内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

対面か遠隔かという二択を超越した試験方式の試み

2021-05-11 21:55:17 | 講義の余白から

 今日の講義が「近代日本の歴史と社会」の今年度最終回であった。二週間後が試験である。先週の授業でどのような試験方式になるか学生たちにはすでに説明してある。今回はこれまでとは違った、私にとっても新方式を試してみることにした。
 試験問題を自分で作れ、と学生たちに要求したのである。もちろん好き勝手に作れというのではない。五つの条件を課し、それらの条件を満たせば、あとは自分が課題として取り組みたい問題一問を自由に選んでよいとしたのである。
 その五つの条件は以下の通り。

一、明治・大正・昭和(太平洋戦争敗戦まで)のいずれかの時代における日本社会の近代化過程の特異性の一側面を取り上げること。
二、問題は、何が主題であり、どこに争点があり、何が論じられるのかを明示しているものでなければならない。
三、授業中に読んだ、あるいは取上げた参考文献の中から少なくとも一つは明示的に参照あるいは引用すること(十三冊挙げてある)。選択した文献を事前に報告すること。その他の参考文献は自由に参照・引用して構わない。
四、作成した試験問題の適否について私の事前承認を得なくてはならない。この事前承認なしに勝手に答案を作成しても零点である。
五、答案は指定された長さを厳守すること。それより少ない場合は減点の対象となる。

 私がこの試験方式を説明したとき、学生たちの中には、「自分で試験問題作っていいなんて、超ラッキーじゃん」と一瞬思った粗忽者もいたはずである。浅はかこのうえない。安易な設問は言うまでもなく却下する。大風呂敷で漠然とした問いなど、そもそも問題の名に値しない。つまり、問題として承認されるまでにすでに透過しなくてはならない厳しい関門あるのだ。
 「君たちが立てた問題の質も評価対象である。つまらん問題、安易な問題は、仮に私がそれを渋々受入れたとしても、すでにその時点で減点されていると知りなさい」と学生たちには警告してある(これって、ほとんど脅迫だよねー)。
 問題の承認に至るまで、私と何回か意見交換するのが望ましい。だから、できるだけ早く最初アイデアを送ってよこしなさいとも伝えてある。すると、三人の学生がこんなテーマでいいですかと早速聞いてきた。こういう学生たちは概して普段からよく考えているから反応が早い。実際、目の付けどころがいい。
 なぜこのような方式を採用したか。見かけはこれまでの方式と違っていても、その趣旨はこれまでの試験方式と基本的に同じである。それは、自ら問いを立て、その問いに自力で答えるべく時間をかけてできるだけ緻密な議論を構築せよ、ということである。その過程で、授業中に学んだことを反芻し、参考文献を調べることが当然必要となる。つまり、自主的に、かつ独りよがりの空回りや偏向に陥らないように、周到な計画性をもって問題に取り組むことが求められているのである。
 学生諸君、これがこの授業について君たちが取り組む最後の問題です。これまで学んだことを総動員して、自らに恥じるところのない答案を提出してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日頃の運動の目標数値についてのドーでもイイ話

