内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「から」と「ので」との差異について(承前) ― 日本語についての省察(3)

2013-06-29 05:00:00 | 日本語について

 まず、「から」の基本的意味を見直してみよう。「から」は格助詞としての用法と同様、接続助詞の場合も、基本的に「起点・出所」を示す。つまり、そこから何かが出てくる〈場所〉を指している。どういうことか。それは、「から」がその末尾に置かれた節は、その節に表現された命題Pが、「から」以下の節に示される帰結 Q を導くために、「必要十分な条件」であることを示している、ということである。つまり、他の諸条件を考慮することなしに、命題Pから、帰結 Q が直接に論理的に導き出せることを「PからQ」という複文は示しているのだ。つまり、この文は、「条件Pが与えられれば、必ず帰結 Q が得られる」ということを意味しているのである。
 では、「ので」の方はどうか。これは、学校文法に従うと、準体助詞「の」と格助詞の「で」に分解できる。しかし、私は次のように考える。「の」は文を名詞化するだけの機能詞、「で」は断定の助動詞「だ」の連用形。つまり、「ので」がその末尾に置かれた節は、その節に表現された命題Pを断定して、後続の節に繋いでいるだけなのである。言い換えれば、命題 P は、事実として主張されているだけで、帰結 Q に対して、論理的に必要十分条件という価値は持っていない。「P のでQ」という複文は、したがって、「Pは事実である。その結果として、あるいはその事実に引き続いて Q が発生する」ということを意味しているのである。
 以上の説明を前提として、昨日の記事で挙げた4つの例文を順に見直していこう。
     例1 毎朝プールに行く から/ので、毎日早起きしている。
     例2 日本語を勉強している から/ので、日本へ行きたい。
     例3 自分で新しいのを買う から/ので、その古い辞書はいらない。
     例4 雨が降っている から/ので、出かけたくない。
 例1と例2を見て、もし「から」の方に若干の違和感を覚えた方がいらっしゃったとすれば、その違和感は以下のように説明できる。「から」の場合、上に述べたように、その命題は必要十分条件を示している。つまり、「毎朝プールに行く」ことが、「毎日早起きする」ことを必ず結果としてもたらすと言っていることになる。ところが、この文だけでは、「毎朝」何時のことなのかわからない。それは9時からかも知れない。そしてプールは自宅から徒歩3分のところにあるかも知れない。その場合、何もそんなに早起きしなくてもいいではないか。つまり、「毎朝プールに行く」ことだけでは「早起き」の必要十分条件を構成しえない場合が多々あるにもかかわらず、それを必要十分条件として提示していることに違和感を覚えることがあるわけである。例2についても同様のことが言える。「日本語を勉強している」ということは必然的に「日本に行きたい」という願望を抱かせるわけではない。にもかかわらず、「から」を使うと、「日本語を勉強している」ということさえ条件として与えられれば、必ず「日本に行きたくなる」と言っていることになってしまう。しかし、そうとは限らない例がいくらでもありうる。例えば、日本語には関心があるが、日本には興味がないという人もありうるだろう。以上の考察から、違和感の理由をまとめると、「通常必要十分条件ではありえない条件を必要十分条件として主張しているから」ということになる。
 では、例3については、どうであろう。これについては、もっと微妙な場合分けが必要だ。辞書を上げるよと人が言っているのに、それを断るわけだから、その人に対して失礼にならないように断るにはどう言ったらいいだろうか。例えば、「自分で新しいのを買いますから、どうぞお気遣いなく」と言うとき、相手の自分に対する気遣いの必要をなくすには「自分で新しいのを買う」だけで必要十分だと考えているわけで、これはいい意味にも悪い意味にも取れる。「自分で新しいのを買う」だけで、私はあなたにもう余計なご心配を掛けないですむ、ということも意味しうるし、反対に、「自分で新しいのを買う」という条件だけで、あなたの親切な申し出は不必要になる、つまりあなたの世話にはもうならない、ということも意味しうるからである。つまり、誤解のリスクをそれだけ生みやすい。その点、「ので」は無難である。「自分で新しいのを買う」という事実を示しているだけで、それだけで申し出を断るのに十分だとまでは言っていないからである。
 例4はどうか。「から」の場合、「雨が降っている」という条件だけで、「出かけたくない」という気持ちが生まれるのに十分だと言っているのである。ところが、「ので」の場合、事実として「雨が降っている」ことは示されているが、それだけで「出かけたくない」という気持ちが必然的に生まれたとまでは言っていないのである。雨が降っている、しかし、傘がない、あるいは、傘を持って外出するのが億劫だ、それで「出かけたくない」のかもしれない。他にも要因はありうるだろう。つまり、「PのでQ」の場合、命題Pと結果 Q との間に、他の中間項の介入の余地が残されているのであり、その介入要素によっては結果 Q が得られない場合も完全には排除されていない。
 ここまで来れば、仕事を発熱で欠勤したいと上司に連絡する場合、「ので」が選ばれる理由がもうわかるだろう。「熱があるから、休みたい」という文は、「熱がある」という条件だけで「休みたい」という要求が正当化されると主張している。つまり、この条件と帰結の関係は、論理的必然であり、そこには誰も、たとえ上司と雖も、介入の余地がない、と主張していることになるのである。それゆえ、このような連絡の仕方は、上司の判断を仰ぐ前に、自分ですでに欠勤を正当化しようとしていることになり、それゆえ、上司を上司とも思わない無礼な態度だ、というリアクションを上司の側に引き起こしかねないのである。他方、「熱があるので、休みたい」という文は、「熱がある」という事実を示し、その結果として、あるいはそれに引き続いて、「休みたい」という気持ちが生まれた、と言っているだけで、「熱がある」ことだけで自分の欠勤を正当化しようとまではしておらず、その分、相手にも介入の余地を残すことになる。だから、相対的に、「ので」の方が「から」よりも、表現として丁寧、というよりも、主張として控え目、と言うことができるのである。

