内的自己対話-川の畔のささめごと

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「春が来るなら、花が咲く」 ― 日本語についての省察(4)

2013-06-30 06:00:00 | 日本語について

 仮定文を構成する文要素として、四つの接続助詞「と」「ば」「たら」「なら」を初歩で習うが、これらを一通り習った後に、総復習として、これら四つの接続助詞の間にある意味の違いを学生たちに説明する。その際、以下のような、文法的にはいずれも可能な四つの例文を示し、そのうちどれが不自然かと問う。この問いに対して、ちゃんと理由を明示して正確に答えられる学生は、非常に優秀な学生である。
     例文1 春が来ると、花が咲く。
     例文2 春が来れば、花が咲く。
     例文3 春が来たら、花が咲く。
     例文4 春が来るなら、花が咲く。
 日本語を母語とする日本人であれば、即座に、例文4がおかしい、と気づくであろう。では、なぜそう感じるのか。そう聞かれると、説明に窮する方も少なくないのではなかろうか。何がおかしいのだろうか。この違和感の理由を突き止めるために、四つの接続助詞の機能を順に見ていこう。
 「と」と「ば」は比較的簡単に説明できる。前者は、その格助詞としての機能の場合と同様に、二つのものを並置する、あるいは連続した事象として示すことがその基本的機能である。例えば、「2に3を足すと、5である」という文は、「2に3を足すという操作の結果、直ちに5が得られる」ということを言っている。「次の角を右に曲がると、駅が見える」という文では、「次の角を曲がる」という動作の直後に「駅が見える」という新しい場面が与えられるということが表現されている。記号化すれば、「P→Q」となろう。「ば」は、まさに条件を仮定するのがその機能だ。「2と3を足せば、5である」というとき、「2と3を足す」という条件が満たされたとき、その足し算の結果として「5」という答えが得られるということを言おうとしている。しかし、「2+3」は十分条件ではあっても必要条件ではない。言い換えれば、「5」という結果を与える条件は、他に無数に考えられる。そのうちの一つの条件が「2+3」である。したがって、記号化すれば、「P⊂Q」となる。
 次に「たら」を見てみよう。これはもともと接続助詞だったのではなく、元は古語の完了の助動詞「たり」の未然形だったことを思い出せば、その機能を説明することができる。その説明の前に一言補足。古語にはもう一つ助動詞「たり」があり、こちらは断定の助動詞と呼ばれる。よく古文の試験問題で両者の区別を問う設問を見かけるが、これは接続の違いで見分ける。完了の「たり」は動詞または動詞型活用の助動詞の連用形に接続し、断定の「「たり」は体言に接続する。上記の例文3でも、「来たら」の「来」は「来る」の連用形であるから、「たら」が完了の助動詞「たり」を起源とすることは明らかである。この完了の「たり」の基本義は「すでにそういうことがあって、その事態の影響が、そこで述べようとしている時にまで及んでいること表す」ことである(旺文社『古語辞典』第10版)。そこから、接続助詞「たら」の機能は、「すでにそういうことがあったと仮定する」ことだという帰結を導くことができる。したがって、例文3は、「すでに春が来た、としてみよう。そうすると、花が咲く、という結果が得られる」ということを意味しているのである。
 さて、いよいよ問題の「なら」である。ここでも古典語の知識がものを言う。接続助詞「なら」は古語の断定の助動詞「なり」の未然形を起源とする。ここでも「たり」の場合と同様、もう一つ別の助動詞「なり」がある。伝聞推定の「なり」である。この両者の区別も古文の試験問題では頻出する。やはり接続で見分ける。断定の「なり」は、体言と活用語の連体形に付く。伝聞推定の「なり」は、活用語の終止形に付く。ラ変型には連体形に付く。しかし、残念ながら、この見分けのポイントは現代語では使えない。なぜなら、動詞の終止形と連体形が同形だからである。とはいえ、接続助詞の「なら」に伝聞推定の意味はないことは明らかであるから、ここではそれを問題にする必要はないであろう。断定の助動詞「なり」の基本義は、「まちがいなくそうであると判断する気持ちを表す」ことである(同辞典)。そこから、接続助詞「なら」の機能は、「そのように断定してよいと仮定する」ことだという帰結が導き出せる。したがって、例文4は、「春が来る、そう断定してよいとしよう。すると、花が咲く、という結果が得られる」と言っていることになる。つまり、この例文の「なら」は、この文の話者に、そう断定する意志があることを含意している。ところが、春は、私たちの断定の意志とはまったく無関係に必ずやって来る。にもかかわらず、この文の「なら」は、そこに話者の意志を介入させようとしている。例文4に私たちが感じる違和感の理由はここにある。一般化して言えば、意志とは無関係に必然的成立する自然現象について記述する文に、「なら」という話者の断定の意志を含意した文要素が含まれているとき、その文は私たちに違和感を覚えさせる、ということである。では、やはり自然現象を記述している、「明日雨が降るなら、河が氾濫する」という文には、なぜ違和感を覚えないのだろうか。もう答えは明らかだろう。それは、同じ自然現象でも、明日雨が降ることは必然的現象ではないから、話者に仮定的な断定をする意志を持つ余地を与えるからである。


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