2021-05-10 23:59:59 | 雑感

 昨年4月30日の記事にも書いたことだが、数値化することによって目標を明確化、単純化あるいは細分化し、それでモチベーションを維持あるいは高めるということを日頃の運動では心掛けている。
 十年以上に渡って水泳を続けてきたが、エクセルで通った回数を月間、年間、総計で出せるようにしてあった。ところが、ここ半月余り、水泳を止めている。コロナ禍でここ数ヶ月市営の屋内プールはすべて閉鎖されたままで、普段そこに通っていた人たちが私にとっての最寄りのプールである屋外プールに来るようになって、朝7時の開場時から以前より混むようになり、快適に泳げなくなってしまったからである。
 そのかわりにウォーキングを強化している。プールに通っていたときは、ウォーキングと合わせて毎日400キロカロリーほど消費するようにしていたのだが、四月末から同じ消費量にウォーキングだけで達するようにしている。具体的には、12000歩で440キロカロリー消費するようにしている。ただ1分間に133~4歩のペースだとほぼ1時間半かかってしまう。これを1時間20分に縮めるというのが今の目標である。そのためには一分間に150歩の速歩にしなくてはならないのだが、これができない。速歩では足をそんなに速く前後させることが私にはできない。そこで「ずる」をして一部ジョギングにして歩数を稼いでいる(悪いことをしているわけでもないのに、なんかセコいよなぁ、とちょっと後ろめたい気持ちでジョギングしている自分が可笑しい)。ジョギングだと一分間150~160歩は軽くクリアできる。
 毎日ではない。週3、4回、午前5時半過ぎに出発する。7時までには帰宅するためである(19時から6時まで外出許可証がまだ必要なのだが無視している)。ここ数日成果が体重計の数値になって現れてきた。ただ一つ面白くないのが、体脂肪率がなかなか18%を切らないことである。十年ほど前は12%台をキープしていたのだが、当時と体重はほとんど変わらないのに、体脂肪率だけは高くなってしまっている。これを15%まで下げること、これが今後の目標である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


高校における哲学教育が大学の日本学科で役に立つとき

2021-05-09 18:45:38 | 講義の余白から

 「上級日本語」の課題として、平均二週間に一回、小論文を課す。今学期は計六回。明日が第六回目の作文の提出期限である。最低八〇〇字というのはこれまでの課題と同じ条件だが、今回は最終回ということで上限なし。一昨日あたりから届き始めている。今回の課題は、昨年も扱った主題をめぐる問いだが、昨年より難易度を上げた。昨年は、「わかる」と「理解する」との違いを述べさせたのだが、今年は、授業中に私が示した両者の違いについての説明を前提として、「自文化は理解可能か」という問いに答えさせた。なかなか興味深い回答が返ってきている。すでに添削を終えた十三本の小論文のうちで私が最も高く評価しているのは、「わかっている」状態を説明するのにプラトンの『国家』の中の「洞窟の比喩」を援用したもの。その後半を引用しよう。

 この現象は哲学者プラトンの『国家』の中の「洞窟の比喩」に比べられます。確かに、洞窟に住んでいて、縛られていて、動けない人は、洞窟の壁に映る影は彼の社会だと思い込んでいます。そして、洞窟人にとって影は彼の社会、彼の文化で、自然的で唯一の事実なので、その文化の規則の理由を説明できず、理解することができません。あるとき、一人の洞窟人がその洞窟から出ることができたとき、彼だけが自文化の規則の理由を説明できて、自文化を理解することができました。
 それゆえ、自文化を理解するために、自文化から離れて、その歴史を学んで、その価値観や慣例の原因を理解する必要があります。例えば、自文化の歴史を見ると、異性愛が自然な状態と思われている理由は中世において、戦争時、多数の戦士を必要としたので、人口を増やすために、同性愛を禁止したことにあると言われています。それを理解するために、自分の社会の文化から離れて、異性愛は「自然な状態」であるとする通念からも離れる必要がありました。
 しかし、外に出た洞窟人が自文化を理解することができたのは、他の文化を身につけたからで、それによって彼の自文化に変化が起こり、新しく身につけた文化と比べることによって元の自文化を理解しました。故に、自分の社会を離れて自文化を見るときはじめて、本当にそれが自分の文化だと言えるのではないでしょうか。

 これを書いた学生は、毎回思慮深い内容の文章を書いてくれるのだが、この学生にかぎらず、要求したわけではないのに、哲学者を引用する学生が毎回必ず何人かいる。私が哲学を専門としていることを意識してのことかどうかはわからないが、感心するのは、それらの引用が付け焼刃でなく、面白い着眼点を示していることが多いことだ。それから、これはたまたまに過ぎないと思うが、哲学者を引用するのは女子学生に多い。これは私の勘繰りだが、彼女たちは、高校三年次文系理系を問わず必修科目でバカロレアでも同じく必修である哲学をかなり真面目に勉強したのではないかと思う。日本学科における他の授業で哲学の知識が役に立つことはほとんどない(と思う)が、私の授業ではそれが大いに役に立っているようである。これまでにも、アリストテレス、スピノザ、ライプニッツ、ルソー、カント、ニーチェなどを引用した小論文があった。もちろん、私はそれをとても嬉しく思っている。
 日本の高校で哲学が必修になる日が来るとはとても思えないが、もしそんな日が来るとすれば、それは日本の社会が大きく変わるときであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清「旅について」再読(下)―「未知なるもの」への旅、ノスタルジックな旅、「なつかしきもの」への旅