 以上の説明が飲み込めたとして、最後に応用問題を一つ。
 遠距離恋愛をしているカップルを想像してみよう。もうかれこれ5年、普段は日本とフランスに離れ離れ、年に数回、何週間か一緒に過ごすことができるだけ。離れているとき、もちろんメールは毎日のようにやり取りするし、スカイプでも定期的に話している。でも、やっぱり、時々、これからのことが不安になったり、相手を疑う気持ちが心をかすめたりしてもおかしくない状況。それにもかかわらず、あなたは彼あるいは彼女のことを心から愛しているし、愛する人のことを少しも疑っていない。そのとき、あなたは、その気持をどのような日本語で相手に伝えるだろうか。もちろん「から」あるいは「ので」のどちらかを必ず使ってという条件付きの問題。
 「あなたを愛しているから、信じている」と言うことはあっても、「あなたを愛しているので、信じている」とは言わないのではないだろうか。理由はもうわかるだろう。前者は、「愛は信の必要十分条件」、言い換えれば、「愛さえあれば信じられる」と明言しているわけで、愛の宣言として相応しいが、後者は、「愛しているのは事実だ、その結果として信じている」と言おうとしていることになり、「愛していても、信じられなくなる」という可能性がそこから完全には排除できていないからである。だから、私たちは、迷わず(と私は思うのだが)、なぜそうなのかを知らないままに、前者を選ぶ。
 しかし、残念なことに、現実には、日本人でさえ、愛に関しては、この「から」と「ので」の用法を間違えてしまうことがしばしばあるようだ。


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2 コメント

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「わかる」ってなに? (texas-no-kumagusu)
2014-02-03 20:47:31
では、何故「から」は必然な条件として使われるようになり、「ので」は必然とは限らない条件で使われるようになったのでしょうか。

