することにした。
 まず、「小さな学校」に関して、その成立の経緯と展開、目的、教会との関係、運営規則、教師の出自とその雇用、教科内容、教科書、宗教教育の位置づけ、女子教育の特徴、地方的な特徴、都市部と農村部の差違などの諸点を比較対象の項として詳細かつ体系的に立て、それらとの比較を通じて、特に両者の間の決定的な違いを際立たせつつ、寺子屋の諸特徴と社会におけるその機能を明確化するという手順を踏むことにしたのである。
 この学生は、いつもいくつもの質問を抱えて面談にやって来るのだが、今回の試問の間にも様々な質問があった。面白いことに、それに答えているうちに、私の方にいろいろアイデアが浮かんできて、それを彼に話すと、彼もそれを面白がり、論文にどう取り入れるか考え始める。もはや単なる質疑応答ではなく、論文のさらなる展開の可能性を一緒に探ることになる。今回も話が尽きず、一時間の予定の試問が一時間四十分に及んだ。しかし、それは双方にとって知的刺戟に富んだ会話であり、少しも長いとは感じなかった。次回は、夏休みの終わりに、それまでに書けた部分について検討しようと約して、遠隔試問を気持ちよく終えることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


美しき夏を過ごしてください

2021-06-17 20:20:37 | 講義の余白から

 老生の年齢と若き学生たちの年齢との目も眩むような―嘘偽りなく、端的に言えば、孫子のような―開きもあり、ましてや、相手にしているのはフランスの大学の学生たち(つまり、彼らの生きている社会に、所詮、私は属してはいない)ということもあるからだと思うが、すごく醒めた目で彼らの現実を見ている自分がいる。
 「君たち、これから大変だよねぇ。頑張ってねぇ」と、定年が数年後の私は心の中で願いつつ(この気持ちは真率ですよ)、他方で、「君たちの未来は私とは何の関係もないんだよね」ということも日々自覚せざるを得ない。こんなこと、いつものお決まり、お馴染みの「何を今更話」である。
 ただ、自分が彼らの年齢だったころのことを思うと、今はそれと比べて卒倒するほど技術革新が進んでいる一方、生きることの大変さはむしろ共約不可能なほどに増大しているように思え、彼らに対する同情を禁じ得ない(って、嘘くせぇ~)。
 今日、卒業小論文の口頭試問を遠隔で行った後、試問を受けた学生に、「来年度どうするの」と聞いた。日本語を含めた多言語の翻訳者を養成するマスターに進むという。それは日本学科卒業生がよく選ぶコースのひとつだ。選択肢のひとつとして、まったく妥当である。
 「美しき夏を過ごしてください」― 彼に贈ることができたせめてもの餞の言葉であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