2021-05-08 10:11:46 | 読游摘録

何故に旅は遠いものであるか。未知のものに向つてゆくことである故に。日常の經驗においても、知らない道を初めて歩く時には實際よりも遠く感じるものである。假にすべてのことが全くよく知られてゐるとしたなら、日常の通勤のようなものはあつても本質的に旅といふべきものはないであらう。旅は未知のものに引かれてゆくことである。(『全集』三四五頁)

 この箇所を今回あらためて読んだとき、ドイツ語の Sehnsucht のことをすぐに思い出した。この語についての nostalgie との若干の比較的考察は二〇一九年十一月二十四日から二十六日の記事に示してある。Nostalgie と古語「なつかし」との意味論的考察は、同年六月二十二日からやはり三日間連続で記事にしている。さらに、この三者の意味論的比較の粗描を同年十二月六日の記事に示した。
 それらの考察を勘案するとき、旅は、その動機において、以下の三態を区別することができるのではないかと思い至った。これ以外の態もありうるであろうが、この記事では三態に限定して話す。
 上掲の引用に見られる「未知のもの」へと向っていく旅は Sehnsucht(憧憬)に突き動かされた旅と言うことができるだろう。それに対して、決定的に失われてしまい、そこに戻ることはもはや二度とできないと知りつつ、それでもなお自分がそこから来た場所へと回帰したいという実現不可能な願望に突き動かされて始めてしまうノスタルジックな旅もあるだろう。そして、いつまでもそこにいたい、その人あるいはそのものの傍にずっといたいという止み難い「なつかし」の感情に突き動かされてそこへと戻るための旅もあるだろう。つまり、旅は、その動機において、未知を求める旅、ノスタルジックな旅、「なつかしきもの」への旅という三つのカテゴリーに分けることができるのではないかと思うのである。
 他方、一人旅、二人旅(恋人、伴侶、親友、愛人など)、家族・仲間たちとの旅という、形態的な分類も可能であろう。それらと上掲の三つのカテゴリーの組み合わせを考えれば、旅の諸相をより明確に弁別することができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清「旅について」再読(上)

2021-05-07 23:59:59 | 読游摘録

 三木清の『人生論ノート』(新潮文庫)は二十三篇のエッセイからなっているが、最後に付録として収められた若書きの「個性について」(大正九年)を含めて、「旅について」以外の二十二篇についてはすべて初出誌が後記に明示されており、執筆時期も自ずと特定できる。ところが、「旅について」だけは三木自身による執筆時期等についての説明がなく、岩波版第二次全集の桝田啓三郎による後記にも「不詳」とあるだけで、いつ書かれたのかわからない。創元社版(昭和十六年八月刊)の後記には昭和十六年六月二日とあるから、それ以前であることは間違いない。
 いかにも若書きの気負ったスタイルで書かれた「個性について」は別として、「旅について」以外の文章のスタイルはほぼ同様だが、「旅について」だけスタイルが違う。一段落が長く、段落間に空白がなく、論述もそれだけ持続的で密度が高く、それ以外の二十一篇のエッセイにしばしば見られる断章的な飛躍が少ない。その分、論脈は追いやすい。それらの諸篇に対するひとまずの結論としても読むことができるように思える。三木がこのエッセイを『文學界』に連載れた諸篇と同時期に書いたとすれば、執筆時期は四十代の前半である。
 最初にこのエッセイを読んだのは高校二年か三年のときだったと思う。受験勉強のために続けていた通信添削の現代国語の問題の本文として使われていた。全文ではなかったと思う。その後、いつか忘れたが、そう時をおかずに新潮文庫版で全文読んだはずである。そのときは、まだ自分自身の経験としては旅を知らなかったから、そこに書かれた旅についての省察への共感というより、旅というものへの漠たる憧れとともに読んだ記憶がある。それから四十年以上経って、今回は演習のためとはいえ、これが何度目かはもうはっきりしないが、あらためて読み返し、自ずと別の感懐が湧いてきた。

