内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

安堵感も解放感もない学年末 ― 対処療法としての「書く薬」と「歩く薬」、そしてもう一つ何か

2021-05-16 23:59:59 | 雑感

 一昨日の金曜日で今年度の授業はすべて終了。今後、教育に関する業務としては、来週行われる学期末試験の採点と月末締め切りのレポート評価、六月前半の学士小論文審査、中旬の修士論文の審査などが残っている。その他にも職務として今年度中にやるべきことはまだあるが、量的にはそれほどでもない。四年間務めたことになる学科長の職責も今年度が最後で、あと数ヶ月でお役御免となる。
 しかし、どういうわけか、安堵感も解放感もない。もちろん達成感などない。確かに、大学外での研究に関する予定と夏の集中講義の準備が気にかからないわけではない。九月からの新学年がどうなるのかも不透明なままだ。それにしても、灰暗色の雨雲が厚く垂れ込めた空ようなこの鬱たる気分はどこから来るのであろうか。昨年来のコロナ禍によって知らぬ間に精神が徐々に蝕まれているからだという説明も成り立たなくはないようにも思える。しかし、それはれ以前からあった問題を深刻化させる要因ではあっても、原因そのものではないと当の本人は考えている。あるいは、問題という言葉は適切ではないかも知れない。問題なら解決法を探すこともできる。そもそも問題として対象化し定式化することが難しい何か奥深いところにこの鬱たる気分の淵源はあるのだと思う。解消法は見当たらない。目を背けることもできない。
 差当り、気分をこれ以上悪化させないための対処療法で凌ぐほかない。その療法の一つは、このブログそのものであり、毎日書くことがそのまま療法になっている。その実効性はこれまでの八年間で実証済みだ。いわば「書く薬」である。もう一つは、以前は水泳であったが、先月からは早朝ウォーキングである。最近負荷を高めたことによる身体的効果が数値に現れてきた。そのことが毎朝気分を少し軽くしてくれる。いわば「歩く薬」である。
 あと一つ何かタイプの違う療法を探している。読書や映画鑑賞も悪くはないのだが、もっと体や頭を積極的にかつ負担にならない程度に動かすほうがより効果は高そうだ。料理はどうであろうか。食べる方ではなく作る方である。