FNACの馴染みの店員さんの話

2021-06-16 17:22:16 | 雑感

 書店で本を手にとって、装丁を眺めたり、ところどころ読んだりしてから、購入するということがストラスブールに来てからほとんどなくなった。それはストラスブールにいい本屋さんがないからではなくて、私の書籍購入方法が変わったためである。圧倒的にネットでの注文が多くなった。それに、ここ数年、電子書籍の購入が格段に増えた。日仏英あわせて一八〇〇冊ほどになる。
 電子書籍でありがたいことは、誤って二重買いすることがまずないことである。紙の本では、これまでに両手で数え切れないほど二重買いをしてしまった。つい先日も、Marlène Zarader, Lire Être et Temps de Heidegger (Vrin, 2012) を二重買いしてしまったことに購入してから数ヶ月も後に本棚の整理をしていて気づき、ちょっとショックだった。文庫本ならともかく、三〇ユーロ以上もする本である。四年前にアマゾンで一度購入しているのだが、今回はFNACを利用したために、二重買いを防げなかった(最近、ハイデガーと京都学派の比較研究で博士論文を書きたいというリヨン大学の学生の共同指導を引き受けたから、二冊あってもきっと何かの役に立つだろうと、わけのわからない気休めを独り呟いている虚しさよ)。
 この購入方法の変化の結果、書店での店員さんとのやり取りがなくなってしまった。ところが、面白いことに、三年ほど前からであろうか、ネットで紙の本をよく注文するFNAC の注文品引取コーナーの店員さんたちが私のことを覚えてしまったのである。こっちから名乗ったことはないのに、注文品を取りに行くと、« Bonjour Monsieur K** » と私の名前を呼んでくれるようになった。そればかりか、私の姿が見えると、私がカウンターに辿り着く前に倉庫に注文品を取りに行ってくれたり、「いらっしゃると思って、取り分けておきましたよ」と複数の注文品をまとめておいてくれたりする。
 先日はもっと面白いことがあった。注文品を引き取るために列に並んでいると、馴染みの店員さんの一人が「ちょうどよかった。お話したいことがあったんですよ」と別の受付口に私を呼ぶ。「先日の注文品(『ゴッホ書簡集』六巻本のこと)、ちゃんとお受け取りになりましたか」と聞くので、ちょっと怪訝に思いながら、「ええ、先日受け取りましたよ、あなたの同僚の一人から」と答えると、「実はおかしなことがあったんですよ。あなたとほぼ同時に同じ書簡集を注文したお客さんがいて、その方に届いた方は第三巻が欠けていたんです」と言う。
 彼がこんなことをわざわざ私に言うのには理由がある。その一月ほど前にこんなことがあった。注文しておいた『ゴッホ書簡集』が届いたとメールで知らせが来たので、取りに行った。ところが六巻本のうちの第三巻しか届いていなかったのである。そのクレームを処理してくれたのがその馴染みの店員さんだった。私の最初の注文を返品扱いにし、新たに発注してくれた。その二週間後、無事に美装箱入り六巻本が届いた。私にとっては、それで一件落着であった。
 ところが、その店員さんよると、これには後日談があって、返品になった第三巻が抜けた残りの五巻が入った箱がそのもう一人の注文客の方に届いてしまい、またしても返品、再注文となったというのである。おそらく、パリ近郊のランジス巨大倉庫の注文処理担当者が、なぜだかわからないが、六巻の箱から第三巻だけ抜き出して、私宛てに発送し、残りの五巻が入った箱をもうひとりの注文者に発送したのだろうと彼は言うのである。「連中が何やっているんだか、もうまったくわけがわかりませんよ」と笑いながら、顛末をひとしきり説明してくれた。
 その日、ただ注文書を取りに行っただけなのに、思いもかけぬ笑い話の「特典」がついて、気持ちよく店を後にしたのでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


卒業小論文の口頭試問の準備

2021-06-15 23:59:59 | 講義の余白から

 来月17日の発表準備の目処は立ったので、すぐにも集中講義の準備に取り掛かりたいところだが、五人の学部生の卒業小論文の口頭試問を今週と来週しなくてはならないので、その準備を優先させなくてはならない。「論文」ではなく「小論文」としたのは、原語が mini-mémoire だからである。実際、仮に日本語に訳したとして、だいたい三十~五十頁程度の規模である。ときどき「大作」が出る。今回も一つ、日本語に訳せば、百枚は優に超える論文が一本ある(本人曰く「全身全霊を傾けた卒業にふさわしいものを書きたいと思った」)。
 論文提出に先立つ数ヶ月から数週間に及ぶ指導の過程で彼らの研究内容はよく把握しているし、単位取得を承認するかしないかだけで公式には成績として点数を付けなくてよいし(非公式には、私の評価のしるしとして点数を伝えるが)、提出を認めた時点で単位取得は保証されるから、それほど審査に神経を使わなくてもいいのだが、彼らがせっかく時間をかけて書き上げた卒業記念の「作品」であるから、こちらも真剣に読み、口頭試問ではちゃんと質疑応答もしたいと思うので、どうしても読むのに時間がかかるのである。
 それぞれテーマはまったく異なっている。明日審査するのは、現代日本社会における子殺しと親子心中の社会学的考察、明後日審査するのは、近代におけるニヒリズムの克服の試みとしての山本常朝の『葉隠』とニーチェの『悦ばしき知識』との比較研究。来週月曜日は、明治国家によるアイヌ人学校教育政策に見られる「同化」の論理と構造、水曜日は、神風特攻隊の倫理、そして金曜日は、現代日本におけるプラスチック過剰消費対策(上勝市の「ゴミゼロ運動」の事例研究)。
 学期のはじめに、「先生、こんなテーマで論文書きたいのですが」と学生たちが相談に来る。よほどのことがないかぎり、「いいよ」と即答する。その後、まず問題設定と仮のプランを提出させ、それに対して意見を述べ、ほとんどの場合、問題をより限定させ、かつ明確化させる。次に、仮の文献表を提出させる。あとは書けたところから提出させ、コメントを返す。完成論文の提出までこれを繰り返す。書きあぐねたり、難問に突き当ったりして、相談メールを送ってくる学生もいる。そのやりとりが十数回に及ぶこともある。
 この審査が終了すれば、全員晴れて卒業である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東京で行われるはずだった夏期集中講義をストラスブールから遠隔で行うことに本日決定

