内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清「旅について」再読(下)―「未知なるもの」への旅、ノスタルジックな旅、「なつかしきもの」への旅

2021-05-08 10:11:46 | 読游摘録

何故に旅は遠いものであるか。未知のものに向つてゆくことである故に。日常の經驗においても、知らない道を初めて歩く時には實際よりも遠く感じるものである。假にすべてのことが全くよく知られてゐるとしたなら、日常の通勤のようなものはあつても本質的に旅といふべきものはないであらう。旅は未知のものに引かれてゆくことである。(『全集』三四五頁)

 この箇所を今回あらためて読んだとき、ドイツ語の Sehnsucht のことをすぐに思い出した。この語についての nostalgie との若干の比較的考察は二〇一九年十一月二十四日から二十六日の記事に示してある。Nostalgie と古語「なつかし」との意味論的考察は、同年六月二十二日からやはり三日間連続で記事にしている。さらに、この三者の意味論的比較の粗描を同年十二月六日の記事に示した。
 それらの考察を勘案するとき、旅は、その動機において、以下の三態を区別することができるのではないかと思い至った。これ以外の態もありうるであろうが、この記事では三態に限定して話す。
 上掲の引用に見られる「未知のもの」へと向っていく旅は Sehnsucht(憧憬)に突き動かされた旅と言うことができるだろう。それに対して、決定的に失われてしまい、そこに戻ることはもはや二度とできないと知りつつ、それでもなお自分がそこから来た場所へと回帰したいという実現不可能な願望に突き動かされて始めてしまうノスタルジックな旅もあるだろう。そして、いつまでもそこにいたい、その人あるいはそのものの傍にずっといたいという止み難い「なつかし」の感情に突き動かされてそこへと戻るための旅もあるだろう。つまり、旅は、その動機において、未知を求める旅、ノスタルジックな旅、「なつかしきもの」への旅という三つのカテゴリーに分けることができるのではないかと思うのである。
 他方、一人旅、二人旅(恋人、伴侶、親友、愛人など)、家族・仲間たちとの旅という、形態的な分類も可能であろう。それらと上掲の三つのカテゴリーの組み合わせを考えれば、旅の諸相をより明確に弁別することができるだろう。