内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

爽快な夏の光と風の中、複数の異なった思考様式の網状化が脳内で始まる、あるいは美の経験 ― 夏休み日記(5)

2017-07-21 17:30:00 | 哲学

 今日は、晴れ時々曇り。朝方は17度と、半袖で自転車に乗るとちょっと肌寒かった。日中の最高気温は28度。湿度は40%台。
 ちょうど一週間後の来週金曜日、日本に発つ。到着は翌日29日土曜日。例年に比べて、滞在期間が二週間ほど短くなってしまった。九月の新学年からの学科長としての仕事をできるだけスムーズに開始するために七月中にやれるだけのことはやっておこうと、出発を集中講義開始直前まで遅らせたからである。
 今日、新学年の準備として日本に発つ前にできることはほぼすべて終えた。集中講義の準備も東京に着いてからするよりもこちらでしたほうが捗る。あと一週間、集中的に準備できる。
 昨日の記事で話題にしたシモンドンの MEOT(=Du mode d’existence des objets techniques)の第三部第二章第一節に 「レティキュラシオン réticulation」 という言葉が出て来る。これは、写真に詳しい方なら、レチキュレーション(現像処理中に乳剤膜表面に細かい網目状のしわが発生する現象、またはそのしわ)のことかと直ぐに思われたであろう。しかし、シモンドンは、有機化学における(高分子の)網状化(橋架け結合の導入によって三次元網目構造の重合体が形成される現象)を念頭に置きながら、この語を美的思考の特性の記述に応用している。

La destinée de la pensée esthétique, ou plus exactement de l’inspiration esthétique de toute pensée tendant à son achèvement, est de reconstituer à l’intérieur de chaque mode de pensée une réticulation qui coïncide avec la réticulation des autres modes de pensée : la tendance esthétique est l’œcuménisme de la pensée. 〔p. 181 (2001) ; p. 250 (2012) 〕

 一昨日は Pierre Kerzberg, L’ombre de la nature、昨日は Otto Pächt, Questions de méthode en histoire de l’art、今日は Georg Simmel, Rembrandt, Circé, 1994 を読みながら、私の脳内でそれらの異なった思考様態それぞれの内的「網状化」が発生し、それに引き続いてそれらの思考様式の網状化がシモンドンの思考様態そのものの網状化を媒介として互に照応し始めていることに今日気づいた。目には見えない思考様態のレティキュラシオンがこの私において発生していることに、今、静かな興奮を覚えている。
 これは、まさに、一つの美の経験である。












驟雨が運んで来る涼風に吹かれながら、シモンドンとともに美的現実について考える ― 夏休み日記(4)

2017-07-20 19:26:53 | 哲学

 今日は、昨日の猛暑から一転して、日中幾度か驟雨が樹々の葉を濡らし、涼風が窓前の庭木を吹き抜ける過ごしやすい一日でした。
 夕刻、ストラスブールのアパルトマンをこの夏に引き払う日本学科の名誉教授宅に、不用になった木製の椅子と小机、食器などをいただきにあがりました。ご本人はすでにブラジルにヴァカンスに出かけており、ご主人が私を迎えてくれ、私の自宅まで自家用車でいただいた荷物を運んでくださいました。
 日中は、今日もシモンドンの Du mode d’exitence des objets techniques を読んでいました。第三部 « Essence de la technicité » 第二章 « Rapports entre la pensée technique et les autres espèces de pensée » が私にはすこぶる面白い。特に、第一節に出てくる、宗教と技術との統合組織化を可能にするものとしての la réalité esthétique という見方は、私が関心を持つ他の様々な思想をそれに関連づけて全体として一つの視角の中でそれらを捉えることを可能にしてくれそうで、ワクワクしながら読んでいます。
 例えば、今日届いた本 Otto Pächt, Questions de méthode en histoire de l’art, Macula, 1994 の中に展開されているパノフスキーの図像解釈学に対する痛烈な批判(« Les limites de l’iconographie », p. 89-94 ; « Amour sacré ? Amour profane ? », p. 113-118)は、シモンドンが主張する「美的現実」という概念によっても根拠づけられると考えることができそうです。