人生は遠い、しかも人生はあわただしい。人生の行路は遠くて、しかも近い。死は刻々に我々の足もとにあるのであるから。しかもかくの如き人生において人間は夢みることをやめないであらう。我々は我々の想像に從つて人生を生きてゐる。人は誰でも多かれ少かれユートピアンである。旅は人生の姿である。旅において我々は日常的なものから離れ、そして純粹に觀想的になることによつて、平生は何か自明のもの、既知のものの如く前提されてゐた人生に對して新たな感情を持つのである。旅は我々に人生を味はさせる。あの遠さの感情も、あの近さの感情も、あの運動の感情も、私はそれらが客観的な遠さや近さや運動に関係するものでないことを述べてきた。旅において出會ふのはつねに自己自身である。自然の中を行く旅においても、我々は絶えず自己自身に出會ふのである。旅は人生のほかにあるのでなく、むしろ人生そのものの姿である。(『三木清全集』第一巻、岩波書店、一九八四年、三四七‐三四八頁)

 この意味での旅を知らなければ、人は人生を半分しか、いやそれ以下しか生きていないことになるのだろうか。私はこれまでどれだけ旅をしてきただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


五月雨 ― 二人の関係よりも根源的なものの具体的形象の自覚

2021-05-06 11:59:59 | 講義の余白から

 五月雨(さみだれ)は「陰暦の五月ごろに降る雨。何日も降り続く梅雨の雨。」だから西暦の五月に降る雨は五月雨ではない。ましてや概して天気がいいはずのフランスの五月に降る雨は「さみだれ」ではない。でも、そう呼んでみたくなるような雨が今朝から降っていた。
 明日の「Langue japonaise avancée」(直訳すれば「上級日本語」となるのだけれど、「上級」じゃないんだよね、現実は。「アヴァンセ」じゃなくて、せいぜいそれなりに「ガンバッテマッセ」というところくらいかな)の授業で、この「五月雨」を「美しい日本語の贈り物」第三回として紹介する。
 ついでだからといって、「五月雨式」は紹介しない。だって、いい意味じゃないでしょ、この表現。「同じことが、いつ終わるともなくだらだらと繰り返し行われること。また、そのようなやり方」(『新明解国語辞典』第八版 2020年)って、誰が使い始めたのか知らないけれど、「さみだれ」というせっかくこんなにも美しい響きの言葉をそういう意味で使うって、どういう神経よ、って、そいつの胸ぐらを掴みたい気分である。
 そのかわりといってはなんだが、「さみだる」という動詞を紹介する。現代語としてはもう使われないが、古語としては美しい用例がある。『和泉式部日記』の中の「宮」から「女」への歌。

おほかたにさみだるるとや思ふらむ君恋わたる今日のながめを

 「あなたはこの雨を普通と変わらない五月雨と思っているのでしょうか。あなたを恋い続ける私の涙であるのを」(近藤ゆき訳注『和泉式部日記』角川ソフィア文庫)
 降り続けている五月雨を我が嘆きの涙として詠んだ歌を「宮」から贈られて、「女」はそれに感応して返歌を詠む。

しのぶらんものとも知らでおのがただ身を知る雨と思ひけるかな

 「あなた様が心のうちで思って下さっている涙の雨とも知らずに、ただもう、愛されない我が身を思い知らせる雨とばかり思いこんでおります。」(同訳注)
 同じ五月雨を眺めていながら、それが「女」には我が身の上を思い知らせる雨に見える。五月雨は二人を繋ぐものでありながら、二人を遠く隔てるものでもある。
 この歌のやりとりを読んでいて、三木清の「希望について」の次の一節が思い合わされた。

愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いわばその間にある。間にあるというのは二人のいずれよりもまたその関係よりも根源的なものであるということである。それは二人が愛するときいわば第三のものすなわち二人の間の出来事として自覚される。しかもこの第三のものは全体的に二人のいずれの一人のものでもある。

 五月雨は、この「二人のいずれよりもまたその関係よりも根源的なもの」の自覚の具体的形象にほかならないのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


希望は生命の形成力にほかならない ― 三木清「希望について」より

2021-05-05 23:59:59 | 講義の余白から

 今日が修士一年の演習の後期最終回でした。この後期はずっと三木清の『人生論ノート』を読んできたのですが、今日読んだのは「希望について」と「旅について」でした。後者については、時間が足りなくて、二三箇所私が気になるところを指摘したにとどまりました。それだけ「希望について」に対する学生たちの反応が活発だったということなのです。
 このエッセイも構文的にはとても平易で、学生たちの訳も概ね良くできており、その点特に問題にすべき箇所はほとんどありませんでしたので、内容的にちょっとわかりにくいところ、大切なことが言われているところにかぎってテキストを見ていきました。それらの箇所についてまず私の方から学生たちに質問し、それに対する彼らの回答を受け、それらにコメントし、ついで彼らからの質問を受け、それに私が答える、あるいは答えのヒントになる別のテキストに言及したりしながら、読み進めていきました。
 例えば、次の段落は学生たちからの反応がもっとも活発でした。それだけ彼らの心にも響くものがあったようです。

 愛もまた運命ではないか。運命が必然として自己の力を現わすとき、愛も必然に縛られなければならぬ。かような運命から解放されるためには愛は希望と結び付かなければならない。

 表面的に読めば、愛もまた運命である、愛が運命から解放されるためには希望と結びつかなくてならない、となります。ところが、希望と結びついた愛が運命から解放されるとすると、第二段落第一文「希望は運命のごときものである」や第五段落の「運命であるからこそ、そこに希望もまたあり得る」などのテーゼと矛盾しているように思われます。これらのテーゼが、運命を受け入れて生きるからこそ希望することもまたありうるのだということを言おうとしているのだとすれば、上掲の段落で言われている「希望によって運命から解放された愛」というのはそもそもありえないのではないか、というのが私からの質問でした。
 学生たちからはそれぞれに一考に値する異なった読み方が提案されました。それらを勘案して、一応次のような解釈に落ち着きました。
 ここでの「解放される」は、運命から離れるとか自由になるという意味ではなくて、必然としての運命によって愛が縛られるとき、それでも愛がそのことを受け入れ、その束縛の中でなお持続するためには希望が必要だということである。そもそも希望なき愛などあり得るのだろうか。
 このエッセイを演習の最終回にもってきたのは意図的でした。今とても困難な状況に置かれている彼らとこのエッセイを一緒に読むことを通じて、以下のようなメッセージを彼らに伝えたかったのです。
 三木清が言うように、希望は、欲望でも目的でも期待でもない。希望は生命の形成力そのものである。私たちは生きているかぎり、希望する存在なのだ。個々の具体的な希望は実現に至らないことも、失望に終わることもあるだろう。運命の重圧におしひしがれて前に進めないこともあるだろう。しかし、そのことは私たちが希望する力を失ったことを少しも意味しない。生きているかぎり、私たちはいつもすでに希望しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「本来の姿」として「人間らしい」こととは ― 渡辺一夫『ヒューマニズム考 人間であること』

2021-05-04 16:50:20 | 読游摘録

 渡辺一夫の『ヒューマニズム考 人間であること』(講談社文芸文庫 2019年 初版は『私のヒューマニズム』というタイトルで1964年に刊行。本書の底本は『ヒューマニズム考――人間であること』講談社現代新書 1973年)の巻末の野崎歓氏による解説はこう結ばれている。