2021-06-14 13:50:09 | 講義の余白から

 この夏に一時帰国するか、集中講義は対面か非対面か、もうそろそろ決めなくてはならないと、東洋大大学院教務課に次の二点について問い合わせるメールを今朝送った。
 一点目は、オリンピック・パラリンピックが開催された場合、その期間の授業は原則すべて非対面という方針が三月の時点で大学当局によって打ち出されていたので、その方針はそのまま維持されるのかどうかの確認。この方針が維持されるならば、開催の場合、演習は遠隔で行われることになり、そのために帰国する意味はなくなるからである。
 二点目は、開催されない場合の対処。この場合、演習は対面で行いうるわけである。と同時に、オリンピックが中止になったということは、日本の感染状況が十分に改善していないということでもあり、入国後二週間の自主隔離は当然求められ続けるだろう。しかし、7月29日に始まる演習に二週間の自主隔離後に間に合うように帰国するには、こちらを7月14日に発たなくてはならない。ところが、そんなに早めにこちらを発つことはこちらの職務上の困難である。そこで、オリンピックが中止になった場合も、ストラスブールから遠隔で演習を行ってもよいかというのが問い合わせ内容である。
 教務課からはすぐに返事が来た。一点目については、原則非対面は維持されるとの回答。二点目については、授業のタイプ・人数その他の諸条件・諸事情を考慮し、各教員状況の変化に柔軟に対応してほしいというのが大学の基本的意向であるから、後者の場合も遠隔でOK、段取りは履修学生と直接打ち合わせてほしいとの回答であった。
 さっそく履修登録した二名の学生に演習は遠隔で行うことをメールで知らせた。その通知の中で、原則として、予定されていた日程である7月29日から8月3日までの五日間(1日日曜日は除く)に演習を行うが、毎日4時間半、短期集中で総計15コマ=22時間半、PCに向かい続けるのは、私にとっても君たちにとってもちょっとしんどいから、事前学習という名目で、19日から一回一時間程度のミニ演習を何回か行い、正規の演習期間の総時間数からその前倒し分を差し引くことにしたいが、それでいいか、という承認を求めた。まだ二人から返事がないが、承認されれば、二人の都合に合わせて事前学習の時間割を組む。教務課からはもちろん事前にこの方針についての承認を受けている。
 かくして、この夏の一時帰国はなくなった。2009年から毎夏帰国していたが、昨年今年と二年連続で断念することになった。残念ではあるが、致し方ない。今の気分は、しかし、むしろすっきりしている。昨年同様、夏を静かなストラスブールで過ごし、自分の研究上の仕事に専念できるのは嬉しくさえある。六月末日をもって、外出制限令は全面解除、屋外でのマスク着用も義務ではなくなる。七・八月の二ヶ月は、日中の研究三昧の前に、早朝のウォーキング・ジョギングを今以上に強化し、さらに水泳にも通い、九月からの新学期に備えて体を鍛え抜くつもりでもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