猛暑の中の布団干し・シエスタ・シモンドン ― 夏休み日記(3)

2017-07-19 18:55:21 | 雑感

 今日もよく晴れたとても暑い一日でした。朝7時にプールに着いたときに気温はすでに20度を超えており、日中の最高気温は35度に達しました。
 この好天を利して、昨日に引き続き、布団を干しました。これが、実は、一苦労なんです。というのも、日本の普通の布団と違って、サイズがセミダブルで、厚さも二十センチくらいあり、綿がぎっしり詰まっていて、めちゃくちゃ重いんです。計ったわけじゃないけれど、40キロ近くあるんじゃないかなあ。二つに折りたたむだけでも、まるで柔道の寝技みたいに全体重を掛けなければならず、それを抱えて持ち上げてベランダまで運ぶのは、私のような非力な人間にはかなり難儀で、途中でよろけて転けそうになりました。
 でも、よく晴れた空の下、湿度30%台の大気の中で数時間干したおかげで、布団は太陽の匂いをたっぷり吸い込んでとても気持ちよくなりましたから、苦労の甲斐があったというものです。
 布団を干している間、畳の上で小一時間昼寝をしました。やっぱり昼寝は畳の上に限りますよ。最近では日本でさえ畳の間のない住居が多いそうですが、もったいない話だなあと私は思います。
 昼寝のおかげですっきりした頭でシモンドンのテキストを読み続けました。なんか相性がいいんですかね、シモンドンのテキストはよく頭に入って来ます。テキストを前にすると、自ずと集中できるし、読むのが楽しい。私は普段読むのがめちゃくちゃ遅いのですが、他のテキストを読むときと比べれば、シモンドンのテキストは相対的に速く読めます。まあ、といっても、蝸牛より亀の方が速いというくらいの違いですが。
 今日届いた Pierre Kerszberg, L’ombre de la nature, Cerf, 2009 には、シモンドンに言及している箇所が一つあります。そこでの主題は、自然の中に再び機械的なものを自然そのものに内在的な契機として統合する現代哲学の流れであり、その一例としてシモンドンが出てきます。このテーマは、三木清の『構想力の論理』のそれとも重なるところであり、集中講義で扱うべき重要事項の一つです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夏空の下で読むシモンドン ― 夏休み日記(2)

2017-07-18 18:06:46 | 哲学

 今日は夏休みに相応しい良い天気でした。日中の最高気温は30度を超えました。
 朝はいつものように近所の市営プールで七時から小一時間泳ぎ、その後は日がな一日、Gilbert Simondon, Du mode d’exitences des objets techniques, Aubier の1989年版を読んでおりました。もっとも、その合間に大学関係の仕事のメールを処理したりしていたので、ずっと読書に集中できたわけなはないのですが、それでも今日はかなりの「収穫」がありました。
 手元には、同書の1989年版と同一の版組の2001年発行版と2012年刊行の改訂新版とがあります。両者の間には、活字・版組・頁付に違いがあるだけでなく、後者には、シモンドンが初版に書き込んだ注解や付加などが取り込まれており、特に重要と新版編者であるシモンドンの奥さんによって判断された付加は脚注に示されているという重要な違いがあります。さらに、前者には、カナダの西オンタリオ大学の John Hart による序文が巻頭に置かれているのに対して、後者では、この序文が削除され、その代わりに、シモンドン自身が本書の初版(1958年)刊行時に書いた短い内容紹介が巻末に置かれています。
 シモンドン研究で本書を引用する場合、現在はこの2012年版に依拠すべきなのですが、この新版刊行以前のシモンドン研究は当然旧版に拠って引用しており、しかも両版にはかなり頁数に違いがあるので、両版を持っていたほうが参照の際には便利なのです。幸いなことに、旧版を十数年前に買ってあり、ずっと東京の元実家に置きっ放しにしてあったのですが、昨年末から今年のはじめに帰国した際にこちらに持って来ました。
 現代哲学において人間的現実を総合的に考えるとき技術的対象の価値の認識がきわめて重要な問題になるというシモンドンの哲学的立場がよく表れている一文を « Introduction » から引用して、今日の記事の〆といたします。

