内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

二週間後の自宅待機令緩和措置についての独り言

2020-04-27 23:59:59 | 雑感

 フランスでは五月十一日から自宅待機令が段階的に緩和されていくことになっている。しかし、科学者たちからも教育現場からも各地方自治体からもさまざまな批判が出ている。疫学者・免疫学者・ウイルス感染学者たちからは第二の感染爆発を引き起こしかねない時期尚早な選択であること、教育現場からはいわゆる社会的距離を教室内で確保しながら授業を行うこととオンライン授業を同時に継続することは無理であること、地方自治体からは公共交通機関でのマスク着用の義務化を徹底させることの困難であることなどの問題が指摘されている。もちろんそれだけではない。
 今回の決定の主たる理由の一つとして、自宅待機令の長期化で顕在化し拡大しつつあるいわゆる社会的格差をこれ以上放置できないということを大統領は強調していたが、言うまでもなく、これは表向きの大義名分に過ぎない。実のところは、経済復興を重視した政治的決定である。国民の健康と安全な生活という観点からはきわめて大きな危険を孕んだ選択だと言わざるを得ない。どんなに用心しても、社会的混乱は必至だろう。
 この決定の結果として、第二の感染爆発が引き起こされれば、医療崩壊は現実のこととなるのはほぼ間違いない。抗体の形成が免疫性の獲得を必ずしも保証せず、仮に免疫性が獲得されたとしてもその効力は数ヶ月か一年程度でしかないと言われている。もしそうならば、いわゆる集団免疫理論が正しいとしても、国民の六、七割が免疫を獲得したところで、それで Covid-19 を抑え込める保証はない。確実な治療効果が実証されたワクチンのみが科学的に見て有効な治療法だが、ワクチンの開発にはどんなに急いでも一年以上かかるとも言われている。
 消去法で考えれば、自宅待機令をできるだけ長く維持して、入院患者数が十分に減少し、医療体制が全体として余裕がもてるようになるまで待ち、その間、マスク・人工呼吸器・検査機器その他、第二の感染拡大が起こった場合により効果的に即応できる体制を整えるのが、現状での最善の判断だと私は考えるが、考えただけでは何の役にも立たない。「お上の事には間違いはございますまいから」と自宅でテレビの討論番組をぼんやりと見ながら呟くことくらいしか私にはできない。
 大学では授業も試験も九月まではない。会議もほぼすべてオンライン会議である。そもそもその会議も少なく、あっても短いのはありがたい。文系の場合、ほとんどの仕事はテレワークで可能だから、影響は比較的限定的だ。私個人はもう授業をすべて終えているし、試験も六月の追試まではない。その追試もすべてオンライで行われるという通達が今日あった。未経験の方式だから不測の事態もありうる。それを三月の時点で見越して、私が受け持っている科目に関しては、すでに受けた本試験と大学閉鎖後に出した毎週の課題だけで成績を出すようにしたから、追試受験者はほぼ零とみてよい。
 「月月火水木金金」、午前四時起床、その日その日の仕事を粛々かつ淡々とこなし、ときどき読書もし、夕方には一時間歩いて汗を流し、帰宅してすぐにシャワーを浴び、早めの夕食をワインとともにさっさと済ませ、テレビでのその日の出来事を復習し、VPNを使って日本の好きなテレビドラマを一、二本観て就寝する。そんな日々を私は五月も続けていくだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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理解することと分かること (まや)
2020-04-29 00:43:54
以前の記事で、理解することと分かることの違いにあらためて考えさせられました。
問題は、「分かる」ことや「理解する」ことによって決定された行動の行方だなあと思います。
その行動の方向性や結果が「誤っていた」と分かった場合、「わかる」による過ちの方が「理解」による過ちよりも重大な場合が多いような気がします。「理解」はまさに「理」で「解決」できる部分なので、別の「理」の筋道や別の視点から見ると相対的だという前提がありますが、「わかる」には、時として、生き方の方向を決めてしまうほどの力があるからです。必要なのは、「問い続ける」ことで、不確かなものを受け入れる、ということの方かもしれません。数学や物理も不可能、不完全、不確定の定理や公理を見出しました。
「平常」についても、考えさせられました。
過去は慈しみmiséricordeに属し、未来は神の摂理providenceに属し、現在だけが自分に属する、というキリスト教の言葉にも通じます。「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか(マタイによる福音書6-27)」「だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である(同6,34)」の「明日自ら」がprovidenceなのかとも思いました。
過去や未来による限定性を切り捨てたとしても、関係性は切り捨てられないし、その関係性を生きるのは、「個物である私」でなく関係性の中での「私たち」なのかも。
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