持統万葉における人麻呂歌による天武天皇の神格化と草壁皇統の創出

2021-06-13 20:43:04 | 読游摘録

 柿本人麻呂の生涯についてはほとんど未詳で生没年もわからない。七世紀後半から八世紀初頭にかけて、つまり天武朝から文武朝にかけて生き、特に持統朝に活躍した宮廷歌人だったということが言えるくらいである。『万葉集』に収録された人麻呂の歌から、持統三年(六八九)から文武四年(七〇〇年)までの間に宮廷歌人として歌を作ったことは確かである。近江荒都歌が集中最初に現われる人麻呂歌だということは、それらの制作年代も収録歌中最初のものであることを必ずしも意味しないし、人麻呂青年期の作であることを傍証する史料もない。
 中西進は、しかし、『古代史で楽しむ万葉集』(角川ソフィア文庫 二〇一〇年)の中で、近江荒都歌の長歌(二九)に「青春性といったもの」を感じると言っている。天智天皇は、いったいどう思し召されたのか、歴代天皇が居を構えた大和を離れて近江大津に宮居した。大津は「夷」(ひな)であり、都の対極である。人麻呂にとって天皇の所業は「測り難き畏怖」であった。
 ところが、その「天皇の神の命の大宮」は廃墟と化している。

大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも

 「神の宮居は滅びるはずのないものである。しかし現前の大宮は空しく春霞の中に春草が深い。[…]それをいま人麻呂はいちずに悲しんでいる。春日の深草の礎石のみをみつめて。このナイーブな感傷は、この作が若き人麻呂の手になるものであったことを、示してはいまいか。[…]この感傷性はむしろ人麻呂的ではない。[…]けだしこの感傷は人麻呂の青春の記念碑であった。」
 私にはこの解釈の可否を言う資格がないが、確かに、他の人麻呂歌と比べて、悲嘆の直截性は顕であるとは言える。「どのように嘆いても、人麻呂の歌は力がこもっている。混沌とした力によって訴えて来る」が、その力がこの歌には欠けており、感傷に流れていると中西進は見ている。
 しかし、もしこの歌が持統万葉の編纂意図を踏まえて詠まれたものとすれば、おのずと違った解釈が可能になってくる。瀧浪貞子が言うように、持統万葉は、歌による王権の歴史として編纂されたのだとすれば、天智朝と天武朝との間の「非連続性」を明確に示す必要があった。より正確に言えば、天武と自身の子で立太子した草壁皇子を始祖とする「草壁皇統」を創出し、その文脈において草壁の父である天武も神格化する必要があった(皇統の始祖を天武ではなく草壁とした持統の意図の詳細については瀧浪書に譲る)。
 人麻呂が持統天皇の命を受けて作った草壁挽歌(巻二・一六七~一七〇)の長歌は、実際、挽歌でありながら、前半が天武天皇への讃歌になっており、そこで天武天皇が「神」とされ、地上の創始者とされている。そして、後半、天武天皇が天界に帰ってしまったので、その神の子、草壁皇子が初代天皇となってわが国を統治するはずであったと歌われている。
 天武の神格化と草壁を始祖とする皇統は、瀧浪書によれば、持統天皇の意を汲んだ人麻呂によって生み出された思想(神話体系)であった。「日の皇子」という表現はこの歌で人麻呂がはじめて用い、それは天武天皇を指す。それは天武天皇を現人神として崇敬し畏敬の念を示すためであった。
 そうであるとすれば、天智天皇に対しては同様な神格化表現は使えない。しかし、だからこそ、近江荒都歌では、帰らぬ時への人間的な悲嘆の気持ちがより直截にかつ痛切に表現され得たとは言えないであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の精神史の転換点としての近江荒都歌