La prise de conscience des modes d’existence des objets techniques doit être effectuée par la pensée philosophique, qui se trouve avoir à remplir dans cette œuvre un devoir analogue à celui qu’elle a joué pour l’abolition de l’esclavage et l’affirmation de la valeur de la personne humaine.

Op. cit., p. 9.












本人の本人による本人のための雑記帳 ― 夏休み日記(1)

2017-07-17 12:29:13 | 雑感

拝啓

 皆様にあられましては、時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。

 さて、拙ブログは、本日から約一ヶ月間、「夏休み日記」モードになりますことをここに謹んでお知らせ申し上げます。
 折々のど~でもよい身辺雑記や読んだ本の引用だけ(仏語の場合、和訳なし)でお茶を濁す場合も含めて、ごく短い記事になる、ということでございます。普段、かたじけなくも拙ブログに一瞥を与えてくださっている方々にとって、まったく面白くもな~んともない、ただ書いている本人の本人による本人のための自己満足的雑記帳・備忘録になります。
 あっ、そ、じゃ、勝手にすれば、と、どうぞお見捨てになっていただければ幸甚に存じます。ブログを一日も休まないということを原則にしている本人が自分のために勝手に投稿しているだけのことでございます。もっとも、当の本人は、ブログも水泳も、「継続は力なのだ!」、と、一人で力んでおりますが、憫笑するほかございません。

 末筆ではございますが、皆様方にあられましては、いずこにいらっしゃられても、どうぞ良き夏休み或いは平安な一夏をお過ごしくださいますよう、心よりお祈り申し上げます。

敬具












歴史的運命が人類に課す精神的共同体の建設 ― レイモン・アロンから引き継ぐべき問い

2017-07-16 16:53:28 | 哲学

 その人の主張・信条・思想に同意するか否かは別として、その人の言うことに注意深く耳を傾け、そこに提起されている問いとそれにその人が与えている答えとについて私たち自身が身をもって真剣に考え、私たちがその中で生きている時代状況とその中での自身の立ち位置とを自覚しつつその問いと答えとを批判的に検討し、場合によっては、その答えに替わる私たち自身の答えを探求し表明すべき、あるいは、少なくともその問いを私たち自身の問いとして引き受けて考え続けるべき、あるいは、問い方そのものを変えるべきだとその読解作業を通じて私たちに気づかせてくれる、そういう内実を具えた文章は、幸いなことに、古来、無数にある。
 そのような文章を書いた人たちの名は、哲学者、思想家、歴史家、宗教家、科学者、政治家、芸術家、作家、詩人などなど、様々な範疇の下に喚起されることだろうが、そのようなレッテル付けが適切かどうかはさしあたり問題ではない。要は、私たちがそれらの文章を読んで、それらに感応し、自ら考えるかどうかである。
 例えば、個人の自由に基礎を置いたその政治的自由主義の哲学はもう過去のものだとされるレイモン・アロンが1960年に発表した « L’aube de l’histoire universelle » の中の次の一節に提起されている問題に現代の私たちはもう答えを出しているとは到底言えないだろう。

Ce qui sépare le plus les hommes les uns des autres, c’est ce que chacun d’eux tient pour sacré. Le païen ou le juif qui ne se convertit pas lance un défi au chrétien. Celui qui ignore le Dieu des religions de salut est-il notre semblable ou un étranger avec lequel nous ne pouvons rien avoir de commun ? C’est avec lui aussi que nous aurons à bâtir une communauté spirituelle que tend à créer l’unité de la science, de la technique, de l’économie, unité imposée par le destin historique à une humanité plus consciente de ses querelles que de sa solidarité. »

Penser la liberté, penser la démocratie, Gallimard, coll. « Quarto », 2005, p. 1806-1807.