ポストヒューマンの時代の到来は押しとどめようがないと、だれもが考えがちないま、「無用なつぶやき」としてのヒューマニズム=ユマニスムをわれわれのうちで目覚めさせなければならない。その「無力らしく思われる心がまえ」に立ち返らないならば、人間の居場所はもはや決定的に失われかねない。そうなってしまわないためにもっとも大切なメッセージを、本書は「あなた」に向けて発し続けている。

 今日ヒューマニズムを擁護する本(の解説)を書くとしたら、ポスト・ヒューマニズムに何らかの仕方で言及することはほとんど避けがたいだろうから、この解説にこの言葉がこのように登場しても、それ自体は驚きではない。しかし、ここで言及されている「無用なつぶやき」としてのヒューマニズム=ユマニスムがどのようなものか知るためには、言うまでもないことだが、本書の本体を読まなくてはわからない。そしてそうすることで、ポスト・ヒューマニズムについて喋々としかけていた私は、ちょっと恥ずかしくなって俯いてしまった。
 といっても、非の打ち所がない議論に打ちのめされたというようなことではない。野崎氏も解説の冒頭で言っているように、「その文章は驚くほど平易でわかりやすい」し、ユーモアにも欠けていない。自分が生涯をかけて研究し、かつそれを生き方の基本に据えたことについて、このように読者に語りかけるようにやさしく書ける人はそう多くはないのではないかと思う。
 ルネサンス期の若い学者たちの間でどのようにしてユマニスムが生まれたかを語った一節を読んでみよう。

 一口にいって、ルネサンス期の若い学者たちが、当時の学問全般に、とくに神学に、こうした好ましくない傾向(些末な議論に淫すること=引用者注)が現れているのを感じ取って、「もっと人間らしい」学問にもどってほしいと叫んだのでした。したがって「人間らしい」ということは、このばあい、「哀れな人々に同情する。」とか、「人道的である。」とかいう意味ではありません。
 思想・制度・機械……など、人間がつくったいっさいのものが、その本来もっていた目的からはずれて、ゆがんだ用いられ方をされるようになり、その結果、人間が人間のつくったものに使われるというような事態に立ちいたったとき
「これでは困る。もっと本来の姿にもどらなければならない。」
と要請する声が起こり、これが、「人間らしい」ことを求めることになるのです。

 これがヒューマニズム=ユマニスムの原型であるとすれば、現代社会が直面する諸問題の原因の一つとして近代ヒューマニズムの行き詰まりを論うのはとんだお門違いだということになる。むしろユマニスムの起源の忘却こそ現代社会の危機的状況を招いた原因の一つだとさえ言いたくなる。この本来の姿としての「人間らしい」在り方は、人間のことを第一に考え、他のすべてをその下に置く人間中心主義とはまったく別のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ポスト・ヒューマニズムとしての「近代の超克」と「近代」の多義性

2021-05-03 23:59:59 | 講義の余白から

 今年度の講義もあと二週間を残すのみとなった。その後二週間の準備期間を与えて学年末試験を受けさせれば今年度の授業予定はすべて終了である。もっともその試験のあとに「楽しい」採点業務が待っているが、今からそのことを考えて溜息をついても仕方ないから、考えないようにしている。
 火曜日の「近代日本の歴史と社会」では、残りの二回で「近代の超克」について話す。1942年の座談会「近代の超克」を戦中日本の思想史の一齣として歴史的文脈に位置づけた上で、問題としての「近代の超克」を、十九世紀後半から二十世紀全体にかけて近代思潮史の広い思想的脈絡の中で読み直し、さらには二十一世紀に私たちが直面している困難な問題と関連づけて「近代の超克」問題のアクチュアリティにまで、駆け足にはなるが、説き及ぶつもりである。
 このような意図からまず提示するのが、鈴木貞美の大著『「近代の超克」その戦前・戦中・戦後」』(作品社 2015年)の冒頭の段落、つまり、序章「いま、何を問うべきか」「一、地球環境とグローカリゼーションのなかで」「1、ポスト・ヒューマニズム」の最初の段落である。

