内的自己対話-川の畔のささめごと

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『論語』と『聖書』、「敗北者のための思想」― 白川静『孔子伝』より

2022-03-28 23:59:59 | 読游摘録

 先日の記事でちょっと触れた白川静の『孔子伝』(中公文庫 2003年)をこれから読んでいきたい。この本の初版が中央公論社から中公叢書の一冊として刊行されたのは昭和四十七年(1972)、いまからちょうど五十年前である。その数年後に購入して読んだ記憶がある。しかし、情けないことに、中味はほとんどきれいさっぱり忘れている。名著に対して大変申し訳ないことだが、読み手であるこちら側の理解の程度が低すぎたということである。
 巻末に「文庫版あとがき」が収められている。日付は平成三年一月となっているから、現行の文庫版の前身の中公文庫版に付されたものの再録であろう。初版刊行後約二十年後に書かれた文章である。そこから読み始めたい。本書についての感想を述べるのは後回しにして、この「あとがき」から摘録し、著者がどのような状況で『論語』を読み直し、どのような孔子像を刻もうとして『孔子伝』を書いたか、まず見ておきたい。
 『論語』を教室の講義のためでなく、自らのために読んだのは、敗戦後のことだったという。机辺には、『論語』と『聖書』とがあった。

別に思想としての要求や、入信をもとめてのことではない。暗い海の上をひとりただようて、何かに手をふれておりたいという衝動があった。それには、どのような角度からでも接近できるものが、よかったのであろう。それで順序も立てず、ながめるようにして読んだ。そして読むうちに、この二つの書が、敗北者のための思想であり、文章であると思うようになった。読んでいると、自然に深い観想の世界に導かれてゆくような思いであった。

 戦後の混乱期から次第に秩序も回復され、研究生活への戻っていかれた著者は、昭和四十三年、勤務校での大学闘争が一応沈静化したのち、孔子論を書くきっかけについてこう記している。

紛争は数ヶ月で一おう終熄したが、教育の場における亀裂は、容易に埋めうるものではない。特に一党支配の体制がもたらす荒廃は、如何ともしがたいもののようである。私はこのとき、敗戦後に読んだ『論語』の諸章を、思い起こしていた。そして、あの決定的な敗北のなかにあって、心許した弟子たちを伴いながら、老衰の身で十数年も漂白の旅を続けた孔子のことを、考えてみようと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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