内的自己対話-川の畔のささめごと

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獄死した三木清の死亡確認ため豊多摩刑務所に行った少年の話

2021-07-03 09:38:52 | 読游摘録

 歴史人口学者の速水融の自叙伝『歴史人口学事始め―記録と記憶の九〇年』(ちくま新書 二〇二〇年)に、当時一六歳になる直前の著者が豊多摩刑務所に三木清の死亡確認のために伯父から頼まれてでかけたときのことを語っている一節がある。
 伯父とは農業経済学者の東畑精一のことで、その妹喜美子は三木清の妻だった。それにしても当時まだ中学生だった著者になぜ死亡確認のために刑務所まで行かせたのだろう。その理由については何も記されていない。死亡確認といっても、遺体との対面確認が許されたわけではなく、対応した事務官が著者に死亡を伝えただけである。一九四五年九月二七日、三木の獄死の翌日のことである。このとき受け取った回答が伯父に報告され、伯父は方々へ電話し、遺体の引き取り、葬儀の実行、マスコミへの発表などを行った。
 三木の逮捕に至る経緯をざっと述べておく。一九四五年二月、ゾルゲ事件で捕まっていた高倉テルが警視庁で尋問中に脱走した。三木の埼玉の疎開先を訪れ、一夜寝食を共にした。寒い季節なので、逃走を続ける高倉に三木は自分のコートを与えた。高倉は次の友人宅を訪ねようとしていた途中で逮捕される。取り調べで、高倉の着ていたコートに三木のネームが入っていたことから、三木が治安維持法違反者の高倉を匿ったことがわかる。それで、三木もまた天下の悪法治安維持法によって逮捕され、七ヶ月後、敗戦から四十日余りたった九月二十六日、拘置所の劣悪な環境の中で獄死する。
 三木獄死事件との直接の関わりを語った後、著者はこの事件に関する自分の意見を述べている。その中でこう記している。

 寒空の下、人にコートを与えるというきわめて人間的な行為が、危険人物の保護・援助とみなされ、三木は治安維持法違反で逮捕されたのだ。治安維持法を拡張解釈すれば、コートを与えるという善意さえも命取りになるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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