内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

障子越しの光と影の美しさ ― 小泉八雲『心』から

2018-09-09 23:59:59 | 読游摘録

 日本への帰化手続きが済み、ラフカディオ・ハーンが日本名「小泉八雲」を名乗るようになったのは、来日から六年後の一八九六年二月のことである。この年、ハーンは四十六歳になる。同年三月、随筆・評論集 Kokoro(『心』)がボストンのホートン・ミフリン社及びロンドンのリバーサイド・プレス社から同時出版される。
 本書に収められた十五篇の一つに « From a traveling diary »(「旅の日記から」)と題された日記式の随想がある。長さの異なる七節からなっている。その第二節は、「四月十六日 京都にて」と前書きされている。一八九五年の京都滞在の折に綴られた文章である。その冒頭の障子越しの光と影の描写が美しい。

 The wooden shutters before my little room in the hotel are pushed away; and the morning sun immediately paints upon my shoji, across squares of gold light, the perfect sharp shadow of a little peach-tree. No mortal artist — not even a Japanese — could surpass that silhouette! Limned in dark blue against the yellow glow, the marvelous image even shows stronger or fainter tones according to the varying distance of the unseen branches outside. it sets me thinking about the possible influence on Japanese art of the use of paper for house-lighting purposes.
 By night a Japanese house with only its shoji closed looks like a great paper-sided lantern, — a magic-lantern making moving shadows within, instead of without itself. By day the shadows on the shoji are from outside only; but they may be very wonderful at the first rising of the sun, if his beams are leveled, as in this instance, across a space of quaint garden.

 宿の私の部屋の雨戸は繰られ、さっと差し込む朝日が、金色に光る四角に区切られた障子の上に、小さな桃の木の影をくっきりと完璧に描き出す。人間の芸術家には、たとえ日本人といえども、この影絵を凌ぐことはできまい。黄色に輝く地に浮かび上がる紺の素晴らしい画像は、ここからは見えない外の枝の遠近によって色の濃淡さえ変えてみせている。私は、家の採光に紙を用いたことが日本の芸術に与えた影響について考えさせられる。
 夜、障子を閉めただけの日本の家は、紙を張った大きな行灯のように見える。外にではなく内側に動きまわる影をうつす幻灯機だ。日中、障子の影は外からだけだが、日が出たばかりの時、ちょうど今のように、趣のある庭越しに光線が真横からさしていれば、影は大変見事なものとなるだろう。(河島弘美訳、平川祐弘編『日本の心』講談社学術文庫、101‐102頁)

 生まれたときから青年期までを過ごした今はもうない旧宅の離れは純日本家屋だった。庭に面した部屋は、縁側、雨戸そして障子の引き戸で庭と隔てられていた。雪あかりの障子越しのやや黄色みを帯びた乳白色の柔らかい光のことなど、覚えている。懐古趣味に浸る気はないのだが、こうした日本家屋の美しさが失われてしまうのはやはりまことに残念に思う。












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