内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「はかなし」攷(最終回)― 王朝から中世への不可逆的な移行

2016-01-23 12:15:33 | 読游摘録

 塚本邦雄の『王朝百首』中には八首「はかなし」(あるいは「はかなさ」)を含んだ歌があり、昨日まで一日に一首ずつ、塚本の鑑賞文に導かれながら、それらを読んできた。それは、『百人一首』には「はかなし」という形容詞やその派生語を含んだ歌は一首もないことと際立った対照をなしているこの『王朝百首』の傾きの理由を探るためであった。
 在ることを「はかなし」とする感受性が王朝美学の基調をなしているとしても、それだけでこの傾きを説明することはできない。この形容詞およびその派生語を含んでいなくても「はかなし」の感受性を表現している歌も少なくないからである。
 塚本邦雄には、やはり、「はかなし」という言葉そのものへの特別な思い入れがあるのであろう。特に、この語の響きが他の語のそれと美しい階調をなしている歌への評価が高いことからもそれがわかる。言葉の響きとその意味とがこれほど調和している言葉も少ないと感じていたのかも知れない。
 實朝歌からの撰歌で二首とも「はかなし」が使われている歌を選んでいることがとりわけ目を引く。私はそこに塚本邦雄の詩魂の共鳴を聴く思いがする。實朝自身が王朝風宮廷生活に一種の憧憬を持っていたとしても、實朝の「はかなさ」の感受性は在るものすべての虚しさにまで達してしまっており、實朝の絶望はこの世のどんな慰みによっても紛らわすことができない。その絶望の中に生まれた歌は、凄絶なまでに美しく虚空に響く。
 このような響きの歌が己のうちから生まれてくるのを聴いてしまった魂は、もはやこの世のどこにも憩うことはできない。「はかなし」と嘆ずることさえ虚しい。もはや王朝美学の世界に安住することはできない。王朝から中世へと決定的に世の中が変わっていく転換点に實朝は為す術もなく佇立している。
 實朝を読むということは、私たち自身の実存の次元において〈王朝的なもの〉から〈中世的なもの〉への不可逆的な移行を生き直すことに他ならない。




























































最新の画像もっと見る

コメントを投稿