内的自己対話-川の畔のささめごと

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中国語としての原義からも西洋哲学の伝統からも遠く離れた近代日本における「孤児」としての「主体」

2021-04-24 23:08:25 | 哲学

 今日の午前中は、三時間ほど、昨日の記事で話題にした五冊の漢和辞典を引き比べて過ごした。極々基本的な概念がどう説明されているか比べてみた。それでいくつか面白いことがわかった。
 まず「主」である。単漢字としての用法はどの辞書も詳しく説明してある。だが、私の目当てはそこにはなかった。「主体」がどう説明されているか知りたかった。以下、各辞典の「主体」の説明を列挙する。
 『漢辞海』「【主体(體)】①君主としての地位。②おもなもの。中心部分。③{哲}行為・思考をなすもの。対-客体」。
 『新字源』「【主体(體)】①天子のからだ。転じて、天子。②意識・思考・行為などを行う側のもの。対-客体。」
 『新漢語林』「【主体(體)】①天子のからだ。玉体。②天子。君主。③行為のもととなるもの。目的をとげるはたらきをなすもの。⇔客体。」
 『漢字源』「【主体(體)】①天子のからだ。天子のこと。②客体に対して、行為のもとになっていて、目的をなしとげる働きをするもの。③たくさんのものが集まって一つのもの形成しているとき、その中心となる重要な部分。」
 『新明解現代漢和辞典』「【主体】①天子の地位。また、天子。②〔日〕組織や団体の中心となる部分。例-学生を―とした実行委員会。③〔日〕意志や考えをもち、他のものにはたらきかけるもの。対-客体。」
 どの辞書も、漢語としての「主体」の第一義としては、天子のからだ・地位あるいは天子そのものを指す語であるという点で一致している。どの辞書にも用例が挙げられていないので、具体的な文脈での使用例はわからないし、いつの時代からこの意味で使われていたのかもわからない。この意味でも使用例が日本語文献にあるのかどうかもわからない。ただ、古代中国語における「主体」が近代哲学の概念としての「主体」とは何の繋がりもないことは確かである。今日の日本語でも使われている「中心となるもの」という意味は、『漢辞海』『漢字源』『新明解』に示されている。近代哲学における「主体」概念としての規定は、表現はそれぞれだが、どの辞書も掲げている。それが「客体」と対立あるいは対をなすことも示されている。
 『新明解』だけが、近代哲学用語としての「主体」が日本語での用法であることを表示している。それは「はしがき」にも明記されているこの辞書の特徴でもある。現代中国語でも近代哲学用語として「主体」が受け入れられているかどうかはこれらの辞書からはわからない。
 それはともかく、これらの辞書の引き比べを通じて、漢字文化圏での伝統的「主体」と西洋哲学における近代的「主体」概念との間にはかくも懸隔があること、一九三〇年代からの京都学派による「主体」の乱用は中国を中心とした漢字文化圏と西洋哲学史という二つの伝統の二重の忘却をその条件としており、日本の「主体」は東洋からも西洋からも遠ざかったいわば「孤児」のような存在であることがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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