内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

明確な方法論に基づいた近世・近代再考、そして共生社会構築のためのヒント

2019-09-29 15:13:10 | 読游摘録

 大橋幸泰の『潜伏キリシタン』の序章には、同書で採用された三つの方法が明確に述べられている。
 第一が、呼称への注目。キリシタンがそれぞれの時代にどのように呼ばれていたかを見ることで、その呼称を使用する人びとが対象に対してどのような意識と評価をもっていたかを探り、キリシタンに対する意識と評価の変遷を辿る。その変遷過程は、当時の社会状況の変化とも相関的である。
 第二は、異端的宗教活動という横断的な枠組みで潜伏キリシタンを捉えること。各宗教について個別的に問題を見るのではなく、世俗秩序を脅かす存在としての“異端”として、横断的にそれらの活動を捉え、その上で、潜伏キリシタンの営みの特異性を明確化する。
 第三は、属性論という認識方法。キリシタンに限らず、どんな宗教活動に関わる者であっても、社会において信者という属性しか持たないということはありえない。社会において、一人の人間が複数の属性を持っているのは当然のことであるが、宗教が問題にされるとき、この点が看過されがちである。しかし、江戸時代を通じてのキリスト教信仰の継続を、信者の強靭な信仰心によってだけ説明することには無理がある。
 これら三つの方法を用いながら、キリシタン禁制という宗教政策の変遷と近世人との関わりについて検討することを通じて、宗教統制から宗教解放の時代への転換とイメージされやすい、近世から近代への秩序の転換の実態とその意味について本書は考えていく。
 今年の一月に書かれた「学術文庫版へのあとがき」からも少し摘録しておく。

信徒はキリシタンという属性だけで生きていたのではない。キリシタンをめぐる問題はもっと複雑である。「強い」「弱い」という、キリスト教教団の側に立った評価で彼らの動向を割り切るのではなく、生業や村民といったキリシタン以外の諸属性を念頭に置いてこそ、ようやくキリシタン信徒の営為の意味を理解できる。

潜伏キリシタンから私たちが学ぶべき点は彼らの復活ストーリーではない。潜伏期における諸属性の共存という事実にこそ、二十一世紀に生きる私たちは注目すべきではないのか。異なる属性の人びとの共存状態が破壊されつつあるいま、諸属性が重層的に存立していた潜伏キリシタンと彼らを取り巻く近世社会に、共生社会構築のためのヒントが隠されているように思う。













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1 コメント

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潜伏キリシタン!? (mobile)
2019-10-01 14:27:26
何か最近『隠れキリシタン』の呼称が『潜伏キリシタン』に変わったのは何故?
世界遺産認定に『隠れ~』という表記に語弊があったのか、意図はわからないが、歴史的名称を勝手に改変するのはいかがなものか、私はそう思う。
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