内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

一つの引用をきっかけに、鬱蒼たる哲学的思索の森の中に迷い込み、そこで宝玉を見つけた喜び

2019-03-01 19:20:28 | 哲学

 当日まで二週間を切った研究発表の原稿はこの週末に一気に書き上げるつもりで、その下準備として、先週の冬休み中にミッシェル・アンリとメルロ=ポンティの著作をあれこれ読み漁っていたのだが、 « communion » という言葉をアンリが L’essence de la manifestation(PUF, 1990(1963). 邦訳『顕現の本質』法政大学出版局)と Incarnation(Seuil, 2000. 邦訳『受肉』法政大学出版局)とでどう使っているか調べていたら、前者では、本人の文章の中にはなく、引用文の中に見つかった。 « § 56. Affectivité et sensation » の中の次の箇所である。

[…] l’être affecté et l’affectant ne font pour ainsi dire qu’un, où le premier sans s’opposer encore le second le connaît simplement « dans une communion intime avec lui », comme il arrive « quand l’objet se fond en nous dans le torrent inconscient de la vie végétative » (op. cit., p. 660).

 この箇所で引用されているのは、Maurice Pradines, Traité de psychologie générale. I. Les fonctions générales, PUF, 1943, p. 395 の一節である。 そこで早速プラディーヌの同書原典初版を購入した(送料込みで17€ちょっとと安かったということもあるが)。そのついでに、というか勢いで、プラディーヌのその他の著作も何冊か古本で購入した。
 ちょっと入り口だけ一瞥して引き返すつもりだったのに、ついその濃密な哲学的言説に魅せられて、鬱蒼たる思索の森のなかに引き入れられてしまった。今日ではあまり読まれないようだが、もったいない話だ。
 高橋澪子は、『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫、2016年、初版1999年東北大学出版会刊)の序文で、「心の統一科学としての “未来の” 心理学の可能性について考えることは、同時に近代的二元論(物心二元論)の超克の道を模索することにも必然的につながってくる。この意味で、心理学の課題と哲学の課題は、いまなお不即不離の関係にある」と述べている(ついでだが、この本の「あとがき―レクイエム」は、病弱な著者が学生時代から学究生活を通じてさまざまな学恩を受けた優れた師たちを心をこめて追想しているとても感動的な文章だ)。このような心理学と哲学との不即不離の関係にある課題に正面から取り組み、独自の哲学的心理学を構築した一人がプラディーヌだと言うことができるだろう。
 因みに、プラディーヌがストラスブール大学に一般哲学の教授として赴任してきたのがちょうど百年前の1919年。プラディーヌは当地にその後十八年間留まる。1923年にその講筵に列した新入生の一人がエマニュエル・レヴィナスである。













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