2021-06-12 12:38:00 | 読游摘録

 近江荒都歌については、2019年3月19日の記事「仏教の無常観では捉えきれないもの ― 人麻呂の近江荒都歌」で、末木文美士の論文「『万葉集』における無常観の形成」(『日本仏教思想史論考』大蔵出版 1993年所収。初出は、『東洋学術研究』二一・一 1982年)に見られる考察を取上げたことがある。その記事に今新たに付け加えるべき見解はないのだが、その内容は来月の発表に直接関わっているので、もっぱら私自身の再確認のために、もう一度末木論文の当該箇所を読み直しておきたい。
 末木氏は、壬申の乱から近江荒都歌が詠まれるまでの十数年が精神史上の大きな転換期であったとの認識を同論文で示しているが、それを根拠づける歴史的分析は、立ち入る余裕はないと省略している。私にはその缺を補うだけの知識も力量もないが、精神史的観点から一点指摘しておきたいことがある。
 過去は過ぎ行き、取り返しがつかないという歴史的時間の不可逆性の認識が近江荒都歌とともに生まれたとする見方はすでにこのブログでも繰り返してきた。では、この人麻呂の歴史認識と天武天皇に始まる記紀編纂の企図とはどの様な関係にあるのだろうか。先日取上げた瀧浪貞子の『持統天皇』(中公新書)によれば、「原万葉は、当時天武天皇の遺志を継いで進められていた記紀の編纂に並ぶ文化事業」ということになるが、それらすべてを天皇家(王権)の歴史としてまとめることができるだろうか。仮に当の編纂者の意図はそうだったとしても、近江荒都歌には、その意図から逸脱する感情が表現されていることは先日の記事で見た。
 天皇自身が神であるという「現人神思想」は、壬申の乱を勝ち抜いた天武のカリスマ性によって生まれた(大津透『天皇の歴史1 神話から歴史へ』講談社学術文庫 2018年)。このような思想は、天武とその皇子たちに限られたもので、日本の天皇制の歴史の中では特異な、例外的なあり方であった(同書)。人麻呂自身、「大君は神にしませば」で始まる歌を二首(巻三・二三五、二四一。二三五の或本の歌を含めれば三首)詠んでいるが、この表現は、天武~文武朝に固有の、王権の絶大な力を賛美する慣用句で、天武系の天皇または皇子に限って使われている(伊藤博『釋注』)。
 近江荒都歌は、現人神思想にあからさまに抵触するわけではないが、それとは明らかに異質の歴史認識を表現しており、日本の精神史における転換点としてより決定的な重要性をもっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コルマールで初夏の朝の光の中を歩く

2021-06-11 23:59:59 | 雑感

 今日、一年三ヶ月ぶりに、ストラスブール市内の路面電車以外の電車に乗った。コルマールで開催される会議に出席するために利用した。この間、別に電車利用を特に避けていたわけではなく、都市間を移動する必要がなかっただけのことだが、久しぶりにストラスブール中央駅のホームに立ってみて、皆マスクをしている以外は特に以前と変わったところもなかった。ストラスブール・コルマール間は三十分ほどで、もともとそう混雑する路線でもなく、コロナ禍以前から二人がけの座席に一人ずつ座るのはごくふつうのことだった。
 ようやく夏らしい日となり、快晴の空高く太陽が輝き、日中の気温は二十八度まで上昇した。湿度は低く、歩いていると流れ出した汗もむしろ心地よく感じられた。コルマール駅から会議場まで、徒歩十五分ばかりの道のり、朝の光に照らされた蒼樹が美しいシャン・ド・マルス公園を通り抜け、気持ちよく歩くことができた。ウンテルリンデン美術館近くの広場で、先生に連れられ街を見学している小学生たちのグループを何組か見かけた。そうした光景も人々の生活が平常に戻りつつあるしるしだ。
 会議があったのは、ウンテルリンデン美術館付属の建物で、広場を挟んで美術館に面している。会場は元屋内プールだった室内を改装したものだが、もとのままと思われる高い天井にはめ込まれた方形の色とりどりの硝子や白亜の壁面の装飾はなかなかに立派なものであった。会議後、その会場で簡単な昼食会があった。互いに十分に間隔を取られた丸テーブルそれぞれに六人ずつ座っての会食であった。食事に残ったのは三十数人だったであろうか。
 油断はもちろん禁物だし、まだ楽観が許されるわけではないが、コロナ禍からの出口がようやく見えてきたことを感じさせる一日だった。