人間同士を互にもっとも分け隔てているのは、それぞれの人間によって神聖なものとされているものだ。キリスト教へと回心しない異教徒あるいはユダヤ教徒はキリスト教徒に対立する。救済の宗教の神を知らない人たちは、私たちの同胞なのだろうか、それとも、私たちとは何ら共有すべきものをもたない異人なのだろうか。しかし、そのような異人とこそ、科学・技術・経済の統一体の創出を目指す精神的共同体を建設しなくてはならないだろう。その統一体は、連帯よりもその諸々の闘争に対して自覚的な人類に歴史的運命によって課された統一体である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



遙かなるヴァカンス、あるいは夏休みの哲学 ― 歴史家的思考についての批判的考察

2017-07-15 19:27:57 | 哲学

 九月からの新学年の準備として七月中にやっておくべきことがまだいくつかあり、今月末からの東京での五日間の集中講義の準備もあり、まだまだまったく夏休みどころではありません。まわりの空気はもうすっかりヴァカンス・モードなのに、どうして私だけこうなの、悲しい... などと愚痴っている暇さえありません。
 というのはやはり言い過ぎで、それくらいの暇はあるばかりでなく、時には息抜きにドライブしたり、サイクリングしたり、レストランで食事するくらいの時間はあります。それに、日課の水泳も、故ヘルムート・コール元ドイツ首相の追悼行事が欧州議会で挙行された七月一日にいつものプールが臨時休業だった後は、今日まで二週間毎日続けています(なあんだ、結構暇あるじゃんなどと仰られませんように)。
 さて、普段の講義の準備、研究発表、学内外の雑用がないこの時期だからこそ実行できる思考モードがあります。哲学に夏休みはありませんが、夏休みの哲学はあるのです。それはどんなものかというと、ある基礎的問題に関して集中的に関連文献を読み、今後の講義・演習・研究発表等で考察・検討するであろう個別的諸問題をその上で考えるべき思考の土台を固める作業です。
 この夏のテーマは、歴史家的思考と歴史的事実についての哲学的考察です。フーコーを読んでいるのもそのためですが、その他の文献として今机の上に積まれているのは、レイモン・アロン、ラインハルト・コゼレック、ミッシェル・ド・セルトー、ジャック・ル・ゴフ、ジョルジュ・デュビ―、ピエール・ノラ、フェルナン・ブローデル、アンリ=イレネー・マルーなどの著作です。それらを読んでいると、そこに引用されている文献にもちょっと目を通さねばと、いくら読んでもきりがないのですが、もちろんそれらすべてを通読するわけではなく、中には背表紙を眺めているだけ、なんていうのもあります。それでも、それらの本が机の上のいつでも手の届くところにあることが、精神的な重圧として迫ってくるばかりでなく、読み続けるための心の支えにもなっています。
 今回これらすべての文献を読んでいくためのいわば道案内役になっているのが、拙ブログの一月二十七日の記事で紹介した Nikolay Koposov, De l’imagination historique, Éditions EHESS, 2009 です。
 本書の考察対象は、歴史家に固有な思考です。歴史についての思考でもなく、歴史哲学でもないのです。より詳しく言えば、歴史家がまさに歴史家として仕事をしているとき、つまり、「歴史的事実」を「実証的に」構築しているとき、その作業が無意識のうちに前提している基礎概念、思考様式・世界像が本書の考察対象です。これらの考察対象は、歴史家たち自身によってそれらに対する反省的思考が意識的にかちゃんと自覚されないままに排除されているからこそ、歴史家的思考を根本的に問い直すために批判的に検討されなくてはならないと自身歴史家である著者は考えているのです。
 1960年代のフランス社会史を二分した歴史的カテゴリーに関する議論を出発点として、多数の大歴史家たちそれぞれの立場を検証しながら、上記の対象についての細密な考察が展開されています。固有名詞に関しては、言語哲学・分析哲学の分野での同問題のかなり専門的な議論を援用しながら、相当に込み入った分析を行っていたりと、全体としてかなりタフな内容で、けっして読みやすい本ではありません。
 しかし、歴史とは何か、という根本的な問いは、歴史家にだけ関わりのある専門的な問題ではなく、哲学者たちが歴史的事実から離れて概念的に論ずればよいだけの純理論的な問題でもなく、歴史の中に生きる私たちすべてに関わりのある問題である以上、私もまたこの問題を避けて通ることはできません。重く大きな問題ですが、背負い甲斐のある問題でもあると言うことができます。
 この問題を、なかば歴史家たちの意に反して、徹底的に考えていく道程の一つを、歴史家の社会的責任において、本書は勇敢に提示しているのです。