そもそも文法はそれを母国語で話していない人のための指針として存在しているので、母国語を話している人は決して文法を頼りに話しなんかしていません。だから、文法を根拠に説明されても母国語を話している人の疑問に答えたことにはなってい「ない」と思う「ので」すが、どうでしょうか。外国人に説明する場合にはいざ知らず、母国人に説明するためには別な切り口が無いと説得不足のような気がします。

思い付きですが、

1)PだからQをする。
2)PなんでQをしない。

1)は肯定の場合にスッキリし、2)は否定の場合にスッキリした「感じ」がします。

多くの国の言葉ではどういう訳か、否定を表すのにN音を使います。日本語もその例外ではありません。(私の知る数少ない例外は、ギリシャ語の Ναι(Yes)/Οχι(No)です。)

だから、「ので」に現れるN音にさらに否定が伴われると日本人は自然に感じるのではないでしょうか。相手を否定することを嫌う日本人は、言い訳がましく否定の「感じ」を二度重ねることで、失礼を避けようとしていると考えられないことはない。

その反対に、恋愛の際には本心を媒体なしに解って欲しい。だから、「ので」と否定を感じさせる表現を使わずに「から」と肯定的に表現したくなってしまう。

実際、遠距離恋愛などは少なくとも一度は相互の愛のが確信が無ければ出来るものではない。だから、「から」で愛の押しつけができる。

それに対して、こちらが恋をしているのにまだ相手の気持ちが判らないで悶々としているときには、「から」ではなく「ので」が頻繁に出てくる「ので」は「ない」でしょうか。

母国語の説明には、文法構造の論理的正当性に基づいた説明よりも、「感じ」を根拠に説明する方が、より論理的だと思いますが、どんな物でしょうか。
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説明の難しさ (franoma)
2016-06-11 18:51:24
恋愛に或る程度は投影はつきものだとは存じますが、
一方的に投影だけしているエンパスさんは
「愛しているから、信じている」
と押し付けることができるのです。

本当は、押し付けられた側は、ありがた迷惑かも知れませんよ?
「わかったつもりの」エンパスさんが得てしてストーカーさんになりますので困ります。ストーカーさんどころか、阿部定さんみたいに相手を殺害して外陰部を切り取って持ち去るかも知れません。あるいは、歌織さんのように相手に経済的DVをやり、相手がキレたらDV夫だということにして、バラバラ殺人事件をやるかも知れません。
参考:
http://bit.ly/1TCgdYh

しかし、こうした現象は恋愛問題というよりもPTSD問題に過ぎないわけです。
身も蓋もない話で申し訳ないことです。

また、
「愛していても、信じられなくなる」可能性を排除してはなりません。
それを排除してしまうと、配偶者が子どもを殺害しようとしている場合に、
配偶者のみを盲信して、子どもを殺害させてしまうからです。そうなると、子殺しをしてしまったまたは殺害未遂を繰り返した配偶者も子どもも不幸ですね。殺害未遂に終わった場合も、PTSDの震源は配偶者=加害者型PTSD( http://bit.ly/1RAvSY8 )です。それゆえ「安全確保」が必要になります( http://bit.ly/1PczLNd )。

未必の故意によって実母から殺害されそうになった女性の症例については
http://bit.ly/mumAbused-PTSD
が参考になります。

この未必の故意によって実の娘を殺害しそうになった女性は、恋愛体質で恋に生きる女のようですが、PTSD発生源ゆえ困ります。そういうケースでない場合にかぎり、
「他人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死ね」
と言われるでしょう(←集合的無意識の素直な主張)。

そうは言っても、
「他人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死ね」という命題も、
「知の欺瞞」( http://bit.ly/1to6wUJ )を放置しているかぎり
常に真とは言えません。そのことを今日、ツイッター上で説明しようとしたらブロックされました。説明が悪かったようです。
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