今日(10日火曜日)は朝五区のアンリⅣ世校に隣接するプールに行く。もう朝晩の冷え込みはかなり厳しく、利用客は少ないかと期待したが、意外にも開門の七時前にすでに二十人近く集まっていた。泳ぎ始めてからも、入場者は増え続け、一時的に一コースに十数人もいて、これではとてもまともに泳げたものではない。しかし、なんとか2000メートルは泳いだ。
今日もまた井筒俊彦を読み続けた。今日の記事のタイトルに示されているのは、井筒俊彦が岩波の『思想』一九八七年一月号に寄せたエッセイ。昨日紹介した『読むと書く 井筒俊彦エッセイ集』に収録されている。わずか五頁の短い文章だが、深い学殖に裏打ちされ、鋭い哲学的洞察が随所に煌めき、繊細な言語感覚に貫かれた秀逸な哲学的エッセイである。
ギリシア語の動詞「ランタノー」(「今まで気づかなかった」という意味でよく使われる)の使用法に日本人として感じる違和感から説き起こし、その動詞とギリシア語で真理を意味する「アレーテイア」との関係に説き至り、アリストテレスの哲学の起点にある「気づき」は「本質直観」にほかならないとする。そこから、日本語の助動詞「けり」の用法に話題が転ずる。この助動詞には、一般に〈過去〉〈はじめて何かに気づく〉〈詠嘆〉の三つの意味があるとされるが、井筒は、それらが「気づき」の「過去性において有機的に一体化して」おり、この「多重的意味構造が助動詞の形で文法的に定着している事実それ自体」が、「気づき」体験がいかに昔の日本人にとって重みを持つものであったかを物語っていると言う。そして次のように議論を展開する。
「気づく」とは、存在に対する新しい意味づけの生起である。一瞬の光に照らされて、今まで意識されていなかった存在の一側面が開顕し、それに対する主体の側に詩が生れる。「気づき」の対象的契機がいかに微細、些細なものであっても、心に沁み入る深い詩的感動につながることがあるのだ。蕉風の俳句にそれが目立つ。人口に膾炙した「山路来て」「薺花さく」「道の辺の木槿」をはじめ、その例は無数。このような、ふとした「気づき」の累積を通じて、存在の深層を探ってゆくのである。(『読むと書く』434頁)
この引用箇所の直後に、ギリシア哲学における「気づき」が「原因と本質の対象化的探求」に向かうものであったのに対比して、日本の詩人の場合の指向性について、井筒特有の語彙による飛躍的考察が披瀝される。そしてその段落をこう結ぶ。
「気づき」は、日本的意識構造にとって、その都度その都度の新しい「意味」連関の創出であり、新しい存在事態の創造であったのである。(同書435頁)
私には、この「気づき」が日本的意識構造に特有のものだとは考えられないが、上記の三重の意味を込められた「けり」という助動詞が、たった一語で一つの存在了解の形式を表現しているとは言えるだろうと思う。例はそれこそ無数にあるが、西行の有名な次の一首を見てみよう。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山(新古今和歌集・羇旅歌九八七)
三十歳の頃に平泉に一度旅した時に越えた「小夜の中山」を、およそ四十年後に再び訪れることになり、その同じ場所をそれだけの時を隔てて、そのような日が来るとはこれまで思っても見なかったのに、こうして年老いて再び越えゆくことができることそのことを〈命〉そのものと受け取っているのである。助動詞「けり」によって、今までずっと生きてきた自分の生涯がまさに〈命〉としてはじめて有り難く了解され、そのことに深い感動を覚えていることが見事に表現されている。この一首がこのように詠まれることによって、「小夜の中山」という世界内のある一つの場所に自分が有ることが、新しい存在事態として了解されたのであり、その意味でこれを詩的「創造」と呼ぶことに何のためらいも必要ないであろう。