悪魔よりおぞましいことができる人間 ― シュトリュットホーフ強制収容所訪問記

2017-07-14 22:25:16 | 雑感

 よく晴れた青空から注ぐ夏の陽射しの熱と高原を吹き渡る微風の涼とを肌に感じながら、第二次世界大戦中現在のフランスの国土に存在した唯一の強制収容所であるシュトリュットホーフ強制収容所を昨日訪れた。これで六度目か七度目になる。人をアルザスの観光に誘う度に、本人が同意した場合に限って、私はその人をここに連れて行く。
 1941年5月に起工されたこの収容所は、もちろん当時のフランス国家によってではなく、その前年にドイツ占領下に入ったアルザス地方にドイツ第三帝国ナチス体制下、そこに収容される囚人たち自身によって建てられた。1944年11月にアメリカ軍がこの収容所を発見するまでに、およそ二万人の囚人がこの収容所内あるいはその周辺の付属収容所で命を奪われた。収容所から二百メートル下ったところにはガス室もあった。
 収容所の敷地はそのまま保存され、当時囚人が収容されていた建物の一部は、内部が展示室として改装されている。死体焼却炉があった建物も囚人の人体解剖が行なわれた手術室も内部を見ることができる。ガス室も内部を見学できる。
 昨日は、ちょうどガイドが案内を始める時間に着いたので、以前の訪問では知ることのできなかった事実もそのガイドから聴くことができた。
 収容所が建設される前はスキー客で賑わう冬のリゾート地であったこの美しい高原に佇み、周囲の緑の山並みから視線を眼下の収容所に転ずる度に私は思う。悪魔を己の想像力で生み出すことができた人間は、その悪魔よりもおぞましいことを、同じ人間に対して、或いは他の生き物に対して、平気で或いは正気で、できることを。












