内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日常の通勤風景の中で聴くグレゴリオ聖歌による日常空間からの離脱と存在の異貌の現前

2017-03-29 20:40:14 | 雑感

 26日日曜日に夏時間に切り替わって、日没が一時間遅くなりました。毎年のことですが、夏時間に来切り替わった直後は、春の到来を飛び越して、いきなり夏が近づいて来たような気分になります。それが言い過ぎだとしても、年度の終わりももう遠くないなあという、嬉しいような切ないような気持ちで胸が満たされます。今日のようによく晴れた空の蒼さが深い日だとなおのこと。
 自転車でのキャンパスと自宅との行き帰りに音楽を聴くことがソニーのワイヤレス・ヘッドホン MDR-1000X を昨年秋に購入して以来習慣となりました。ノイズ・キャンセリングをONにすると外部の音がほとんど聞こえなくなり、自転車で車道を走行する際これは危険ですから、音量は控えめにしますが、それでも、見慣れた風景が音楽なしのときとは違って見えます。
 どんな音楽を聴きながら走ろうかと、アップル・ミュージックの膨大な音源から探すのも楽しみの一つになりました。まあ、それでもだいたいはクラシック音楽の中から風景と季節にあった「穏当な」選曲になることが多いのですが。
 先日、そんなありきたり選曲がちょっとつまらなく感じられて、何を思ったか、グレゴリオ聖歌を講義の後の帰路の音楽として選んじゃったんです。そうしたら、選んだ自分でもちょっと驚いたのですが、いつもの通勤路の風景がガラッと違って立ち現れて来たのです。というか、普段馴染んでいる空間から自分が離脱してしまいそうな不思議な気分になったのです。日常の風景が遠ざかり、誰もいない空間の中に放り出されたような。音楽によって、自分の周りの一切の存在についての判断中止が到来したかのような。
 あるいはこう言ったほうがいいのかも知れません。日常の風景の中では普段見えていない存在の相貌がグレゴリオ聖歌の異化作用によってそこに現前したのだ、と。













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