 今日、人類は、地球資源の枯渇への道をひた走り、また地球環境の汚染と破壊を招き、自分で自分の首を締めつつある。人類は自然環境なしに生きることはできず、他の生物とともに生き延びるしか道はない。人類が生き延びるには、西欧近代が生んだ人間中心主義による自然征服観と生産力主義から脱却し、自然環境と生物の生命の存続をはかるポスト・ヒューマニズム、その意味での「近代の超克」の立場に立たなくてはならないことは誰の目にも明らかになっている。その考えが一九七〇年代から国際的に合意され、今日ほどひろがった時代はない。だが、先進国と開発途上国の格差、途上国間の資源保有の問題などが絡み、「持続可能な発展」の名の下に、依然として、地球環境の汚染と破壊に対する歯止めはかかっていない。

 この段落だけを読むとき、「近代の超克」が「ポスト・ヒューマニズム」に同定されており、ヒューマニズムはほとんど人間中心主義の同意語のように見なされかねないという問題があるが、それはひとまず措いて、「近代の超克」問題は、戦中の思想史の暗い一頁の話題として済ませることのできない問いを今も私たちに突きつけるものであることをまずは学生たちに理解してもらいたい。
 その上で、座談会「近代の超克」に参加した十三人中十人が提出した論文の抜粋を読みながら、彼らの「近代」理解のばらつきをテキストに即して確認していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明治の女学生の「よ」と「てよ」の使い方について ― 柳田國男『毎日の言葉』と夏目漱石『門』

2021-05-02 23:59:59 | 日本語について

 柳田國男の『毎日の言葉』を読んでいると、各地方の方言についての柳田の該博な知識に驚かされる。現地に赴かずには確かめられないような細やかな違いについての詳細な記述からして、その多くは実際に現地で観察・採集・記録したものであろう。中には友人・知人・弟子たちなどから得た情報もあったかもしれないが、いずれにせよ、日本語の地域間の多様性、互いに離れた土地の間に見られる共通性、時代による変化などに柳田がどれほど深い注意を払っていたかが本書を読むとよくわかる。柳田自身が実際にその変化を目の当たりにした言葉遣いの変化についての記述も面白い。今ではあたりまえすぎてなんでそういうのかと改めて考えてみることもない表現や、今はすっかり失われてしまった言い回しなどについての柳田の考察はとても興味深い。
 本書の「知ラナイワ」と題された一文も面白く読んだ。
 明治の女学生が、明治のお婆様から笑われていたのは、アルワヨ・ナイワヨなどと、ワの後へわざわざヨをくっつけるからで、単に言葉のおわりにワを添えるだけならば、もう江戸時代にもあり、東京では珍しいことではなかったという。そこにどうしてまたヨをつけ始めたものか、「たぶんどこかの田舎から、おしゃべりの娘が携えてきたのでしょうが、その原産地もまだつきとめられておりません」と記しているところを読んで、思わず笑ってしまった。
 この一文のその後は、主にワの起源の探索に入るのだが、それは本文に譲るとして、ヨについて、ふと思い出したことを記しておきたい。
 夏目漱石の『門』の冒頭の宗介と細君とのやりとりは、漱石作品中私がもっとも好きな文章の一つだが、そこに次のような一節がある。

「あなたそんな所へ寝ると風邪引いてよ」と細君が注意した。細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。

 柳田が指摘しているヨの用法とはまた違う話だが、この宗介の細君が使う「てよ」についての、「東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている」という説明が前から気になっていた。明治末期(『門』の連載は明治四十三年)、ある程度以上の学校教育を受け、かつ必ずしも東京生まれとは限らないが、東京に在住している若い女性たちの間に現れた新しい言葉遣いということだと思うが、では、今日の日本語での「風邪引くわよ」とか「風邪引きますよ」に対応する、「現代の女学生」的ではない当時の女性的な言い方はどんなだったのだろうか。