真理志向型の自己への配慮から現実志向型の自己の解釈学へ ― 古代ギリシャ・ローマ社会から中世キリスト教社会への転回

2017-07-13 00:22:16 | 哲学

 トロントでの第四講演では、このローマ帝政期の自己関係に、四・五世紀のキリスト教世界に現れる最初の修道的共同体内に見られる自己の解釈学が対置される。
 古代末期から中世初期に現われるこの新しい主体形成の様態を規定するために、フーコーは、二つのタイプの禁欲的態度を区別する。「真理志向 truth-oriented」型と「現実志向 reality-oriented」型との二つである。
 真理志向型の禁欲的態度は、古代社会における自己の文化に特徴的であり、その目的は、真理の探求とその獲得・吸収を通じて、主体が自分自身に対して所有と支配の関係を確立することにある。このような目的の性格を、フーコーは、「エトポエティック éthopoétique」と呼ぶ。プルタークの êthopoiêsis に依拠して用いられたこの語は、「道徳的態度を形成し、変容させる」というほどの意味である。そして、自己自身に対する所有と支配の関係の確立によって、主体は、世界に立ち向かう備えができる。この禁欲的態度において、真理は目的であり且つ手段である。フーコーは、この態度を「真理志向」的と呼ぶ。
 古代社会に特徴的なこのような真理志向型の禁欲的態度に対して、初期キリスト教共同体内に形成されていく現実指向型の禁欲的態度は、「メタノエティック métanoétique」な機能を有している。ギリシャ語 metanoia を語源とするこの語は、「魂の全面的な方向転換」を意味する。というのも、そこでの目的は、自己自身を変容させることによって、この世的なものを放棄し、別の世界と永遠の生へと至ることだからである。このキリスト教的禁欲は、一つの現実から別の現実への、死から生への、一種の「通過儀礼」であり、それは真正の生への現実的な途である見かけ上の死を通じて実行される。この意味で、それは「現実志向」的だと言われている。
 規定の仕方にいささか無理があるように思えるこれら二つの表現「真理志向」「現実志向」は、以後、フーコー自身によって再び用いられることはなかった。
 それはそれとして、古代社会における自己の文化と初期キリスト教共同体における自己の解釈学との間に、西洋精神史における自己の自己に対する関係の形の決定的に重要な変化をフーコーが見ていることは確かである。













簡潔な言表において不可分な統一体をなす知と意志

2017-07-12 11:16:35 | 哲学

 フーコーは、古代ギリシャ都市国家におけるソクラテス・プラトン的自己への配慮とは異なる自己への関係の新しい形がローマ帝政期に現われたことを示した。この新しい主体性の形は、聴解・書記・都市から離れた田園への退去などの実践と、災厄の予見・節制・表象の絶えざる吟味・死の瞑想などの一連の修練とを通じて形成されていく。このような様々な実践と修練の目的は、単に真理を獲得するだけではなく、それを体得することにある。そうすることではじめて真理は己の行動の恒常的な基礎と指針とになりうる。
 これらの実践と修練とからなる自己への配慮の中で、自己知は副次的な位置を占めるに過ぎない。自己知の役割は、私たちが真なる諸言説を獲得し、それを己の内に統合化し、それらによって己を変容させるプロセスをコントロールすることである。コントロールするとは、そのプロセスを意識化し、計測し、それと同時に、そのプロセスを強化し、促進させることだとフーコーは言う。
 第四講演の中で、フーコーはそれに付け加えて、「そこでの問題は、現実の自己を真なる言説の中に立ち現れさせることではなく、真理の恒常的にコントロールされた習得によって真なる言説が自己を変容させるようにすることだ」という(フーコー前掲書、124頁)。
 このような自己知を、フーコーは、1980年のカリフォルニア大学バークレー校とダートマス大学で行った講演の中では、「グノミック gnomique」と呼んでいる。その意味は、「格言・箴言・宣告のように簡潔な形式で言表される」ということである。しかし、この形容詞の基になっている「グノメー gnômê」について、フーコーは、ダートマス大学での講演で次のようにさらに厳密な規定を与えている。

Le terme gnômê désigne l’unité de la volonté et de la connaissance ; il désigne aussi une courte phrase par laquelle la vérité apparaît dans toute sa force et s’incruste dans l’âme des gens. Donc, nous pouvons dire que, même aussi tardivement qu’au premier siècle après Jésus-Christ, le type de sujet qui est proposé comme modèle et comme objectif dans la philosophie grecque ou hellénistique ou romaine est un soi gnomique, où la force de la vérité ne fait qu’un avec la forme de la volonté.

L’origine de l’herméneutique de soi, Vrin, coll. « Philosophie du présent », 2013, p. 50.

グノメーという語が示しているのは意志と知の統一です。この語はまた、真理がそのまったき力の中に現われ、人々の魂の中に象嵌されるような短い文を指します。それゆえ、紀元後一世紀という後期になっても、古代ギリシャ・ヘレニズム・ローマ時代の哲学においてモデル・目標として提示された主体のタイプとは、グノミックな自己であり、その自己においては、真理の力と意志の形とは一体をなしているのです。